長阿含経巻第六 小縁経

仏説長阿含経巻第六
 後秦の弘始の年、仏陀耶舎と竺仏念が訳す


第二分初 小縁経第一
 このように聞いた。
 仏が舎衛国の清信園林の鹿母講堂に、大比丘衆千二百五十人とともにいたときのこと。
 二人のバラモンが堅く信じて仏の所に行き、出家・学道した。名は婆悉吒(バシッタ)と婆羅堕(バラダ)といった。
 ある時、世尊が静室から出て講堂を周回して経行(きんひん/坐禅や読経の間に立って歩きまわる行)をしていた。
 バシッタが仏の経行を見て、急いでバラダのところに行き言った。
「知っているか。如来は今、静室を出て堂上で経行をなさっている。我等はともに世尊の所に行って如来の話を聞こうではないか」
 バラダはそれを聞いて一緒に世尊の所に行き、頭を足につけて礼をし、仏のあとについて経行をした。
 世尊はバシッタに言った。
「そなたら二人はバラモン種の出身で信心堅固、我が法の中で出家・修道している。バラモンたちに嫌われたり責められてはいないか」
「はい。せっかく仏の大恩をこうむり出家・修道いたしましたが、実はバラモンたちには嫌われ責められています」
仏「どういうことを嫌がったり責めるのだね」
「バラモンたちは言います。『我々バラモン種は最高で第一、他の者は劣っている』と。バラモン種は清く白く、他の者は黒くおろかです。我々バラモン種は梵天より生れました。その口から生れたから現世の法の中で清浄であり、来世でも清浄のままなのです。『それなのにお前たちはどうして清浄なバラモン種を捨てて、かのシッダルタの異法に入ったのか』と言われます。
世尊よ、バラモンは我らが仏法中にあって出家・修道するのを、このように言って責めるのです」
 仏はバシッタに言った。
「そなたは、人々を愚冥にして知識がない禽獣のように見ている。浅はかにもバラモン種を最高で第一、他の者は劣ってる、などと言うのだ。現世で清浄で、後世でも清浄だ、などと。バシッタよ、今、我が無上正真道の中にいて、種姓は必要がない。自らの憍慢の心をたのみとしないからだ。俗世間の法ではそうかもしれぬが、我が法はそうではない。もし沙門やバラモンが自らの種姓をたのみ憍慢の心をいだけば、我が法ではついに無上の悟りの証を得られぬであろう。もし種姓を捨て憍慢心をなくせば、我が法において成道し正法を受けた証が得られるのだ。人は下流の人をにくむ。我が法ではそうではない」
 仏はバシッタに言った。
「四姓種があって、それぞれ善悪をなしてそこに居る。智者はそれぞれをほめたり責めたりする。
 四姓種とは何か。
一、クシャトリヤ種。
二、バラモン種。
三、居士種。
四、シュードラ(奴隷)種。
 バシッタよ、よく聴きなさい。クシャトリヤ種の中にも、生けるものを殺す者、盗窃をする者、婬乱な者、詐欺を働く者、二枚舌の者、悪しき言葉を言う者、かざった言葉を語る者、ケチな者、嫉妬する者、邪な見解をいだく者がいる。バラモン種、居士種、シュードラ種にも。どの種にも十悪行をする者がまじっているのだ。
 バシッタよ。不善を行えば不善なる報いがある。暗黒の行いをなせば暗黒の報いがある。もしこの報いがクシャトリヤ・居士・シュードラのみにあり、バラモンにはないとすれば、バラモンは自ら『我がバラモン種は最高で第一、その他の者は卑しく劣る』などと言えるだろう。しかしこの報いは必ず四姓種すべてにある。だから、バラモンは『我が種は最高で第一』とは言えないのだ。バシッタよ。もしクシャトリヤ種で殺さず、不盗・不婬・不妄語・不両舌・不悪口・不綺語・不慳貪・不嫉妬・不邪見を行う者がいれば、四姓種ともに同じ十善を修しているのだ。

