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交換日記もある。

先週「さみしい夜にはペンを持て」古賀史健著 を読んで、
思い当たるフシや目からウロコなことがたくさんあった。

日記は「秘密の書き物」から「秘密の読み物」に育っていく。
書きたいから書いている、が、読みたいから書いているになってくる。
自分の気持ちを書いてくれるのは自分しかしない。きょう起きたおもしろいことを書いてくれるのは自分しかいない。
『わかってもらおう』とする自分と『わかろう』とする自分、伝えたい自分と知りたい自分がいて、
そして何年もかかって自分が自分の日記の読者になっていく…

(「さみしい夜にはペンを持て」より抜粋させていただきました。)


押入れの段ボールにつまってた日記とノートの束、他人から見たら完全にごみかもしれない遺物(まだ死んでないけど)が、ぺかぺかと光を放って見えた(気がした)。


その中に、中2から高3までのYちゃんとの「交換日記ノート」が4冊ほどとってあった。
(途中、日付が飛んでる分2冊くらいはたぶんYちゃんの所に行ったままなのかもしれないけどもう大昔過ぎて忘れた。)

それは2人それぞれの黒歴史…でもなくて、いや、思春期の少なくともわたし的には自己中なまでの思いの丈をばんばん書きなぐっていたと思う貴重な成長過程の記録物(そうか?)として、Yちゃんと再会するまでは保存しておこうと思っていた。

でもYちゃんとは卒業以来1度も会えていない。
今では連絡の取りようもない。

別にケンカ別れしたわけじゃなくて自然に、また明日会えるみたいに、風のようにバイバイ〜と別れたから、
(ここはカッコつけるところでもないけど)
この時間の隔たりはどう捉えたらいいんだろう…と考えても、会えばきっとすぐ昔みたいに戻って話が出来るような気がするのだが、、

そう思ってるのは私だけかもしれない?

ま、いっか。
いつか会うことがあったら「こんなのあったよ」と、
手渡してみたいなと思う。
Yちゃん果たして笑ってくれるか。
「えー、まだ持ってたの?!」
と、呆れるかな。

彼女は高校にあがるとテニス部からフォークソング部へ転部して、文化祭でりりィの「心が痛い」とか歌ってて、理数コースを途中から一般コースへと変えて、、という場面場面は思い出せるけれど、
5年間の交換日記の間にYちゃんが心の奥の深いところで何を考えて成長していったのか、計り知れない。

卒業後は「法律の勉強したい」と言っていたのを聞いたのが、確かYちゃんと会った最後だった。
それが卒業式の日だったのかな。

今、ノートを読み返すと、友達のことや勉強のことや自分自身のことを、Yちゃんは少なくとも私よりはずっと心の芯の部分でシッカリと見つめていたんじゃないかなと思う。字もとてもきれい。

高2の頃の日記に、Yちゃんが好きだという詩がふたつ書いてあった。
ひとつは、古文の教科書でみつけて気に入ったという紀有常の歌で、

「ひととせに ひとたび来ます 君まてば 宿かす人ぞ あらねとぞおもふ」

もうひとつは、
「あなたは笑うよ、ほんとうに笑うよ…」ではじまる、
Yちゃんは及川恒平の歌だと教えてくれてたけど、私はついぞ聴いたことがないまま、
冒頭だけが記憶のすみに残っていた。

最近になって読み返した時、それは「もうひとつの世界」という曲だとわかりSpotifyで聴いてみた。
Yちゃんからはケメの「今は昼下がり」とか陽水の「夏祭り」とかいろいろ教わったけれど、何かどれも、その当時より何年も経ってから心に沁みてくるものばかり。

今回初めて聴いた及川恒平の「もうひとつの世界」は、50年近い時を超えてYちゃんから届いた気がして、懐かしいようなちょっと切なくてとても新鮮なような、不思議な気持ちがした。

昔のYちゃんから未来の私に届くこと。
まだ知らないYちゃんと今もまだ知らなかった自分のことが未来(今)の自分に届く。


卒業式の日に、Yちゃんが最後に書いて持ってきてくれたノートはまだ新しくて使い始めたばかりだったので、ページがたくさん残っていた。
私は家に持ち帰って自分の最後の日記を6ページくらい書いたけど、
それはもう渡す機会がなくてそれっきり私が持っていて今日に至ります。

今、これをYちゃんに読んでほしいような、今更…なような、微妙な気持ちだけれど、、届いたらすごいな、と思う。

とても控え目な希望。。笑