未曽有因縁経巻上

 このように聞いた。
 仏が舎衛国の祇樹給孤独園にいた時のこと。
 世尊は目犍連に告げた。「そなた、今からカピラヴァット城に行って父のスッドーダナ王と叔母のパジャーパティー、叔父のドロノーダナ王たちにご機嫌伺いをしてきなさい。そして、ラーフラの母のヤソーダラーには、恩愛を捨ててラーフラを沙弥にし、聖道を修習させるように言いなさい。どうしてかと言うと、母子の恩愛は楽しいのはしばしの間で、死しては地獄に堕ちるからだ。母親と子は、お互いを知らないまま、暗い謎を抱えて永遠に別れ、受ける苦しみは数知れず、後悔しても及ばないのだから。ラーフラが得道すれば還って母を済度することになる。永遠に生老病死の根本を断ち、今の私のように涅槃に至らしめる」
 目連(モッガラーナ)は命を受けて禅定に入り、力士が肘を縮め伸ばすように瞬時にカピラヴァット城の浄飯王(スッドーダナ王)の所についた。 そして王、大夫人パジャーパティー、叔父のドロノーダナ王たちに、丁寧にご機嫌うかがいを述べた。
 ヤソーダラー妃は、目連が仏から遣わされた来意を知らず、代理に青衣の女(侍女)をつかわして挨拶に参加した。
 青衣の女は還って言った。「世尊は使いにラーフラを連れてこさせ沙弥にさせようとしています」
 ヤソーダラー妃はこれを聞いて、ラーフラを高楼に登らせ、門番にかたく門を閉じさせた
 目連は妃の宮門に来たが中に入れない。誰も通る者もいない。そこで神力をもって高楼に飛び上がり、坐っているヤソーダラー妃の前に立った。
 ヤソーダラーは目連が来たのを見て憂いと喜びがあいなかば、仕方なく起きて恭しく礼拝し遠路の来訪をねぎらった。そして、座を用意し目連にすすめた。
妃「世尊はお元気ですか。衆生の教化でお疲れではありませんか。使者をよこされたのはどのようなご用件ですか」
目連「太子ラーフラはすでに九歳、出家して聖道を学べる年です。母子の恩愛は幼い時には思いのままですが、ひとたび命つきれば三悪道に堕ちます。恩愛からの離別は全くの闇です。母は子のことを知らず子は母のことを知りません。ラーフラが道を得れば、かえって母を済度します。永遠に生老病死の憂患から救い、涅槃に至るのです。仏が今そうであるように」
妃「釈迦如来は太子の時、私を妻としてめとりました。太子には天神に対するように仕えてきました。過失の一つもありません。夫婦生活が三年にも満たず、太子は五欲の楽しみを捨てて宮城を飛び出し、王の狩り場へと逃れ行きました。王みずから迎えに行っても従わず、戻ってきません。そこで車をやって白馬を隠させ、帰らせようとなさいました。太子は自ら、成道すれぱ帰ると誓い、鹿皮の衣を着てまるで狂人のようになられました。
 山沢に隠れ住み、勤苦六年、仏となって国に帰ってこられました。しかし親にも会わず昔の恩を忘れてしまったかのようです。よそ者のようにふるまい、父母を避けて他国に住んでいます。私はまるで、母子のみで子を抱えて困窮し、生きるつてがなくもはや死ぬしかない人のようです。ただ、命の尊さから自殺はできず、毒のような恨みを抱いてあえて生きている人のようです。人類でありながら畜生にもおよばない、これ以上の災難があるでしょうか。
 そして今、使いをよこし、我が子をその眷属としようとしています。これほど残酷なことがあるでしょうか。太子は成道し、自ら慈悲をとなえています。慈悲の道は衆生を安楽にすると。人の母子を引き離すのは苦しみの最たるものです。恩愛からの離別の苦しみをすすめようとすることのどこに慈悲があるというのでしょう。目連よ、世尊の所にもどって私の言ったことを伝えるのです」
 大目連は種々の因縁をとき喩えをもちいて諫めたが、ヤソーダラーは聴こうとはしなかった。
 そこで辞去して浄飯王の所に戻り、かくかくしかじかと伝えた。
 王はこれを聞くと、夫人のパジャーパティーを呼んだ。
「我が子シッダルタは目連をつかわしラーフラを迎えに来た。道に入れ聖法を学ばせるためだ。ヤソーダラーは女人で愚かなため、いまだ法の要を理解していない。意固地になって恩愛に執着している。感情の分離ができていないのだ。そなたが行って、さとし諫めてはもらえまいか」
 そこで大夫人は五百人の青衣の侍女を引き連れ、ヤソーダラーの住む宮殿へと向かった。
 手を尽くして諫めさとしたが、ヤソーダラーは聴かなかった。
ヤソーダラー「私が家にいた時、八ヶ国の王が求婚してきましたが、父母は許しませんでした。それは、釈迦太子の才芸が人よりすぐれていたため、父母が結婚させようと思っていたからです。もし、太子が世間にとどまらず出家・学道すると知っていたら、どうしてわざわざ苦しみを求めて私を夫人にさせたでしょう。恩を求め歓楽を集め万世にわたって子孫が続くように王家をつがせるのが世の正礼というものです。太子はすでに去り、今度はラーフラを出家させようと求めてきました。国を継ぐ者は絶えてしまいます。何の意義があるでしょう」
 皇后はこれを聞いて沈黙せざるを得なかった。
 この時世尊は、化身を遣って空中からヤソーダラーに告げた。
「そなたは過去の時代の誓いを思い出せるだろうか。釈迦如来は当時、菩薩道を行い、五百枚の銀銭でそなたから五茎の蓮華を買って定光仏にさし上げた。その時、そなたは私に世々生れ変っては共に夫婦になることを求めた。私はそれを受けたくなくて言った。私は菩薩(修行者)なので、どの生れ変りでも、他人の意思に反してでも一切を布施する行願を立てていると。もしそなたがそれを受け入れるのなら妻にしようと。そなたは誓言した。『世々生れかわり、国も城も妻子も我が身も、あなたの施与に従って悔いる心はないと誓います』と。それなのに今、どうしてラーフラを愛惜して出家させず聖道を学ばせないと言うのか」
 ヤソーダラーはこの話を聞いて、忽然として昨日の事のように宿業因縁を思い出した。子を愛する情は自然と消え、目連を呼び、懺悔して謝った。ラーフラの手をとり、目連にあずけ、涙を流して子と別れた。この時、ラーフラは母の愁いと苦しみを見てひれ伏して合掌し、別れの言葉を述べた。
「母上、悲しまないでください。ラーフラは今、世尊のところに行き住むのです。時々は帰って来て母上に会えます」
 浄飯王はヤソーダラーを慰め喜ばせようとして、国中の豪族を集めて告げた。
「金輪王子(ラーフラ)は、舎衛国に行き仏世尊について出家し道を学ぶ。卿らも各々一子を送り、我が孫とともに行かせよ」
 そこで皆は大王の命を奉じそのようにした。
 即時に五十人が集まり、ラーフラに従って仏の所にいき、頭を地に着けて礼をした。
 仏は阿難に命じてラーフラと五十人の諸公王の子を剃髪させ、みな出家させた。舎利弗に命じて彼らの和上とし、大目健連を阿闍梨として十戒の法を授け、沙弥となした。

