雑阿含経巻第九 二五一節 無明について

雑阿含経巻第九
 宋の天竺三蔵である求那跋陀羅が訳す

(二五一節)
 このように聞いた。仏が王舎城の迦蘭陀竹園にいたとき。
 尊者舎利弗と尊者摩訶拘絺羅(大クチラ)が耆闍崛山中にいて夕暮れ時に坐禅から目ざめ、大クチラは先に目ざめて引き下がっていた舎利弗の所に語り合おうと行った。
大クチラ「質問があるのですが、もし時間があるならお答えください」
舎利弗「わかることならお答えしよう」
大クチラ「無明というのはどういうものなのでしょう」
舎利弗「いわゆる無知のことだ。無知とは無明である。何を無知と言うのか。無常を目のあたりにしても如実には知らないのを無知という。生滅法(この世に存在するもので変化しないものはなく、生きているものは、いずれは確実に死ぬということ)を目のあたりにしても如実には知らないのを無知という。耳鼻舌身意についてもそうだ。尊者大クチラよ。これら六つの感覚器官について、如実には知らず見ずきちんと把握していない者は、愚かにして闇の無明、大冥にあるのだ。これを無明という」
大クチラ「いわゆる明者とは、何に明るいのです」
舎利弗言「いわゆる知についてである。知者は明るいと言う。何を知っているのかというと、無常を目のあたりにして如実に無常を知り、生滅法を目のあたりにして如実に生滅法を知るのである。耳鼻舌身意についてもそうだ。尊者大クチラよ、この六つの感覚器官を如実に知るものは明るい。目覚め悟っており智慧あってそのままを把握しているのだ。これを明という」
 二人の正士は各々聞いたことで喜びがうまれ、それぞれの場所に帰っていった。

※では、「無常を見ても常だと誤って思うのは何故か。生滅法を見ても誤って不変と見るのは何故か。耳鼻舌身意について如実に知ることができないのは何故か」
……そこから先は自らの心を観察して探求するしかありません。そのいとなみから唯識等の学問が発達してきたのです。


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