朝四時から肉を焼き店番をする
年始は知らない店で知らない人たちと話しながら肉を焼き、知らない人たちを店にご案内する店番を行っていた。つまり、何故かわからないが労働に従事していた。しかも、朝の四時から。二〇二四年 元旦。始めに行ったことは労働であった。何故こんな事になったのか。
そもそも僕は働くことは好きではないし、嫌いなわけでもない。今の仕事も「自身のこのスキルを上手く活かせるから」という理由で勤めているだけだし、そこに好きか嫌いかという特別な感情が有るわけではない。そんな淡白な理由故に仕事は淡々と行われ、粛々と完遂させる。めんどくさいなと思うことはあれど、嫌だと思うことはない。
しかし、しかしだ、元旦という日本中のほとんどがお休みムードに入っている中で働くなんて気が狂ったことを行いたくない。できれば、誰とも会わない環境に行き布団の中で本でも読みながら静粛にと睡眠に沈んでいきたい。更に言えば、粛然と酒を飲み、森閑と肴を口にする。もちろん、この行為全ては厳粛に執り行われ最終的には密やかに酩酊に入るのだ。グフフ。
だがそんな願いは天に届かず、僕は鶏肉を焼きながらスープを炊き、ぜんざいを混ぜ、客を整列させながら愛想を振りまくという労働中の労働、サービス業に従事したのだった。朝とも言い難い時間から働き出すのは本当に疲れた。もちろん、前日にはしこたま酒を飲み腐り、頭痛が思考を支配している状態であったのは言うまでもない。して、労働が終わり家に帰り秒速でベッド・イン。元日は睡眠を貪り尽くし気がつけば夕方であった。あぎゃん。
しかし、その中でも楽しいことは少しだけあった。労働に従事しているとは言えども、知らない人と関わることが出来るということだ。この知らない人というのは、僕自身とは違った環境で暮らしているのでそもそもの価値観が違う。価値観が違うということは思考も違う、話す言葉も違う。その違いについて触れることが出来たのは結構面白いことであったなと思う。
違いと言っても、餅は砂糖醤油で食うかきな粉で食うか、みたいな小さいな違いでしかない。本当に小さい小さい違いだ。しかし、その違いにいざ直面すると大変な驚き共に感動すら覚えることもある。今回従事した労働でもその違いを発見することが出来た。
例えば、餅。普段食べる餅はあんこが入っているか、なにも入っていないか、この二択を選択する。しかし、労働のお礼として頂いた餅の中には田芋をあんこにしたものが内包されていた。これは驚いたと共に大変美味しくて感動した。聞くと、手間では有るがこちらのほうが甘さがスッキリしていて美味しく食べることが出来る、とか。
更に言うと、酒。酒、大体が泡盛だが、この泡盛に緋寒桜のさくらんぼと砂糖を漬けて置いておくと、ものすごく甘く円味のある酒になる。これにさんぴん茶を割って飲むと、すごく香り豊かな酒へと変貌するのだ。聞くと、泡盛は飲めないがこの処置を行うことで一遍に飲み腐ることが出来るのだ、と口元を緩めていた。
なんつか思ったのは、生活を良くしようと何かしらの手を打つという向いている先は同じだが、僕のように本を読んだりなどして他人が作ったもの・人工物で生活を良くしようと模索しているのに対し、労働の中で出会った人たちは自然の中に有るもの・自然物を利用して生活を良くしようとしている。
人工物であるところの本から知識を接種する、自然物であるところの芋やさくらんぼを利用して経験として蓄える。どちらも体験を基にして生活の糧にしようとする方向性は同じだが、方法が違うだけで出来上がるものが大きく変貌する。このことに感動し、今こうやって言語化出来ただけでも、労働に従事して良かったのではないかと思う。ただ、朝四時からは本当に勘弁してほしいが。
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