※ラーフラと50人の仲間たち。全く学童保育のような状況です。スッドーダナ王、なかなかやってくれますね。

 ラーフラはまだ幼く、学習はおこたりがちで、遊びにふけり、法を聴くことを楽しまなかった。
 仏はしばしば警告したが、いつも言うことをきかず、どうすることもできなかった。
 さて、舎衛国のハシノク王は、仏の子のラーフラが出家して沙弥になったと聞き、臣下たち、夫人、太子、後宮の采女、バラモン、居士らを引き連れて表敬訪問し、とり囲んだ。朝、仏の所に詣でて礼拝しご機嫌うかがいをしてから、一面に坐してラーフラを見た。
 仏は王と群臣に説法しようとしたが、ラーフラは学習を楽しまず坐るのも苦として耐えられず、帰りたいと言い出した。
 世尊は、ハシノク王が悟りの端緒についていまだ信が定まっていないので、開悟させ利益(りやく)しようと思い、阿難に告げた。
「そなた、ラーフラ沙弥とその仲間たちを呼び集めなさい。仏の説法を聴かせよう」
 阿難が連れてくると、仏は王に告げた。
「しばしお待ちを。このあとで皆さんには説法をします」
 王は叉手の礼をしつつ言った。
「私は学ぼうとやって来て長く待たされています。坐るのは苦しい。どうか仏よ、哀れみもって対処したまえ」
仏「これを苦としてはならない。なんとなれば、前世で福を植えたために今、人の王となり、いつも宮殿の深くにいて、五欲が思いのままに満たされ、出入りにも足が地に触れることなく運ばれてくるのだ。どうして苦と言えよう。三界の苦は、地獄・畜生・餓鬼の難儀には比べるべくもない。それらの苦については以前説いた通りだ」
 仏はラーフラに告げた。
「仏の世にはあいがたい。法は聞く機会がなかなかない。人の命は保ちがたく道を得るのも難しい。お前はすでに人の身を得て、仏がこの世にいる所に行き会っている。どうして怠けて法を聴かないのか」
ラーフラ「仏法は難しすぎて子供にはわかりません。どうして世尊の法を聴いて受け入れますでしょうか。すでに少しは聞いていますが、憶えられず忘れてしまいます。しんどいだけで何も得られません。今は少年で好き勝手していますが、大きくなったら法を受け入れるに耐えるようになるのではないでしょうか」
仏「万物は無常である。身体もまた保ちがたい。今は命があっても、大きくなったらそうではないかもしれない。どうだ」
ラーフラ「世尊、ラーフラにはどうしようもないことです。仏ですら我が子の命を保証できないのではありませんか」
仏「私にも自分の命は保証できない。そなたの命は言うまでもないことだ」
ラーフラ「法を聴いて徒労をかさね、いまだ道を得ていません。聞法の功は人にとって何の益となるのでしょう」
仏「聴法の功徳は、たとえ今世の身で道を得られずとも、五道輪廻の中で多くの利益となる。以前、般若の智慧、またの名を甘露、良薬、橋梁、大船について話しただろう。聞いていないか」
ラーフラ「聞きました」
 時にハシノク王はひれ伏して合掌し、天尊に言った。
王「仏は今、般若の智慧には四種の別名があると説かれました。その内容はどういう物でしょう。哀れみもて説きたまえ」
仏「よく注意して聴くのです。今から話そう」

 はるかはるか昔、毘摩(びま)という大国があり、徙陀(とだ)という山の中に一匹の野干(ジャッカル。伝統的に狐と訳される)がいた。
 獅子の王がこれを追いかけて食べようとし、野干は恐れて逃げ走った。そして井戸に落ちて出られなくなってしまった。三日がたち、もう死ぬのだとあきらめて偈をうたった。


 禍哉今日苦所逼 便当没命於丘井
(わざわいなるかな今日の苦しみ 丘の井戸に落ちて死ぬとは)
 一切万物皆無常 恨不以身餧師子
(一切万物は皆常ならず 恨むのは身を獅子に食べられなかったこと)
 嗚呼奈何罪厄身 貪惜躯命無功死
(ああ、何の罪によってこの災厄を受けるのか 命を惜しんで走り無駄死にをするとは)
 無功而死尚可恨 況復臭身汚人水
(功なくて死するがうらめしい 汚水につかって臭いのは言うまでもなく)
 南無懺悔十方仏 表知我心浄無已
(南無懺悔十方仏 我が心が清浄であることを知りたもう)
 前世所造三業罪 願於今身償令畢
(前世につくった心口意の三業の罪 願わくば今の身でおわらせたまえ)
 衆罪畢了三業浄 其心不動念真実
(あまたの罪はおわり三業は清められ 心は動かず真実を思う)
 従是世世遭明師 如法修行速成仏
(後世では世々立派な師に遭い 法のままに修行をして速やかに仏とならん)