※今行われている十善戒は「不殺生・不偸盗・不邪婬・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不貪欲・不瞋恚・不邪見」です。ここでは「不嫉妬」が「不瞋恚(怒るな)」のかわりに入っています。

 善法を行えば必ず善報がある。清白の行を行えば必ず白い報いがある。もしこの報いがバラモンだけにあり、クシャトリヤ、居士、シュードラにないのなら、バラモン種が自ら言うように彼ららは清浄にして最高で第一だろう。もし四姓にこの報いが同様にあるのなら、バラモンが言うように彼らは清浄にして最高で第一などではない」
 仏はバシッタに告げた。
「今、バラモン種を見るに、嫁をとり子を産むのに世間と異ることはない。それなのに梵種なれば梵天の口から生れた、現世でも来世でも清浄だと詐称している。バシッタよ。今知るべきだ。我が弟子は種姓は同じではなく出身も異なり、我が法の中で出家・修道している。もし人に汝の種姓は何かと問われたら、『我は沙門シャーキャの種子である』と答えるであろう。
 また、もし口から生れ、あるいは法の力で化生したのなら、自分はバラモン種だ、現世では清浄で来世でも清浄である、と自称してもよいだろう。
 なぜか。
 大梵天の名は如来の号から来ている。※如来は世間の眼となる。法は世間の智となり世間の法となり世間の梵となる。世間の法輪となり、世間の甘露となり、世間の法の主となる。

※原文「如來爲世間眼。法爲世間智爲世間法爲世間梵。爲世間法輪。爲世間甘露。爲世間法主。」
 この一節は難解である。
 平河出版社の『現代語訳「阿含経典」長阿含』第2巻、280Pの註によると「初期仏教の時代から婆羅門の思想において最高原理あるいは最高神である「梵」を、法や仏・如来と同義化する傾向がある。」とあり、パーリ本の翻訳として「如来は、法を体とするとも、梵天を体とするとも、法そのものとも、梵天そのものとも称されるからだ」とある。おそらくは、この訳が正解である。

 バシッタよ、もしクシャトリヤの中に仏・如来・至真・等正覚等の十号を具足する者を篤信している者がいて、法を篤信し如来の法を信じていれば、微妙にして清浄な修行を現に修行できるのだ。その者は、いかなる時であろうとニルバーナの法の要を説ける。智者の知りうるところで、これは凡愚の者には及びうる教えではない。
 僧伽を篤信し、性質が善にして質朴、正直であれば道果は成就する。眷属(主人以外の親族や従者)も成就できる。仏の真の弟子の法を成就できる。いわゆる衆なる者で、戒衆(戒を中心に修行する人々)は成就する。定衆(禅定を中心に修行する人々)、慧衆(智慧・学問を中心に修行する人々)は解脱する。衆は解脱して衆の成就を知見する。
 初果から四果に向けて、須陀洹に向かう者、須陀洹を得た者、斯陀含に向かう者、斯陀含を得た者、阿那含に向かう者、阿那含を得た者、阿羅漢に向かう者、阿羅漢を得た者がいる。これら四双八輩(初果から四果のおのおのについて、そこに向かう者と果を得た者)はみな如来の弟子衆である。敬うべき、尊ぶべき、世の福田となり他人の供養を受けるべき者である。
 戒を篤信すの者は、聖戒が具足する。瑕疵がないために煩悩の汚れが漏れ出ることがない。これを智者は『善き寂けさを具足している』とたたえる。
 バシッタよ、バラモン種、居士、シュードラ種のいかなる者でも、仏を篤信する者は、法を信じ衆を信じ聖戒を成就する。
 バシッタよ、クシャトリヤ種の中にも羅漢を供養し、恭敬・礼拝する者はいる。バラモン、居士、シュードラ、もまた羅漢を供養し、恭敬・礼拝する」
 仏はバシッタに言った。
「今、我が親族のシャーキャ族は、ハシノク王を奉じ宗事を行い礼をし敬う。ハシノク王もまた私を供養し礼をし敬う。
 彼は、沙門ゴータマが豪族の出で私の姓は卑しいとは思わない。沙門ゴータマが、大金持ちで大いに威徳のある家の出であろうと、貧窮したいやしい小家の出であろうと、如来に供養し礼をし敬うのだ。ハシノク王は、法を観、法に明らかなので真偽がわかる。それゆえ浄信の心を起こし如来を敬うに至ったのだ。
 バシッタよ、今、汝のために四姓の本来について説こう。天地には始まりと終りがあり、劫が尽き壊れる時には衆生は命つきて皆、光音天に生れかわる。自然に化生して思考するだけで食とする。光明は自ら照らし、神足通によって空を飛ぶ。

