賢愚経巻第三  七瓶金施品第十八

賢愚経巻第三  七瓶金施品第十八
(七つの金の入った壺を布施した話)

 このように聞いた。仏が舎衛国の祇樹給孤独園にいたときのこと。比丘たちは各国にいておもいおもいに安居(雨期のこもり行)をしていた。九十日の安居がおわると各々仏のところに向かい、乞うて聖教を受けた。この時、世尊と諸比丘は分かれて久しく慈しみの心は痛切であった。
 仏は千輻相輪の神手を挙げてねぎらい、たずねた。「諸君らは僻遠の地にあって飲食供養に不足はなかったか」
 如来の功徳は世にたぐいないもので、比丘たちを見るにうやまい慕うもみな遠慮している。阿難はこれを見ていぶかしんで言った。
「世尊が世に出たことははなはだ奇特なことで、その功徳と智慧は世に希有なことです。今、慰諭し諸比丘衆にたずねられましたこと、まことに善いことではあります。しかしわからないのです。このように謙譲と卑下の言葉を、遠近問わずかけられましたことが」
世尊「よく聴き考えなさい。今からそれについて話そう」

 はるか昔この世界にバラナという大国があった。
 一人の男がいて家業を好み金を偏愛した。勤勉に働いて金を貯め、身を仕事に捧げた。手広く商売をし、銭を稼いでは金にかえて家の床に埋めた壺に蓄えた。このようにして体を酷使し、年を取っても衣食にはついやさず、ついに壺は七つになった。
 その人は病気で亡くなろうという時、金を愛するあまり毒蛇に変じた。
そして金の壺を守った。家は朽ちて住む人もなく、蛇もついに寿命を迎えた。それでも愛着の心はやまず、その姿のまま壺にまきついて数万年がたった。最後に受けた身のまま、転生を厭ったのだ。
 蛇は思った。「これも金の故である。思い返せば、それで憎まれる姿のままずっと来たのだ。いま福田に布施をしてその福報を世々うけたいものだ」
 思いは定まり道に出てきた。草の中に身を隠していたが人は来ない。この時毒蛇は一人の人が歩いてくるのを見て呼びかけた。
 声を聞いてあたりを見回したが人の姿はない。道を行こうとすると蛇が姿を現して声をかけた。「こっちにおいでなさい」
人「お前は毒悪の身だ、私を呼んで、近づけば傷つける気だろう」
蛇「私が悪心を持っていたら、お前が近づかなくとも害することはできるのだぞ」
 人は恐れて近くに寄った。
 蛇は語った。
「私はここに金の入った壺を持っている。これをあずけるから供養・作福のために使ってほしいのだ。できるか。できなくば害するぞ」
人「できます」
 そこで蛇は人を金の所に連れて行き金を取り出して与えた。
「この金で衆僧を供養するのだ。食を布施する日に、無憂樹の木に私を巻き付けて運んでいくのだ」
 その人は金をかつぎ、僧侶のいる伽藍に行った。そして伽藍の管理をする僧に、毒蛇が供養をしたいという話をくわしくした。僧はその金を受けとり美饍を作ることにした。
 約束の日にその人は小さな無憂樹を手に蛇の所に行った。蛇はこれを見て喜びねぎらった。蛇は木に巻き付き、その人は仏陀のところに向かった。
 道で会った人が、どうして蛇を運ぶのか、どこから来たのか、頭上にいて怖くはないのかとたずねた。
 運び手は黙して答えず、二度、三度とたずねてきても一言も答えなかった。
 毒蛇は腹を立てて毒の心が燃えさかり質問者を殺そうとした。
 しかし思いとどまって考えた。
〈この人は時宜をこころえていないのだ。好意でとどまらせようとして三回も丁重にたずねて答えがなかった。それに対してどうして憎しみ、病を得させることができよう〉
 そう思ってはみたものの、また蛇に毒心が起きた。内から猛然としておきたのだ。今度は運び手を害しようとした。毒を吐こうとした瞬間、思った。〈この人は自分に福を与えてくれるのだ。いまだ恩に報いていない。再三、守ってくれた。大恩があるのに、どうして罪をなしえよう。これぞ忍ぶべき時だ〉
 開けた場所に来たので、蛇は担ぎ手に言った。「私を地におろせ」
 蛇は、戒をもって法とするように厳しく言った。
 担ぎ手は、自らを悔い改め、謙虚になり、すべての人に寛大になった。
 蛇は重ねて頼んだ。「お前さん、もう一度運んでくれないか」
 その人は蛇をかつぎ、伽藍の衆僧の前についた。
 衆僧は食事時で、ちょうど食事のために立つところだった。
 蛇は担ぎ手に頼んで香を買わせた。自らの信心から香をささげる者を見て誰が捨て置けよう。衆僧は行列をなして塔の周りをまわった。
 担ぎ手は水をくむと衆僧の手を洗い、蛇は敬意を抱き、手を洗う者は厭う心は起こさなかった。
 衆僧は食事をおえると、蛇のために説法した。
 蛇は歓喜倍増、さらに布施の心を篤くした。
 伽藍の管理をする僧をともなって元の金があった所に行き、残った六つの壺をことごとく僧団に布施した。
 福作りはおわり、蛇は命終を選んだ。その福徳ゆえ忉利天に生まれた。

 仏は阿難に告げた。「まさに知るべし。その時に蛇を運んだ者が私であり、毒蛇は今の舍利弗である。私がかつて蛇を運んだ時、蛇に責められて、恥じて誓いを立てた。〈謙下の心が生じ、一切を等しく見る心がうまれ、今日までずっと続きますように〉と」
 比丘たちと阿難は、仏の説くところを聞いて歓喜し承ったのだった。

※七瓶金施品、原文がぼんやりとしてなかなかわかりにくいです。
 そして、蛇の担ぎ手が責められるようなことをしたようには思えません。いやいや運んでいたことでしょうか。
 舎利弗の前世は蓄財を好んだ毒蛇です。当時の教団では、反舎利弗派がこのような話を広めていてそれが記録されたのかもしれません。

 なお、今回、ツイッター連載時とはかなり翻訳を変えています。誤訳がありましたら、どうぞ遠慮なくお教え下さい。

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