※偈は歌なので、テンポがわかりやすいよう原文も併記しています

 この時、天帝である帝釈天は仏の名を聞き、身が引き締まる思いでいにしえの仏のことを思った。〈自分は一人で露にまみれ、師の導きもなく、五欲に溺れて自ら沈没し、恩愛の牢獄から出られなかった〉
 帝釈天はその痛切な思いから落涙した。
 そして、八万の諸天とともに飛び下り、井戸へと向かった。
 見れば、野干は井戸の底にいて、両手で登ろうとするが脱出できない。
 天帝は思った。〈聖人が現れたというのに何の手も差し伸べられない。ただの野干にしか見えないが、必ずや菩薩の非凡の器だ。今、問うて我が疑問を晴らしてもらい、あわせて諸天に法を聞かせよう〉
天帝「聖教を聞かずば永遠にむなしい。いつも暗闇にいて師の導きもない。仁なる者は非凡の語をかたる。願わくば諸天のために法を説いてはくださらぬか」
 野干は顔を上げて言った。「お前は天子のくせに礼儀を知らない。時宜を心得ず愚かで傲慢だ。法の師が下にいて自分は上にいる。まったく敬意もあらわさずに法の要を問う。法という水は清らかでよく人を救うことができる。それを欲するというのに、どうしてそう傲慢でいられるのか」
 天帝はこれを聞いて大いに恥じた。
 従者の天たちは、愕然としてから笑った。天王が地上に降りてきた努力を無駄にしただけでなく、恥をかかされて哀れだったからだ。
 帝釈天は天人たちに告げた。
「こんなことで驚いてはいけない。私は恥ずべき頑迷さからよくないことをしてしまった。法の要を聞くにあたっては、そのきっかけが必要なのだ」
 すぐに天宝衣を垂らして、井戸から野干を拾い上げた。 そして叉手してまずこうしなかったことを謝り、叩頭して懺悔し、お願いした。
「哀れみもて明らかにしたまえ」
 諸天もそれにならい懺悔した。
「我らはみな、五欲にまとわれて迷い、よい師の導きで苦・楽・常・無常について教わることもありませんでした」
 諸天は素晴しい料理を用意し、野干は食を得て生きる望みがわいた。そして、思わぬわざわいの中でこのような幸いが得られたことをに、無上の感動と喜びをおぼえた。
 野干は思った。〈畜生道の中でも醜く惨めなことでは野干以上の物はない。智慧の力のゆえにようやくここまで来た。死の危機を免れた命とはいえ、元から愛している命でもない。めでたいとは言っても、大喜びできるのはこの愚かな天を教化できたときのみだ。みな、帝釈天の知恵のほんの少しを与えられ、一緒に来て法を聞きたがっている〉
 そこでみずから感動して言った。
「なんてことだなんてことだ! これにまさる慰めがあろうか。今まさに教化し、我が功徳をなしとげよう」
 そして思った。〈今日の恩があるのは自分一人の力ではない。先師・和上が慈しみ哀れんで智慧と方便を教えてくれた功徳だ。
 南無力我師。南無我師。南無般若。南無般若。
 前世の失敗で悪趣にあっても、なお宿命と業縁を知るのは般若の力。能く諸天を感動させ、神々はおりて来た。したしく供養して教化を得たいと言う。ここはひとつ我がささやかな思いを述べよう〉
 その時、帝釈天は諸天に告げた。「師の言うがごとく、心定めて説法を聞こう。我等が今ここに来たのは、すみやかに善利を得るためだ。今、皆で叩頭して誠意を示し、説法を請おう」
 皆はそうしようと言い、各々右肩を出して敬意を示し、野干を取り囲んでひれ伏して合掌した。異口同音に頌をとなえて言う。


 善哉善哉 和上野干
(善きかな善きかな 和尚の野干)
 唯願説法 開化天人
(願わくば説法し 天人を教化したまえ)
 天人幽冥 五欲所纒
(天人はぼんくらで 五欲にまとわれ)
 恒恐福尽 無常所遷
(いつも福分が尽きることと 死が訪れることを恐れている)
 死堕悪道 求抜良難
(死して悪道におちれば ぬけることは難しい)
 従久遠来 数万憶年 
(はるか昔より 数万億年)
 今始一遇 良祐福田
(今はじめて出会った よい福田)
 唯垂慈哀 宣示法言
(ただ哀れみをもって 法の言葉を示したまえ)
 天人得福 衆生亦然
(天人が福を得れば 衆生にもおよぶ)
 願与和上 永劫相連
(願わくば和尚と 永遠にともにいて)
 至成仏道 常作因縁
(成仏の道にいたり いつも善因縁となり)
 明人難値 故立誓言
(人のあいがたき道を明かしたまえと ここに誓言いたします)

 野干は天人たちが法を聞きたいと丁寧に頼むのを見て、なおさらうれしさがつのった。
 そして天帝に言った。
「私が昔に憶えている所では、世の人で法を聞きたい者は、まず高座を用意して飾り、清浄にしてから法師を呼んで高座から説法してもらったものだ。
なぜかと言うと、経と法は貴重で、敬うことで福を得るからだ。軽々しく言うことは自らの福分を減らしてしまう」
 天たちはこれを聞くと、みなその通りだと思い、天宝衣を積んで高座とし、瞬く間に清浄第一に飾りたてた。
 野干は高座にのぼって天帝に告げた。
「私が今、説法するのは、二大因縁についてだ。一つは説法によって天人を開化すると、無量の福があるということ。二つは施食の恩に報いるという事だ。これらを説かずばなるまい」
天帝「井戸に落ちるという厄難を逃れ、身をまっとうして命を保った。功徳は大きいのです。尊者の説く報恩といえども、これには及びますまい。なぜかというと、世界中の皆が生を楽しみ安らぎを求めるからです。死を欲する者はいません。そんなわけで、命を保てた功は大きくないとは言えないでしょう」
野干「死生のよしとする所は各人各別。ある人は生をむさぼり、ある人は死を楽しみにする。どういう人が生をむさぼるのかというと、死を知らず愚かでぼんくらな人だ。後世に生れかわっても仏と違い法からは遠い。賢い師に遭わず、殺し盗み婬しだます。ただ悪のみに従うのだ。そういう人は生をむさぼり死を恐れる。
どういう人が死を楽しみにするのかというと、賢い師に遭い、三宝に仕える者だ。悪をあらため善を行う。父母に孝養し、師長を敬い仕える。妻子と仲良くし、奴婢眷属には謙譲して敬う。そういう人が生をにくみ死を楽しみにするのだ。なぜかと言うと、善人の死者は福分で天に生れ、五欲の楽しみを受けるからだ。悪人の死者は地獄で無量の苦を受ける。善人は死を楽しみにする。あたかも囚人が出獄するかのように。悪人は死を獄に入るように恐れる」
天帝「尊者のいましめでは、身体と命をまっとうすることは何の功もないことになります。実にその通りなら、二番目の食と法を施すことにはどいう功徳があるのでしょう。どうかお説きいただき、愚か者の目を開かせたまえ」
野干「飲食を布施することで、一日の命が救われる。珍宝を布施して一生を救うことは、因縁にとらわれた生の福を増す。説法教化は法施と言い、よく衆生を出世間の道に至らせる。出世間の道者には三種ある。一は羅漢、二は辟支仏、三は仏である。

