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エッセイなんてこう適当に書けばいい

文を書くのがしんどい。

非常にしんどい。


元々「絵も漫画も描けなくなったから仕方ない。日記のようなエッセイのようなものを書こう」と筆を走らせたのが最初だが、今はもう高座から落語を話すかのように読み手を意識している。もう完全にエッセイと意識して書いている。なんと息苦しい。もし遥々noteの新着作品から私を見つけてしまった初めましての方には非常に申し訳ないが、私には学もなければ、ユーモアもなければ、人生の成功論を話せるわけでもない。むしろ学がないからつまらないことで悩み、ユーモアがないから場をよく白けさせるし、成功体験が少ないから一般論でいう『人生における成功』からは程遠い生活をしている。そもそも『人生における成功』とは何だという話だが。


『人生における成功』から話が飛躍するが、私はつい最近「なんか史上最強に胡散臭い人間の名刺を作りたい」と思い付いて1時間ほど時間をかけてこんなものを作った。



本当にしょうもない名刺だ。

暇を持て余すと私はよくそういうしょうもないことを考えて実行に移す。


この企画をXのお友だちに話してみたら「名前は左に置いた方がいい」「胡散臭さを演出するなら逆に名字は普通にした方がいい」「経歴は要らない。インスタのアドレスの下に胡散臭い役職を書いた方が最高にグッド」「夢人の振り仮名を『you&meets』とかした方が最高になんやこいつ感が出る」との助言も受けた。このお友だちも大概である。


そこで閲覧用アカウントでこういう胡散臭い人間について勉強しようと胡散臭い人サーフィンに励んだ。するとたちまちに関連ツイートが全体的に胡散臭くなった。ここで私は作業を断念した。このままいけば私まで胡散臭い人間へと改造されそうだった。朱に染まれば何とやら。集中的に強烈な思想を受け続けることは実に恐ろしい。


それで胡散臭い人サーフィンをしていて思ったのだが、なぜ胡散臭い人は「成功」という言葉に拘るのかという話だ。


人生の岐路では難しい坂を選びなさい、楽な道に行けば転落していくのみだ。


こういう文句は瞳孔が上昇志向になるほど見た。

なぜ人生のゴールとやらが高いところにあると決めつけているのだろう。


楽な道ばかりを選んで絶讃堕落中の人間の見解だが、おそらく「山の頂にゴールがなければいけない」と考えているのではないか? この手の人間だが学歴も経歴も特別に誇るものはないが、ワーキングプアまで落ちるような図太い自尊心はない。半端に人生の坂道をだらだら登ってきた故に人生の終着点たるものが何の意味もないことを認めたくない。だから教材を買ったりセミナーに通って自分自身の立ち位置を社会的に上昇させようとする。



あるマルチ勧誘で有名な企業に誘われたことを思い出す。私に誘いをかけた青年は「この携帯浄水器すごく質がいいんですよ」「◯◯さんはポルシェを買うぐらい稼いでいるから夢がある」と目をきらきら輝かせていた。もう縁は切れてしまったが今も携帯浄水器を片手に『ポルシェに乗った先輩』とやらに憧れる生活は続けているとは思う。彼には気の毒だが。「メルカリで安値で転売されているこのゴミをどうネットに疎いハイキングが趣味のジジババに大量に売りつけられるか」という思考でいられるサイコパスだけが成功できる世界だ。もし読者に思い当たる節があれば人生の堕落者の戯言と受け取ってほしい。君の人生は間違ってもなければ正解もない。


「じゃあお前の人生のゴールはなんだ?」と野次が飛んできそうだが、これには「死んだところがゴールだろう」と即答は出来る。明日死のうが何十年後に死のうがそこにいた地点でアガリだ。我々はそういうしょうもない双六をやっている。


「文を書くのがしんどい」と言いながら随分と長話をしてしまった。


今回は色んな人間の話をしたが、別にこの人間が正しいだの間違っているだの断ずるつもりはない。別に人生の頂とやらを目指すことも否定しない。ポルシェに憧れる携帯浄水器も否定しない。


ただ関わった色々な人に願うことは自分自身を否定することだけはやめてほしい。世間やら成功者やら漠然とした何かが君を否定するだろう。別に気にすることはない。君を否定するそういうものは失敗や堕落を許さなければ存在出来ない実につまらないものだ。私は君がどんな人間だろうが否定はしない。だからどうか君も君を否定はしないでほしい。死んだところがアガリだ。所持金も名誉も持っていけないのだから気ままに賽を振ればいい。


随分と説教臭いエッセイとなった。どうやら胡散臭い思想が少しばかり入り込んでいる。気ままにポケモンでも捕まえて童心に戻ろう。GOもスカーレットバイオレットもどれでも楽しい。ポケモンはいいぞ。


2024/07/01


社会不適合うさぎ

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