素晴らしい部屋の素晴らしい眺め
物書きというのはちょっと珍しい犬みたいなものだから、成功者の家に招かれるなんてイベントもあったりする。もちろん、素晴らしいマンションも素晴らしい一軒家もみんな素晴らしくて、そこには人が人生において勝ち取ったものの美しさがある。大いに誇るべきだろうと思う。僕は些か長く貧乏生活を送ってきたけれど、清貧の考え方にはあまり賛同しない。安くて旨いものもたくさんあるし、お金があるならお金をかけた楽しみも味わうべきだ。それは近所を散歩することと、タイまで格安航空券で旅をすること(素晴らしい屋台と雑多な街!)、あるいはパプワニューギニアの自然やグァテマラの遺跡を見に行くことの違いでしかないんじゃないかと思う。
でも、「素晴らしいおうちですね」と形式的に内装や調度を褒めるときにどこか寒々しい気持ちがあることも事実で、そこにはいつも何かが不足しているような気がする。例えば、裸一貫から大金持ちにたたき上げた人の家に遊びに行くなら、僕はその人が貧しかった頃のデスクが見たい。そこにはきっと屈折や痛み、あるいは欠乏を補う工夫といったものが幾重にも折り重なっていて美しいんじゃないかと思う。人はお金持ちになって身の回りを刷新すると、往々にしてこの美しさを失ってしまう。あなたの一番格好いいところはそこじゃないのにな、と感じることがある。もちろん、家や部屋というのは人の人生そのものだから、少し長く時間を過ごさせてもらえればそういったこまごました美しさを見つけることは出来るけれど。でも、「成功者の部屋」のドアを開けた瞬間にそれを見つけることは難しい。だから、「素晴らしいおうちですね」はいつもどこか寒々しい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?