※羅漢は、釈尊が教えた修行によって最高位の四果(阿羅漢果)に至った人のことです。声聞の弟子(釈尊の直弟子)の中でも悟りを開いた人を言います。
辟支仏は、独覚とも言い、自力で悟りを得た人を言います。『賢愚経』などでは、神通力を使って不思議な現象をあらわしたりします。時に奇術師っぽいです。
菩薩は、仏道を行う修行者ですが、出世間ではなく、むしろ衆生済度のために世間で活動する人(や神)をさします。

この三乗の人はみな法を聞いて説かれたとおりに修行する。三悪道を免れ、人天の福楽を得るのは、みな聞法による。それゆえ仏は、法布施による功徳ははかりしれないと説いたのだ」
天帝「師は今、野干の身ですが、業報のために応化身となったのですか」
野干「これは罪業の報いで応化身ではない」
※応化身……衆生に応じてこの世に現れた仏の仮の身体

 天人はこれを聞いて押し黙り驚き怖れた。悲しみから心はいたみ涙が目に満ちた。そして居住まいをただしてうやうやしく野干に言った。
天帝「私は、菩薩・聖人が済度のために応化身を現したのだと思っていました。今聞けば、罪業の結果の報いだと言うではありませんか。あわれみもてその由来をお教えください」
野干「よきかな。今、過去世を思い出して説き聞かせよう。

 わしは、バラナ国のパドマ城に、貧しい家の子として生れた。クシャトリアの階級で、名をアジタという。幼くして聡朗で、学問をしたくて十二歳で深山の奥に住むよい師についた。辛苦してつかえ、一生懸命学び、怠けることはなかった。
 師もまた朝から晩まできっちりと成長に合わせて教えてくれた。五十年がたち、九十六種の経書・記・論・医方・呪術・占相吉凶・災異禍福を学び、全て会得した。才能と智徳は四方の辺境まで名が広まった。
 さて、アジタが思うには、〈今日すくわれた身であるのは私の功ではない。尊師和上の教化の恩あってのことだ。その功は報いがたい。我が家は貧乏で供養はできない。我が身を売って師の恩に報いるしかない〉
 そこで師の前にひれ伏して言った。
「弟子は今、我が身を売って師の恩に報いたいと思います」
師「山居の道士なれば、乞食して生きていける。何も足りない物はない。そなたは今、どうして我が身を売って損ないわしに供養したいなどと言うのか。

※62歳の弟子です。

 そなたは今、智慧と弁才を完成させた。今こそ天下人民を教化するべきだ。法灯によって教化の功徳を明らかにすることは、我が恩に報いることに及ばぬわけがない。他のことをしている場合ではないぞ」
 アジタは賢い人だったので、師の教えにそむかず、山中に住んで乞食をしつつ生きた。
 しばらくして国王が崩御した。群臣は集まって会議をし、国中に布告して著名な学者を集め、誰を王として立てるのがよいかを講論させた。
 アジタもまた招集に応じ、五百余人の学者に混じった。
 七日の間、議論をしたが、アジタに勝てる者はいなかった。
 群臣は歓喜し、バラモンを招いてアジタを国王にしようとした。
 アジタは即位が決まると憂いと喜びがこもごも。
〈もし王となれば、驕慢になり快楽を貪り求めて民の災いとなるかもしれない。死後は地獄に行き、因縁によって苦しみを受けるだろう。もし受けなければ、家は貧しく収入もない。師の大恩に報いるための供養もできない〉
 幾度も考えてついに王位を受け、師の恩に報いて父母を養うことにした。
 王位につくとすぐに忠臣をつかわした。飾り立てた宝車に乗り、旗指物と天蓋をかかげ、香花と伎楽、百種の飲食をともなって、山へ師を迎えに行った。
 帰国すると別に宮舎を建てて師を供養した。その様子はというと、七宝の厠に彫刻をちりばめた柱、美しく織りなした絨毯で飾り、ベッドにはふとん、飲食物に医薬がそろい、花や果物の園林、流泉浴池がそなわりまことに素晴しかった。
 アジタ王は国の臣民、夫人、采女とともに、日々師に従い、十善法を受けた。
 百年がたった。国の辺境に安陀羅(アンダラ)国と摩羅婆(マラバ)国という二つの小国があり、国王たちは互いに憎みあっていた。ひそかに兵馬を集め、互いに攻めようとして多くの年月がたったが、少しも得られるものはなかった。
 アンダラ王は群臣を召して会議を開いた。
「どのようにすればあの国が得られるのか」
諸臣「アジタ王は貧乏で卑しい生れです。どうして王位にいられましょう。冷たい視線はまだ向けられています。そして、昔から十善を守り側女を持ちません。宮女はいてもみんな年寄りばかりです。臣の計略はこうです。国中から財や身分を問わず、若い美女百人を選びます。合格者は、飾り立てて香りよく潔くします。忠良な者に貴重な宝を持たせ、選んだ采女たちとともにアジタ王にみつぎものとして献上するのです。もし受け入れられれば、王に強兵百万を援軍として請うのです。このようにすれば帰服しない者はいないでしょう」
 そこでその計略が採用された。
 アジタ王は美女たちと珍しい宝物を手に入れ、大いに喜んだ。そして使者にたずねた。
「かの王がわしにこのようなよい物を貢いでくるのは、何が褒美としてほしいのだ」
使者「大王の配下のマラバ国です。マラバ王は、かたくなでわがまま。教化し済度するということを知りません。婬乱にして無道、国政は筋が通らず、
民は苦しみ王を怨んでいます。そこで大王から特別に兵百万をお送りいただき、マラバ王を降伏させたいのです。奉献のまことの狙いはここにあります」
王「とてもよいことだ」
 そこで、精鋭の兵百万を集めて送った。
 アンダラ王は自らも国中から百万人の兵士をつのった。みなが助けあい、太鼓の音も高らかに進軍した。
 百日の闘いで死者は過半、勝利を得て、マラバ王は斬刑になった。その一族は数千万人、一瞬にして滅んだ。
 アジタ王は女たちを得て、心がまどいもとの志を失った。贅沢、淫欲、着物、音楽にふけり、国政をかえりみなくなった。官僚たちは相争い、良民の子はつかまって奴婢にされた。
 季節外れの風雨によって、飢餓が蔓延した。異国の敵が攻め込み、アジタ王は国を失い、逃亡して亡くなった。そして地獄に生れかわった。身は茨の毒を受けて痛んだ。前世の学問と知恵の力で前世を知った。心から悔やみ自責し、改悪修善を思った。須臾の間で地獄の命は終り、餓鬼に生れかわった。またしても過去世を知り、過ちを悔いて十善をしようと思った。須臾の間で餓鬼の生はおわり、畜生として生れかわり野干の身を得た。智慧の力でまた宿命を知り、過去の行いを改めようと十善を奉持した。そして他の衆生に十善を行わしめた。すぐ前には獅子に遭い、恐れから丘の井戸の中に落ちた。心安らかに死後の生天を、苦を離れて楽を受けることを待ち望んだ。

