「第二公園」

 “真ん中の公園”っていう、俺の住んでた住宅街のちょうど真ん中に小さな公園があるんですけど、俺が幼稚園生、小学生の頃は、そこでよく遊んでたんですよ。で、その公園はその住宅街以外からも友達がよく一緒に遊びに来てたんですね。でも、その子達はその公園のことを「第二公園」みたいに呼ぶんですよ。
 俺は幼稚園生ながら、当時、その言葉を聞いたとき、ちょっとした虚しさがあったんです。“真ん中の公園“と俺は呼んでいたけど、その住宅街に住んでいない人にとっては、「何が真ん中?」って感じだったから正式名称で「第二公園」と呼んでいたんだとは思うんですけど。
 でも、当時の俺はその住宅街が、自分の生活の基準になっていて、そこは”街”であったし、なんなら、”世界”であったんです。
 だからこそ、その公園は世界の中心であって、“真ん中の公園“と言う名称は幼心にも、ある種の神聖な意味合いがあったんだと思います。でも、実際は、違くて、“真ん中の公園“は広い世界の中にある、無数の小さい公園の中の一つだった。世界はもっと広かった。
 そして、その象徴が誰かの呼んだ「第二公園」って言う名称だった。そして、なんなら、今でも、やっぱり「第二公園」と聞くと違和感は少しあるんです。

「虚しさ。」

 でも、生きていく限り、そう言った虚しさとは向き合っていかなければならないし、これから先も、そう言う今まで自分の中にある大きな芯のようなものを捨て去らないといけない瞬間はたくさんあると思うんです。
 それには多くの苦痛が伴うと思うし、ニヒリズムに陥ってしまうこともあるとは思うんです。でも、それでも、変化を肯定しつつ、一方で、そういう、ある種の形のなさに絶望しないで、希望に向かって生きていきたいよなぁ、なんて最近、思っています。

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