※この「光音天」のイメージが極楽浄土のイメージの一因となったという説があるそうです。

 その後、この大地はことごとく水に変化する。日月星辰はなくなり、昼夜・年月・歳もなくなって、ただ大いなる暗闇だけとなる。
 その後、水は変じて大地となる。光音天の神々は、福が尽き命を終えて転生する。
 この間、転生しても念だけの食事と神足通による飛行と身体の自然発光は続く。久しくこの状態でとどまるのだ。
 各自は衆生のことを衆生とだけ言った。
 その後、この地に酥蜜(バター蜂蜜)のような甘い泉が涌き出す。
 初めて来た神は軽率な者で、これを見てどんな味か試しに嘗めてみる。
 そこで指を泉につけて嘗めてみる。これを二、三度繰り返して美味だと知る。
 そこで手づかみでほしいままに食べる。
 このようにして楽しみ、飽きることはない。
 その他の衆生もまたこれを食べて美味だと知り、その身体は粗雑になる。肌と肉は堅くなり、天としての妙なる色は失われる。
 神足通はなくなり、地を踏んで行く。
 身体の光はなくなり、天地は真っ暗になる。
 バシッタよ、知るがよい、これが天地に常に起きることなのだ。
 真っ暗闇になった後、必ず日・月・星の像が虚空にあらわれる。その後、昼夜があらわれ、日月と歳が数えられるようになる。
 この時、衆生はただ地を食すだけで長生きできる。多く食べる者は顔色が悪く醜い。少し食べる者は顔色がつやつやしている。見た目のよさ・悪さはここから始まる。その端正な者は憍慢の心を抱き、醜い者を軽んじる。醜い者は嫉妬の悪心を抱き端正な者を憎む。衆生はこれによっておのおの怒りと紛争を起こす。この時、甘泉は自然とかれる。
 その後、大地には自然の肥えた土がうまれる。色と味はよく香りよく、きれいで食べられる。衆生はただ地を食すだけで長生きできる。多く食べる者は顔色が悪く醜い。少しだけ食べる者は顔色がつやつやしている。端正な者は憍慢の心を抱き、醜い者を軽んじる。醜い者は嫉妬の悪心を抱き端正な者を憎む。衆生はこれによっておのおの怒りと紛争を起こす。
 肥えた土は再生しなくなる。今度は粗い土が厚くつもる。これもまた香りよく美しく食べられるが以前ほどではない。衆生はただ地を食すだけで長生きできる。起きることは同じである。
 その後、大地には自然と糠のない粳(うるち)米が生える。色と味はよく香りよく、きれいで食べられる。衆生はこれを取って食べ、長生きする。
 そこで男女ができて互いを見つめ合い、しばらくすると情欲が生れ親近の念となる。その他の衆生はこれを見て言う。
『それはいけないことだ。それはいけないことだ』
 すぐに人のいる所から追い出す。三ヶ月すぎれば還れる」
 仏はバシッタに言った。
「昔はいけないとされたことが、今はよいとされている。時に衆生は非法なことを習いとする。情欲をきわめ節操なく欲する。そして恥ずかしさから家を造った。世間では家ができて非法の婬欲を楽しむことがますます増えた。そして不浄な生き方によって胎児ができるのだ。世間の胎児はここから始まる。
 衆生は自然の粳米をほしいままに取って生き尽きることはなかった。
 衆生には怠け者がいて思った。