野干「そなたがわしに接触してきて本願を失わせ、いつ免れねとも知れぬ辛苦を経験させているのだ。それゆえ、そなたが我が命を救ったことに功はないと言った」
 天帝は非難した。「尊者は言われました。善人は死を求めると。そんなことはありません。なぜかと言うと、師は井戸の底でもし衣に入らねば外には出られなかったし生きることもかなわなかった。今、師が衣に入るという縁によって生を得たのです。それゆえ知るべきなのです。生を欲しない者などいないと。それなのにどうして生をむさぼるべからずなどと言えるでしょう」
野干「わしが衣に入った意図には三つの理由がある。大きな理由があるのだ。何を三つと言うのか。
第一の意味は衣に入ることで天帝の願いにそむかないためだ。人は志した願いがかなえられなければ大きな苦しみとなる。施人の苦悩は願いがかなえられないから起きるのだ。求めたことが得られず、そのことに向き合った時、おのずから苦悩が起きる。それゆえであって生を求めたからではない。
第二の意味は、諸天の法を聞きたいという思いを知ったからだ。そこで諸天に正法を広めようと思った。法を惜しんではならないのだ。こういう状況で法を説かないのは法を惜しむということだ。法を惜しむ罪は、世々感覚器官が塞がれ聾盲瘖唖に生れついて、辺地で愚かで無智な者となる。たとえよい環境に生れたとしても、頑固で愚鈍、学ぶことができない。学ぶことができなければ、おのずと苦悩に至る。それゆえであって世の人のように生を求めたからではない。
その前世の布施と修善が、今生の福徳と因縁となる。願いはかない、富める者となる。貧者は求め乞い、心はかたくなでけちで施そうとはしない。慳貪の報いは餓鬼に生れること。常に飢渇に煩い裸で衣はない。冬は寒くこごえ、体は破裂する。暑いときは大いに熱く、よるべき陰もない。かくのごとき苦悩が数千万年続くのだ。餓鬼の罪がおわれば畜生に生れる。草を食い水を飲むだけで愚かで何も知らない。あるいは泥の上で食い不浄のままだ。
慳貪の罪とはこのようなものだ。法を惜しむあやまちとは、このようなものだ。
第三には、まさに法を伝え広め、天人を利益して開悟させたかったからだ。これを法施と言い、功徳は限りない。それゆえであって生を求めたからではない。」
天帝「教化の功徳、その福とはどのようなものでしょう。お説きください」野干「正法の教化によって衆生は死を知った生を送れる。善をなし福を得ること、悪をなし天罰を受けること、道をおさめて道を得ること、縁の功徳によって常に宿命を知る智慧明了な身に転生することが学べる。もし天上に生れれば諸天人の師となり、世間に生れれば金輪王となっていつも十善をもって天下を教化する。人の王となれば正しい法で治める。常に宿命を知っていれば、心は放逸にならない。人として尊敬され守られて、五欲の楽しみを受ける。たとえ魔事が多く思い通りに行かず迷いから悪業を作ったとしても元の道に戻れる。悪の報いを受ける時、智慧力のおかげですみやかに苦から脱け出せる。
天に生れては福楽を得、智慧の光明が段々増えていき菩薩行をなして無生忍に至れる。それゆえ仏は説いた。教化の功の福は限りないと」
 天帝は喜んで言った。「善きかな善きかな。誠に師の尊い教えの通りです。我等諸天は、今日はじめて財施・法施・功徳・因縁の様々な相を知ることが出来ました。財施とはたとえるなら小室中の小さな明り、法施とは四天下を照らす日光、どこにいても暗闇を晴らすのですね。太陽の性質は自ら明るく物を照らします。和上はどのような修習によって智慧明瞭となり、衆生の闇を晴らそうと思われたのでしょう」
 天帝がそう言うと、八万の諸天はみな立ちあがり、教えに服そうとひれ伏して合掌し、野干に言った。「哀れみもて十善法を教えたまえ。多くの者に利益をめぐらせ、衆生を安らかにしたまえ。そして和上の功徳を増したまえ」
「よろしい。今話そう」
 そしてまず、天帝の受戒の法を伝えた。
「先に懺悔をなすべし。身口意を浄めるのだ。身業とは何か。殺・盗・邪婬を言う。口業とは何か。妄言・両舌・悪口・綺語を言う。意業とは何か。
嫉妬・瞋恚・憍慢・邪見を言う。これらの十事について、身口意の業を禁じ、衆悪を犯さないことを十善と名づける。
身口意をほしいままにかれば、もろもろの悪業をつくる。これを名づけて十悪と言う。心の底から十悪を悔い除くのだ。十悪が滅べば身口意は浄らかになる。
三業が浄らかになることを十善と名づけるのだ」
天帝「十善の功、果報とはどういうものですか」
野干「かつて仏がこう説くのを聞いた。人の行う十善十悪には結果としての報いがある。六欲天に生れると七宝の宮殿に住み、五欲は自然と満たされ、百味の飲食ができ、寿命は無限だ。父母妻子、六親眷属は、みな美形で清潔、喜び楽しくすごす。諸天で十善をたもつ者は、天上の福が尽きようとまた天に生れる。福報が転生に勝ったのだ。世人の十善の報いはまた違う。なぜかというと、世人で修善するものは、心に三戒を道として護持するのは難しい。
