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見えない象、さみしいから書くこと、それはきっと仕方がない悲しみ

 文章を書く理由について言葉に出来たのは、たぶん30歳を過ぎた頃だったように思う。それは言葉にしてみれば本当につまらないもので、「流石にそんなはずはない」と何度も考えこんでしまったほどだったけれど、それから一年くらいの時間をかけ、ありとあらゆる角度から仔細に点検を繰り返し、あらゆる反論を試みた結論として。僕が文章を書いている理由は「さみしいから」でしかなかった。

 自分は生まれてこの方、信じられないくらいさみしかったのだと気づいたときはそれなりに驚くものがあった。なにしろ、僕は三十路を過ぎた男だ。文章を書く理由にももう少し大人らしいものがあっていい。文学史に名を残すとか、文章美の極限を追求するとかそんな大げさなものじゃなくても、もう少し恥ずかしくない理由があってしかるべきだ。それでも、どう考えても、本当に否定したいのだけれど、僕が文章を書く理由は「さみしいから」でしかなかった。

 人と通じ合えた時、それも感情や共感ではなく言葉が確かに通じたと感じたとき、僕はなによりの喜びを感じる。言うまでもないことだけれど、そんな奇跡みたいなことはそう滅多には起きない。言葉が「通じる」には本当にたくさんの要素が噛み合う必要がある。知識、経験、語彙、そしてお互いの人生のありかた、そういったものがたまたま信じられないくらい噛み合ったときにだけ「通じた」というあの喜びが起きる。それは、見えない象について語り合うことに似ている。その手触り、大きさ、暖かさ、そういうものについて誰かと通じ合ったとき、「そこに確かに象はいる」という実感が得られる。これほどうれしいことは人生にそうそうない。

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発達障害ライフハックのような実用文章ではなく、僕がライフワークとして書きたい散文、あるいは詩に寄っていくような文章を書いております。いろいろあって、「善い文章」を目指して書くようになりました。ご興味ありましたら是非。

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