〈朝食は朝に取り夕暮は夕暮に取る。働くことで疲れる。今、一緒に取って一日をおわらせよう〉
 そうして朝に採るようになり、後に、仲間から一緒に米を取りに行こうと言われたらこう答えた。
『私はすでにまとめて一日分を採っている。あなたたちが取りたいのなら好きにすればよい』
 言われた人は思った。
〈この人は賢い。先に採って積んでいる。自分は今、食料を三日採ろう〉
 その人が米を採るよう誘われると先に三日分を蓄えていると言い、言われた人は五日取っておこうと考えた。
 このようにして皆が競争して蓄えるようになり、粳米は荒廃して糠のあるものしか生えなくなった。そして刈ると生えなくなった・
 衆生はこれを見て楽しくなく、ついには憂いに迷った。
 みなが思った。
〈自分が最初に生れたとき、思うだけで食となった。神足通で空を飛び、身は光り、世を照らして長らくいた。その後、甘い泉が涌き出し、それを食べて顔色に差が出来た。衆生はそれでも憎んだり嫉妬し合うことはなかった。甘い泉が枯れて肥えた大地を食べるようになり、さらに顔色に差が出来た。衆生はそれでも憎んだり嫉妬し合うことはなかった。肥えた地がなくなり粗い地を食べて、さらに顔色に差が出来た。衆生はそれでもともに憎んだり嫉妬し合うことはなかった。地が食べられなくなり、自然に粳米が生えた。
怠け者が競ってたくわえ、粳米は荒れて糠つきの米になった。これは刈っても生えはしない。どうすればいいのだ〉
 そして互いに言った。
『地を別けて幖幟を立てよう』
 そこでそのようにした。
 バシッタよ、これが田地の名のはじまりだ。衆生は各自の田地に境の畔を作り、やがて盗む心が起きて他人の穀物をかすめるようになった。
 他の衆生はこれを見て言った。
『それはいけないことだ。それはいけないことだ。自分の田地があるのに、他人の物を取るのは。今後、そんなことをしてはならない』
 しかし彼の盗みはやまなかった。他の衆生は重ねて呵責したがやまなかった。
 そこでつかまえて言った。
『この人は田があり穀物が生えるのに他人の物を盗んだ』
 つかまった人は言った。
『この人に殴られた』
 衆人は二人の争いを見て憂えて楽しくなく、懊悩して言った。
『衆生は悪に向かいこのような不善のことが起きたのだ。穢れ、悪、不浄は、生老病死のもとだ。煩悩の苦しい報いは三悪道に堕ちることだ。田地からこの争いが起きた。今、むしろ一人を主として立てて、治める理としよう。護るべき者は護り責めるべき者は責めるのだ。みなでともに米を減らして供給し、訴訟を審理させるのだ』
 そして。皆の中から一人の体が大きく顔貎が端正で威徳ある者を選んで言った。
『そなたは今、我等のために平等な主となるのだ。護るべき者は護り責めるべき者は譴責するのだ』
 そして共に米を集め供給した。
 彼一人が衆人の言を聞いた。そして訴訟を理によって裁断した。彼一人が善い言葉によって衆人を慰労した。人々はそれを聞いて皆、大いに喜んだ。そしてともにたたえて言った。『よきかな大王。よきかな大王』
 そこで世間には王の名が生れた。正法をもって民をおさめる者はクシャトリヤと名づけられた。これが世間にクシャトリヤの名が生れた始めである。