不瞋戒をまもる者はまずみな方便として慈心を行わなくてはならない。その後、よく不瞋戒が成就するからだ。世人の慈を行うにあたっては行い続けるのが難しい。刀で水を切るような物で、破れば合わさる。不瞋戒を維持するのもまたそうだ。
嫉妬戒をまもる者には、発動する時節が必要だ。どういう時節かというと、他人が利を得たり楽しんだりするのを見なくてはならない。他人の美貌、他人の勇健、他人の聡明さ、他人の福行、一言で言うと一切の勝った事柄を見た時、その心に嫉妬が生じるのだ。それゆえ知るべし、嫉妬の心が起きるには時節が必要なのだと。
憍慢の心が起きるにも時節が必要だ。愚かな者を見ると心に憍慢が起きる。醜い人、不浄な人、貧乏人を見た時もそうだ。要約すると、憍慢の心は、聾者・盲者・びっこ・せむし、感覚器官に不具がある者、辺境の少数民族などを見た時に起きる。それゆえ知るべし、不憍慢戒が発起するには時節が必要なのだ。
それゆえ世の人は、心に戒をいだくのが難かしい。強いて堅持し、忘れないようにしなくてはならない。それゆえ世の人は、十善の果報である天の福は受けがたい。諸天の十善功徳には及ばないのだ。光明神力があり食べる物もよく、福德は抜きん出ている。みな宿命を知っている。それゆえ知るべし、
天人による十善の修行の果報は世の人よりもすぐれていると」
天帝「尊師の説くところでは、人が十善を行い、三戒を心がけ道とするのは、護持が難しいというのですね。天人もまたそうです。嫉妬・瞋恚・憍慢・邪見、これらの心はなくなったことがありません。どうしてその福報が世の人よりもすぐれていると言えるのでしょう」
野干「天人にもそれらの心があるといっても、世の人と同じではない。どうしてかと言うと、天人の福徳ゆえに苦は少なく楽は多い。煩悩の心は軽くてすむ。世の人の福は薄く、楽は少なく苦は多い。煩悩の心は重いのだ」
天帝「天は昔んから楽しんでばかりで心は粗雑、猿のようです。今は十善を修持しても、後には忘れてしまうでしょう。もし悪をなしそうな時は、どうすればいいのでしょう」
野干「かつて師から聞いた。十善を行う人がもし背こうとしたら、その人は賢明で福徳ある人なので、悪事をしたときに懺悔の念が起き、それを受け入れ従う。そのような行者は戒を失ってはいない。なぜなら、十善戒とは穀物の苗に似ているからだ。煩悩は草のようなものだ。草と正しい苗とは相互いに妨害する。苗を伸ばすには雑草と穢れを除かなくてはならない。穀物の苗は浄いからだ。そうすれば実りは多く、実りが多ければ飢餓や貧乏にはならない」
 その時、天帝と八万の諸天はこれを聞き、はなはだ喜んだ。福が尽きて亡くなり悪趣の報いを受けることについて、二度と悩まなくてすまなくなったからだ。
天帝「善を行う功徳は、苦報がなくなるとはいえ、まだ死は残っていて無常のことは逃れられません。他化自在天王は、人の修福を見て心に嫉妬をいだき、難を与えて善の道を忘れさせると言います。悪業をすればその因縁で苦報を受けます。どのような功徳をつめば、不死を得て、魔王の惑乱をはねのけられるのでしょう」
野干「かつて師からこう聞いた。菩提心を発し、菩薩の行動をとれば、魔王波旬にはやぶることができないと。心が惑わされないからだ。智慧明瞭に生れた者は、常に宿命を知る。宿命を知れば悪業をしない。心が清浄だからだ。無生法忍を得て道において不退転である。生死の憂悩苦患から遠く離れている」
天帝「菩薩道を修めるには、どのような修行を行えばいいのでしょう」
野干「かつて師からこう聞いた。仏道を求める者は、最初はまず広く諸法と因縁を学ばなくてはならない。 因縁が理解できれば、信心堅固となる。信の根力があれば精進できる。精進の力があれば一切の悪業因縁が起きず、純善の心となる。放逸がなく、智慧が成就する。智慧の力があれば一切三十七品の菩提を助ける道が得られる」
天帝「尊師の教えたもう三十七品の義は、弘く深く粗雑な心ではすぐに理解できないものです。どのようにすれば菩薩道の行に入れるとおっしゃるのでしょう」
野干「かつて師からこう聞いた。菩薩道を修める者は、まず方便をもって諸根を調伏する。ここで言う方便とは六波羅蜜と四無量心のことだ」
天帝「六波羅蜜とは」
野干「第一に、布施である。慳貪の心を破り、愛惜の心を残さないことだ。
第二に、守善である。悪を行わないのだ。
第三に、悪事に逢ってもよく堪忍し、報復を思わないことだ。
第四に、精進である。道を修行して怠けたり退転しないことだ。
第五に、心の収摂である。邪念を抱かないことだ。
第六に、智慧の修習である。智慧によって煩悩・無明の闇を照らし除くのだ。これらを名づけて六波羅蜜という。

