釈中禅室尊経

中阿含経の根本分別品、釈中禅室尊経(第五・第四分別誦)

 このように聞いた。
 仏が舎衛国のすばらしい林である給孤独園にいたときのこと。
 尊者盧夷強耆(ローマサカンギヤ)が釈中(地名)に来て、無事、禅室に入った。
 尊者ローマサカンギヤは夜から日の出にかけて、禅室のすぐそばで尼師壇(四角い坐具)を敷いて結跏趺坐をしていた。
 その時、一人の天が現れた。外見は素晴しく立派だった。夜から日の出まで尊者の所にいて、ひれ伏して礼をしてから離れたところに坐った。その天は威厳に満ち、妙なる光であたりを照らしていた。
 禅室でその天は隅にひかえると尊者に言った。
「比丘よ。跋地羅帝(バッデーカラッタ)の偈を受持し、その意味を理解していますか」
尊者「受持していないしその意味も知らない。そなたは受持し理解しているのか」
天「私は受持しているのですが、意味を教わっていません」
尊者「なぜ、受持しているのに意味を知らないのか」
天「ある時、世尊が王舎城の竹林迦蘭哆園(Kalandakanivāpa/竹林園)に来たとき、比丘たちにバッデーカラッタの偈を説いたのです。


慎んで過去を思うなかれ また未来を願うなかれ
過去のことはすでに滅んだ 未来はいまだ至っていない
現在にあることについて そのことのみを思うべきだ
変化しないものなどないと思うのだ 智慧ある者はこのようにさとる
もし聖人の行をなせば 誰が死を愁えよう
死に会わなければ 大いなる苦しみと災いの患いはなくなる
かくのごとく思い精勤し 昼夜怠らないようにせよ
だからいつも説くべきなのだ バッデーカラッタの偈を

比丘よ。私は受持していますが、内容を教わらなかったのです」
尊者「誰が受持し、その意味を知っているのか」
天「仏が舎衛国の給孤独園に来たとき、受持し、意味を理解していました。
比丘よ。世尊の所に行き、付き従ってバッデーカラッタの偈をよく受持し誦いその意味を教わりなさい。なぜかと言うと、バッデーカラッタの偈とその意味には、義があり法があり梵行の根本となるからです。智と覚を得て涅槃におもむき、一族の者が信じて家を捨て道を学ぶからです。まさにバッデーカラッタの偈を受持し、その意味を得て、よく誦えるべきなのです」
 天はこのように言うと、尊者ローマサカンギヤの足にひれ伏して礼をし、三回周りをまわると消えた。

 天が消えてすぐに、尊者ローマサカンギヤは釈中で夏安居に入った。三ヶ月たつと衣を繕い、衣鉢を持って舎衛国へと向かった。そして給孤独園に行き、仏の所に詣でた。ひれ伏して礼をすると、端に坐って言った。
尊者「世尊、かくかくしかじかのことがあり、バッデーカラッタの偈を受持し、その意味を教わるよう言われました」
世尊「尊者ローマサカンギヤよ、そなたはその天がどこから来て何という名か知っているか」
尊者「知りません」
世尊「カンギヤよ、その天の名は般那(パーナ)といい、第三十三天の将軍である」
尊者「世尊、今がまさにその時です。善逝(悟りの彼岸におもむいた者/仏の称号の一つ)よ、今がまさにその時です。世尊が比丘たちのためにバッデーカラッタの偈とその意味を説いたなら、比丘たちは世尊より聞いたことをよく受持するでしょう」
世尊「カンギヤよ、よく聴きよく思いを巡らせるのです。その意味について詳しく述べよう」
尊者「しからばお聞きいたします」


慎んで過去を思うなかれ また未来を願うなかれ
過去のことはすでに滅んだ 未来はいまだ至っていない
現在にあることについて そのことのみを思うべきだ
変化しないものなどないと思うのだ 智慧ある者はこのようにさとる
もし聖人の行をなせば 誰が死を愁えよう
死に会わなければ 大いなる苦しみと災いの患いはなくなる
かくのごとく思い精勤し 昼夜怠らないようにせよ
だからいつも説くべきなのだ バッデーカラッタの偈を

 カンギヤよ、どのような比丘を過去を思う者というのか。過去の経験を楽しみ、欲し、執着し、とどまる者である。過去に知覚し、想い、行い、判断したことを楽しみ、欲し、執着する者である。このような比丘が過去を思う者である。
 カンギヤよ、どのような比丘を過去を思わない者というのか。過去の経験を楽しまず、欲せず、執着せず、とどまらない者である。過去に知覚し、想い、行い、判断したことを楽しまず、欲せず、執着しない者である。このような比丘が過去を思わない者である。
 カンギヤよ、どのような比丘を未来を願う者というのか。未来の経験を楽しみ、欲し、執着する者である。このような比丘が未来を願う比丘である。
 カンギヤよ、どのような比丘を未来を願わない者というのか。未来の経験を楽しまず、欲せず、執着しない者である。このような比丘が未来を願わない比丘である。
 カンギヤよ、どのような比丘を現在を受け入れる者というのか。現在の経験を楽しみ、欲し、執着する者である。現在、知覚し、想い、行い、判断することを楽しみ、欲し、執着する者である。このような比丘が、現在を受け入れる者である。
 カンギヤよ、どのような比丘を現在を受け入れない者というのか。現在の経験を楽しまず、欲せず、執着しない者である。現在、知覚し、想い、行い、判断することを楽しまず、欲せず、執着しない者である。このような比丘が、現在を受け入れない者である」
 仏がこのように説くと、尊者ローマサカンギヤと比丘たちは仏の説くところを聞き、喜んでうけたまわったのだった。

※さすがは釈尊、『温泉林天経』のマハーカッチャーナの解説よりはわかりやすいですね。

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