※社会契約説の最初は『小縁経』に出てくるのですね。

 クシャトリヤの中に一人、このように思った者がいた。
〈家は大いなる患い、家は毒のとげだ。自分は家を捨て独り山林に入って、黙って修道しよう〉
 そこで家を捨てて山林に入り、静かなところで黙って思惟した。そして器を持って村に入り乞食をした。
 人々はこれを見て供養することを楽しみ、歓喜して賞賛した。
『善きかな。この人は家を捨て、独り山林にいて黙って修道し、悪を離れた』
 ここから世間にバラモンの名が生れた。
 そのバラモンの中にも、閑静なところで坐禅・思惟することを楽しまない者がいた。そこで人の間に入り読誦を仕事とする者が出た。
 彼らは言った。
『私は禅の人ではない』
 そこで世の人は不禅バラモンと名づけた。人の間に入ったので人間(じんかん)バラモンとも名づけた。ここから世間にいるバラモン種が生れた。
 彼らの中で事業をして多くの財宝を積む者が現れた。人々は居士と名づけた。
 彼らの中には工芸の巧みな者がいて、多くを作った。そこで世間にはじめてシュードラの名がうまれた。
 バシッタよ、これらが世間の四種の名である。
 第五には沙門がある。人々がどうして名づけたのかを話そう。
 バシッタよ。クシャトリヤの中に自ら己れを厭い髭と髪を剃って法服を着る者があらわれた。これが沙門の名のはじまりである。
 バラモン種、居士種、シュードラ種の中にも、己れを厭い髭と髪を剃って法服を着て修道して沙門と名のる者があらわれた。
 バシッタよ、クシャトリヤ種の中にも身の行いが善ならず口の行いが善ならず意の行いが善ならざる者は、肉体が壊れ命が終ったとき、必ず苦の報いを受ける。バラモン種、居士種、シュードラ種でも同じだ。
 バシッタよ。クシャトリヤ種の中で身口意の行いが善なる者は、肉体が壊れ命が終ったとき、必ず楽しい報いを受ける。バラモン、居士、シュードラ種でも同じだ。
 バシッタよ。クシャトリヤの中にあっても、身行二種、口意行二種を行う者は、肉体が壊れ命が終ったとき苦楽の報いがある。バラモン、居士、シュードラ種でも同じだ。
 バシッタよ。クシャトリヤ種で鬚髪を剃り法服を着て修道した者で、七覚支※を修行した者は、久しからずして道が得られた。

※七覚支
 真実の教えを選び取る択法(ちゃくほう)覚支
 一心に努力する精進覚支
 真実の教えを実行することを喜ぶ喜覚支
 身心を軽やかにする軽安(きょうあん)覚支
 対象へのとらわれを捨てる捨覚支
 心を集中して乱さない定(じょう)覚支
 思いを平らかにする念覚支。
……デジタル大辞泉(小学館)より

なぜかというと、彼の種族は現法中で修行すれば自身で証しがなせるからだ。生死明滅が尽きて梵行がなる。
修行がなれば二度と来世の存在にはならない。バラモン、居士、シュードラで七覚支を修行した者もまた同じだ。
バシッタよ、四種族は皆、修行があけると羅漢となる。五種の中で最第一の阿羅漢に」
 仏はバシッタに梵天王の頌を告げた。

生中刹利勝
(生ける中でクシャトリヤはすぐれる)
能捨種姓去
(よく種姓を捨て去れるから)
明行成就者
(明らかなる行を成就せし者は)
世間最第一
(世間で最も第一)


仏「この梵天はまったく善いことを説いている。この梵天はまったくよく受け取っている。
私はその時、印可の言葉を言った。なぜかというと、今、我、如来にして至真が説いたとおりだったからだ」
 この時、世尊はこの法を説き終え、バシッタバラモンは煩悩を捨てて心解脱(貪著を離れること)を得、仏の説いたことを歓喜してうけたまわったのだった。

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