※一般に六波羅蜜は「布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧」と言われています。

 六波羅蜜の方便の力はよく諸根を調伏する。諸根を調伏するものに四事がある。一に慈心。二に悲心。三に喜心。四に捨心。これらを四事といい、
無量心と名づける」
天帝「慈を行うとはどういうことでしょう」
野干「苦しんでいる人に逢ったら慈心が起き、救い護りたくなり、必要な物を与える。悲とは、無明の愛ゆえに生死の業を作り五道輪廻に苦しみ自分の力では脱け出せない諸衆生を見て、私は怠けていてはいけない、精進につとめ智慧を修習してはやく成仏したいと思うことだ。
仏になれば、智慧の光明によって衆生の無明の暗闇を照らし除ける。大いなる明りを見せて諸々の苦縛を逃れさせよう、いまだ成仏していなくても広く施し、一切の善業を衆生に回向し施して安楽を得さしめ、衆生に罪あらば私がかわりに受けようと思う。これを名づけて悲心と言うのだ。
 喜とは何か。もし世の人が善業を修行して三乗の果を求めるならば、すすめ助けることに喜びがともなう。楽しい人を見ると心も喜びがともなう。端正な人、勇健な人、富貴な人、智慧ある人、慈心ある人、孝順な人、要約すると一切の善人を見るとすすめ助ることに喜びがともなう。これを喜心という。
捨とは何か。およそ施与をして一切の功徳を他人に恩として与え、現在の果報を望むのではなく、来世の果報を望むのでもなく、将来の世の果報を望むのでもない。これを捨と言う。
四事を成就した心を四無量心と言う。衆生は無限におり、慈心も悲も喜も捨も無限なのだ。それゆえ四無量心と名づける。
先の六波羅蜜とあわせて十波羅蜜と言う。十波羅は一切の菩薩道の修行を含んでいる」
 帝釈天は野干が説く十善行法の功徳因縁を聞き、また菩薩行と菩提の道の因縁と義趣を聞いて、疑問が解決した。歓喜し踊り出したい気持が全身にあふれ、それは八万のつき従う諸天も同じであった。より敬いの心を起こし、叉手し合掌して野干に言った。
「弟子は今日、八万諸天と心を一にして菩提心を起こしました。和上が説く菩薩道の修行を行います。願わくば和上、随喜して聴きとどけたまえ」
野干「今、時は来た。これこそがわしの本心から望んだことだ」
天帝「和上、飲食はどのようにいたしましょう。法にのっとり用意します。どうかお教えください。供養いたしましょう」
野干「食の法は人に聞かせられるような物ではない。なぜなら罪業・因縁によって私が食べる物は極めて汚いからだ。形は畜生で餓鬼と同じ。幸にして食物が得られればそれを食べるのだ」
天帝「和上の飲食でお好みの物お嫌いな物をお示しください。弟子がそれに従って供養いたします」
野干「私はいつも獅子や虎狼の糞尿を食べておった。あるいは塚の間のぼろぼろになった死人の骸骨だ。そんな食事で、飢えが窮まれば泥土を喰った。罪苦の結果の報いだ。生れてからずっと不浄の物を食い、いまだかつて満腹になったことはない」
 帝釈天と天人たちは、野干の飲食のありさまを聞いて悲哀に感極まり、涙して心がいたんだ。
「弟子は供養したいのに、師の言うような物では願いが果たされません。このままではどうしようもありません。今、天宮にかえって何か師の重恩に報いる物を持ってきましょう」
野干「そなたらは今、私から法を聞いた。天上に還って教化し広めよ。天人たちを男女問わず悟らせるのだ。信じさせ、修行をさせるのだ。私にのみ報恩するのでなく、一切諸仏の恩に報いるのだ。教化を受けた者は、諸天の福徳がますます増える。教化するだけでなく多くの人が悟れば功徳の果報は無量である」
 諸天は起立し野干に言った。「弟子はみな、今、天宮に還ります。和上はいつ、この罪報の身を捨てて天堂に生れかわられるのでしょう。そこでお会いしましょう」
野干「七日すぎればこの罪ある身を捨て兜率天に生れよう。そなたらも兜率天に生れかわることを願うのだ。なぜなら、兜率天には多くの菩薩がいて、
仏道を求める天人たちのために説法し教化している」
天帝「尊者の教えを受けた者は、この忉利天でも弟子・眷属です。福が尽き命が終るまで。皆、かの兜率陀天に生れ、師と相まみえましょう。お教えを捧持しましょう。今誓ったように」
 こう言い終えると、天の花香が野干の上に散った。こうして諸天は別れ去った。野干はその場で一心に十善行法に専念し、食を求めず、七日後に命を終えて兜率天に王子として生れた。宿命を知り、十善をもって諸天を教化した。

 仏はハシノク王に告げた。「あの時の野干が私だ。帝釈天は舎利弗だ。アジタ王の師である憂波達は弥勒である。

※憂波達……ここで初めて名が出てきます

八万の諸天は今は娑婆国土にあって八万の菩薩にして不退転の者となっている。
大王、昔のことを思い出すに、私が菩提の道の修行を始めてから悟りを得るまでの間、いつも弥勒や舎利弗たちともに、法を求めてきた。まじめに努力し、身命をおしまず、賢者を探し、親しく奉侍し、学問を研鑽し、智慧を成就した。五道輪廻の中にいる人々が、どこにいても教化してきた。数知れぬ衆生を苦から済度してきた。みな智慧の力によってである。一切の煩悩による因縁を取り除き、正覚者となったのも知恵によってである。 娑婆国土で衆生を教化し、三苦から救ってきた。それゆえ、智慧には甘露、薬、橋梁、大船という四つの意味があると言うのだ」

※三苦……寒熱・飢渇・病気などそれ自体が苦である苦苦 、楽しい事が破れて苦に変わる壊苦 (えく) 、世の無常から受ける行苦 (ぎょうく)

