阿難説経

中阿含根本分別品の「阿難説経」第六・第四分別誦

 このように聞いた。
 仏が舎衛国のすぐれた林のある給孤独園にいたときのこと。
 尊者阿難が比丘たちを夜、講堂に集めた。バッデーカラッタの偈とその意味を説くためである。
 一人の比丘が、夜があけて仏の所にもうで、頭を下げて礼をし、隅に坐って言った。
「世尊、尊者阿難が比丘たちのために夜に講堂で跋地羅帝(バッデーカラッタ)の偈とその意味を説きました」
 世尊は一人の比丘に阿難の所に行って呼ぶように言い、そのようなことがあったのかを答えさせるよう言った。
 比丘は仏の足に頭をつけて礼をなすと、周りを三回まわってから去った。
 尊者阿難はすぐに仏の所に行き頭をさげて礼をなし、隅にさがってひかえた。
世尊「そのようなことがあったのか」
阿難「はい」
世尊「どんなことを言ったのか」
 尊者阿難は言った。


慎んで過去を思うなかれ また未来を願うなかれ
過去のことはすでに滅んだ 未来はいまだ至っていない
現在にあることについて そのことのみを思うべきだ
変化しないものなどないと思うのだ 智慧ある者はこのようにさとる
もし聖人の行をなせば 誰が死を愁えよう
死に会わなければ 大いなる苦しみと災いの患いはなくなる
かくのごとく思い精勤し 昼夜怠らないようにせよ
だからいつも説くべきなのだ バッデーカラッタの偈を

世尊「阿難よ。どのような比丘が過去を思うのか」
阿難「世尊、過去の経験を楽しみ、そうありたいと望むのなら、過去に感じ想い行い判断したことを楽しみ、そうありたいと望むのなら、それは過去を思う比丘です」
世尊「どのような比丘が過去を思わないのか」
阿難「世尊、過去の経験を楽しまず、そうありたいと望まず、過去に感じ想い行い判断したことを楽しまず、そうありたいと望まないのなら、それは過去を思わない比丘です」
世尊「阿難よ。どういう比丘が未来を願うのか」
阿難「世尊、未来の経験を楽しみ、そうありたいと望み、未来に感じ想い行い判断することを楽しみ、そうありたいと望むなら、それは未来を願う比丘です」
世尊「阿難よ。どういう比丘が未来を願わないのか」
阿難「世尊、未来の経験を楽しまず、そうありたいと望まず、未来に感じ想い行い判断することを楽しまず、そうありたいと望まないなら、それは未来を願わない比丘です」
世尊「阿難よ。どういう比丘が現在を受け入れるのか」
阿難「世尊、もし比丘が現在を楽しむのなら、現在の経験を楽しみ、そうありたいと望んでいるのです。現在、知覚し、想い、行い、判断したことを楽しみ、そうありたいと望んでいるのです。このような比丘を現在を受け入れる者と言います」
世尊「阿難よ。どういう比丘が現在を受け入れていないのか」
阿難「世尊、もし比丘が現在を楽しまないのなら、現在の経験を楽しまず、そうありたいと望んでいないのです。現在、知覚し、想い、行い、判断したことを楽しまず、そうありたいと望んでいないのです。このような比丘を現在を受け入れない者と言います。
 世尊、私はこのように、夜、講堂に集めた比丘たちに話し、バッデーカラッタの偈と意味を説きました」
 そこで世尊は比丘たちに告げた。
「よきかなよきかな。我が弟子には眼と智と義と法がある。なぜか。弟子は師の面前でこの句はこの文はと細かく意味が説ける。まさに阿難比丘の説くように汝等もまた受持すべきだ。なぜか。この説明は意味をよくとらえてそのとおりだからだ」
 仏はこう説き、尊者阿難と比丘たちはそれを聞いて喜んでうけたまわったのだった。

阿難説経第六、おしまい。

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