けじめをつけるために、一つずつ
自分の人生やこれまで生きて来たことに「けじめをつける」というのは、それなりに難しいことだと思う。もちろん、薬と酒をかっくらって風呂にでも寝っ転がってみたり、あるいは先日アップしたトリカブトとロヒプノールを口に放り込んでしまえばそれで終わるところではあるけれど、なすべきをなして、やるべきをやって、きちんと終える。そういうことになると、それはとても難しい。「生きていたい」気持ちは何をどうやったってゼロになることはないし(希死念慮に苛まれて生きて来た僕の場合、その逆も然りなのだけれど…)、そういうものをきちんと断ち切って「終わらせる」のは本当に難しいことだと思う。
だから、髪と眉を全て剃り上げてみた。少なくともこれで、僕は「まともな人」ではないし、出来ることの範囲はとても小さくなっただろう。即身仏になる人たちは五穀、十穀と食を断って行ったというけれど、これはきっとそれに近いことなのだと思う。まぁ、空気穴のあいた穴倉の中で即身仏になるには僕の身体はちょっと向いてないし、あくまで観念的に、ということだけれど。ひとつひとつ、僕に従属する、僕の大切なものを処分していっている。書籍やテーブル、コレクションのグラスや酒、包丁や皿、調理器具。
もし、僕の個人的な連絡先や住まいを知っていて、欲しい人がいたら声をかけて欲しい。良い道具たちだから、誰かに使われた方がうれしいだろう。コーヒーと茶の区別すらぼんやりしてしまった僕の味覚に、そんな道具はもう必要ない。諦めがついて、本当によかった。
ひとつひとつ、また一つ。
失うべきものを失っていく。
それは、そうなるべきものだったんだろうし、
それを選べることは、幸福なことなのだろうと思う。
大事に使ってくれる人がいたら、連絡をください。
道具は、大事にしてくれる人の下にあるべきだから。
どこまでもどこまでもそぎ落として、最期に残ったそれを世に放つ。
残った時間はとても短いけれど、一つ一つ丁寧に。
きちんと、終える。それだけは、やり遂げたい。
長年長髪を後ろで束ねていきてきたけれど、自分自身にけじめをつける時にその髪型は、ちょっと良くない気がするからね。わかんないけれど。
最後の最後に、僕は顔と本名を出してすべてを語る。
その時にふさわしいのは、まぁ、こういうのじゃないかな、と思った。
なんとなくだけどね。
もし、僕の意思の強さが間に合ったなら、僕の最期におけるあり方は、考えられる限り最大の苦痛を、可能な限り長い時間伴うものであるべきだと思っている。実行できるかはわからない。僕は、とても怖がりだから。
でも、そうしてこそ、これからの時代を生きる発達障害者のために、いや、これは嘘だ。僕の本を買ってくれた人たちへの恩返しになるのではないかと思っている。個人情報を暴露され、未来を絶望した障害者の苦しみ。「アウティング」がもたらすもの。
あるいは、取引先すら巻き込んだ誹謗中傷や業務妨害(事実、僕はこの2年ほぼ他社を介した仕事が出来ていない。大事な取引先を巻き込むのは何より望むことではないから)がどのような結果をもたらすのか、圧倒的な意思の力で、燃え盛る炎の中不動の姿勢を崩さず灰になっていったベトナムの僧侶(僕の最も尊敬する人物だ)ほど上手くやれるかはわからないけれど、出来ることをきちんと、精一杯やりたい。
僕はそうしたい。
発達障害を抱えた人々や、そのご家族に本を売ってお金を稼がせてもらったのだから。返せる恩返しはもう、これくらいとしか思えないから。
それでも、本当にありがとうございます。
僕は幸福です。
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