柿泥棒、とそれからの人生
「柿ってさ、盗んでみたいよな」
そんなことを友人が言ったので、ふと見上げてみると。道の端、古い石塀の上に伸びる柿の木に、鈴なりの実が生っていた。僕が生まれ育った北海道に柿の木はなかったので、この季節はいつも「美しいな」と思っていたのだけれど、「盗んでみたい」と言われて思わずはっとした。鈴なりの柿をひとつ捥いで、逃げる。なるほど、これは三十五歳になった今になっても十分魅力的なことだ。いや、ちょっと信じられないくらい魅力的なことだ。
実際のところ、盗んだ柿は美味しくないことが多いと聞く。いわゆる甘柿はわりと新しい時代に発見されたもので、植栽の柿は渋柿の場合も多いとか。その場合は渋抜きするなり干すなりしないと食えたものではない。しかし、夕暮れに映える柿のこなれた色と丸みは、「盗んで食べたい」ではなく、もっと純粋な「盗みたい」衝動を発生させてくる。自分のものではない丸く橙色に艶めいた美しいものを、ひとつ懐に入れて逃げたい。この衝動がどこからくるのかはわからない。でも、それは僕の中にも確かに存在する。
「盗む」ことについて。僕の地元はいつだって空前の万引きブームだった。ひどい話になると、「試着室で着れるだけ着て、その上に学ランを羽織たまま、走って逃げる(欲張り過ぎてうまく走れず捕まったアホもいた)」とか、「スーパーのカゴに詰めるだけ詰めて、走って逃げる」とか実に様々なソリューションが存在した。今思うと、あいつらの解決ソリューションは大体「走って逃げる」だった気がする。ひどい話だ。そして、大方のそれは「万引き」なんて言葉で収まるものではなく、悪質な窃盗そのものであり、「店員ともみ合いになり、最終的には強盗傷害に」なんて最悪のオチもあった。
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