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好き、がよく分からないという話

恋人が出来たことがない。

恋愛をしたことがない。小学生以来、好きな人というものが出来たことがない。(このときの『好きな人』というのも、実際好きだったのかは怪しくて、同級生が楽しそうに話している恋愛話の輪に混ざるために、当時目立っていた子を『好きな人』としてでっち上げだんじゃないかなと思っている。)当然、恋人も出来たことがない。『好き』という気持ちもよく分からない。

巷では何につけても恋愛、恋愛である。YouTubeでもTwitterでも、好きな人、彼氏、彼女、恋人なんてワードはいくらでも目に付く。自分には関係ないけれど、こんなにコンテンツが溢れかえっているということはきっと楽しいものなんだろうな、という気持ちで眺めている。流れていくそれらを、距離をとって眺める反面、受け止めて楽しめるのは羨ましいな、とも思う。大袈裟だけれど、世界から疎外されているような気持ちにもなる。

恋愛に限らないが、相手からの『好き』という目には見えない感情によって成り立つ関係を信用する、ということが私にはよく分からない。怖いじゃないか。言葉や態度でいくら伝えようとも、関係の基になる感情は目には見えない。やろうと思えばいくらでも繕える。

それに、相手の気持ちがあってこそ成り立つ関係、というものは不安定で怖い。例えば、片思いなら、始めることも終わらせることもすべて自分の中で完結できる。しかし、一旦相手から好意など向けられようものなら、私はその好意の終わりを想像してしまう。だから私は、相手は私のことなど興味がないし、好きでもない、私が構ってもらいにいっているから反応を返してくれる良い人なだけだ、と考えるようにしている。

私は恋人が出来たことはないが、友人(と呼んでも許してもらえそうな関係の人)はいる。しかしこの関係においても、相手は私のことなど好きではないし、何なら迷惑なんだろうな、と思いながら接している。細かいことだが、相手が私を「友人」だと言わない限り、私も相手を「友人」とは言わないようにしている。言葉一つで何が変わるのか、とも思うが、相手が私とその関係にあると承認しない限りは、私が主張するのは申し訳ないな、と思うのだ。

こんな人間でも、いや、だからこそ、互いを信頼しあった関係というものに憧れてしまう。友人だとか、恋人だとか。

私は感情を向けられたり、向けたりするのが苦手で、つい自分の中に封じ込めてしまう。だからこそ、感情を向けても許される関係に憧れてしまう。勿論、そんな関係にあるからといって全ての感情を向けていいわけではないし、受け止めるべきだとも思わない。どんなに関係が深くても、他人同士であることに変わりはないから、全てを理解できるわけではないと思う。ただ、何というか、「理解しようとしてくれるだろう」と期待を寄せられる相手がいる、というのは安心できることなんじゃないかと思うのだ。

今の私は、他人からの感情を受け止める覚悟がない。他人と向き合うところから始めるべきなんだろうな、と強く思う。できる気がしないけれど。


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