 ハシノク王とその眷属は、仏の説くことを聞いて、疑問は解け、心ほがらかになり、踊り出したくなるようなうれしさに立ち上がって礼をし、合掌して仏に言った。
「世尊、今、仏にまみえてとてもうれしく思います。仏の説法を聞いて無知の疲れが解けました。なんとなれば、世尊が説いた四真諦の法、十二因縁、
出世間の道についてうとく理解できていなかったがゆえの身体の疲れが、仏の説いた菩薩の行法によって解けたからです。いまだ全てを理解したわけではありませんが、心はとてもほがらかで、法を聞きたくて厭きることがありません。弟子は今、菩提心を発して無上の道を求めたく思います。願わくば世尊、哀れみて聴くことを許したまえ。菩薩の行法をお教えいただければ、かくのごとくいたしましょう」
仏は王に告げた。「菩薩の法を行うには、先に説いたとおりである。身口意の業、十善道の行、十波羅蜜。全てを行うことで一切の仏道の法を助けるのだ。そなたも行えることであろう」
王「十善の行法は、心が三法を行かねばなりません。護持するのは難しいです。どのようにすればいいのでしょう。遺漏ないようにお教えください」
仏「世の人の心は粗雑で、猿にたとえられる。もろもろの煩悩の風に動かされる。だから、十善道を行おうとしてもなかなか行えないのだ。十善を修めたくば三つの時に限るべきだ。何をもって三つの時とするのか。朝から食事まで、これを上時という。食事をすぎた頃、これを中時という。食後の散歩をする時。これを下時という。十善法を受けた者は、それぞれのできる範囲で、その時間、心をまもって三戒を堅持し、遺漏なきようにすべきだ。これを修行十善と名付ける
王「世尊のおおせのように、三つの時に限って十善を行うなら、その功はわずかでしょう。どうして福が生じると言えるのでしょう」
仏「人が十善を修するにあたって、時間を区切ったとしてもその功徳は大きい。なぜかというと、心に三戒を守るのは難しいからだ。少しの時間といえども守ることの果報は無限である。たとえるなら、人が百年かけて薪草を集めたとしても、火をつけると瞬時に消えてなくなるようなものだ。それゆえ知らなくてはならない。少しの時間の修善でも、無量の悪業・重罪を滅せるのだ。短時間で火を起こすには力をこめなくてはならない。火の功用は、天下の草木・叢林を焼き尽くすことができ、焼き尽くせばすみやかにおさまる。大王よ、まさに知るべし。人が十善を修めるのはこれと同じなのだ。
須臾の功によって、無数の悪業・重罪を滅することが出来る。行者に菩提の芽を起こさせ、萌芽が次第次第に成長して仏果となるのだ」
 王はこれを聞くと立ち上がって礼をした。未曽有の話が聞けてとてもうれしかったのだ。
王「弟子は今、大いなる善利を得ました。世尊の説く十善道の修め方、功徳因縁は、衆生に菩提の芽を与えるでしょう。弟子は今、菩提を志し楽しく修行に励もうと思います。決心はゆるぎません」
 仏がこう説くと、王に随従する者、群臣吏民、後宮の夫人、仏教団の弟子たち、天・竜・鬼神・超人ら五千余人が皆、無上菩提道意をおこした。

※王様には公務がありますし、全生活を仏道に捧げるわけにはいきません。そこで、時間を決めて日々の善行の実践を勧められたのでしょう。

 この時、ハシノク王の大夫人が入ってきた。常に四人の扇提羅(センテイラ)を引き連れている。扇提羅とは、漢語で石女(うまずめ)のことを言う。
男根も女根ないので石女と名づけられたが、ぬきんでた筋力があり、この四人に皇后の輿をかつがせていたのだ。皇后が乗る七宝の輦輿は、祇園精舎の門外に止まり、宦官たちに守らせていた。宦官たちは、四人のセンテイラに夫人の輿を守らせて、自らは仏の近くに行き法を聴いていた。
 センテイラたちは輿の下で眠りこけていた。そこに凶悪な人間が来て夫人の輦輿を飾る珍宝から一つの摩尼珠を盗んだ。宦官たちがしばらくして輿を見に戻ると、宝珠が見えない。夫人に責められると思い、心中怖れおののき、センテイラに問うた。
「お前たちに輿を守れと言っておいたのに、どうして珠を盗まれたのだ!」
 各々答えて言った。「盗まれてなどおりません」
 宦官は大いに怒り、センテイラを鞭打った。骨にしみる痛みだ。一人のセンテイラが「盗まれていないあかしに毒を飲みます」と言って、精舎に駆け込んだ。
 怨みをこめて大声でわめいたが、皆、何が起きているのかわからなかった。
 仏は阿難に言った。「宦官の所に行き、無実の人を鞭打ってはいけないと伝えてきなさい。この四人のセンテイラは皇后の前世の師なのだから。
罪なくしてみだりに鞭をふるうことは、後世の悪業の因縁を作る」
 皇后はこれを聞いてうやうやしく合掌し、仏に言った。「世尊のおおせでは、四人の輿かつぎのセンテイラたちが私の前世での師とのことですが、さっぱりわかりません。世尊、願わくばその因縁を説き、会衆みなに聞かせたまえ」
仏「センテイラがわめいて来たのは、世尊たる私の前でその虚実をあかしてもらうためだ」
 皇后は、お教えを受けて宦官たちを連れてこさせた。
 四人のセンテイラは仏を見ると、叩頭して泣き、ひれ伏して合掌した。
「本当に珠は盗まれていないのです。何の因縁があってこの罪を引きかぶったのでしょう。鞭打ちの痛みに体は破れそうです」
「罪業因縁は自身が造ったものである。父母や天が下すものではない。人は善と悪を行い苦と楽の報いを受ける。たとえるなら、声が反響して還ってくるようなものだ。目の前の利に貪欲になれば、心は邪悪になる。後世の長い期間の災いを知らないからそうするのだ。悪は心より生じ、かえって自らを害するのだ。錆が鉄から生じ、その形をこわし消すように」

※「身から出た錆」の語源ですね。
※センテイラと宦官の違いは、センテイラが見た目は女性だが力が強く生殖器のない人、宦官は元々は男だけど生殖器を人為的に取ってしまった人のことです。宦官と訳しましたが、原文は「黄門」です。
ともに、王宮のハーレムで働くため、生殖能力のない者を使っています。

 王が叉手して仏に言った。「今までの説法にはみな因縁の話があります。四人のセンテイラたちは、先の世で何をして、どのような因縁で仏に説法をお願いしたのでしょう。
盲冥の人々を開悟せしめて多くを利益し、みなをたすけたまえ」
仏「それを聞こうというのは善い心がけです。心して聴きなさい。今説こう」

 仏説未曽有因縁経巻上、おしまい。


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