真っ暗な部屋、静かな空間の中で、僕はいつものようにゆっくりと目を開けた。
そして、はっ、と一息つく。生まれた瞬間に消えるようにどこかにいってしまう弱々しいそれが、脳内に一打の鐘を鳴らし、徐々にクリアになってゆく視界の中で、僕は身体を起こして全身に意識を集中させていた。
徐々に焦点が合ってくる。それと同時に、意識は外へと向かっていった。さぱーと静かに聞こえてきそうな雨の音に耳を澄ます。ぴちゃんと加えて音がするのなら外は雨が降っているのだろう。僕は耳を澄ましていた。そして、音一つしない世界を確認して、今日はきっと晴れているなあ、と感じた。
気持ちを落ち着かせ、心の平安を感じてからゆっくりと窓に近寄る。ポリエステル生地のカーテンの重みを感じてから、覗くように今日の天気を確認するのだ。都内に建つマンションの一室、南向きにある僕の部屋に十分な光が降り注ぐと、この部屋の寒々しさを一層際立たせる。そして、僕は逃げるようにして足早にこの部屋から出て行く。いつからこんなマイルールを作ったのかはもう覚えていない。こっちに来てからいつの間にか行なっていた決め事にリズムを覚え、気づけば毎朝の日課になっていた。部屋から出ると、まず必ずトイレに行き、その後は顔を洗って歯を磨いた。自然と身体がこの動線通りに動くから、僕は意識せずに動くだけだった。
「おはよう、はる」
彼女もまだ起きたばかりなのだろう。昨夜見たパジャマ姿のままでそこに凛と座っている彼女は、カーテンと窓の間から覗く線状の光を左半身いっぱいに受けている。耳の根元まで伸びるきらきら輝くショートヘアが、彼女の骨格の良さを際立たせている。姿勢良く背筋を伸ばし座っているが、力みはなくリラックスしてそこにいる彼女の雰囲気が僕は好きだった。
「おはよう」彼女の向かいの椅子に座り、僕は言った。
「朝から紅茶淹れちゃった。はるも紅茶いる?」
「うん。ありがとう」そう彼女に微笑みかけると、うん、と優しい眼差しでほほ笑み返してくれる。彼女と一緒にいるときは、常に心の平安が保たれている気がする。朝、少しのことで気分が落ちるようなことがあっても、彼女の姿を捉えただけで、僕の心臓の鼓動はゆっくりと正常なスピードへ戻っていく。身体の熱が無くなりスゥーと深い呼吸を鼻ですることができる。
僕は今日、彼女に話そうと決めていた。昨日初めて医者に診てもらった。それは僕にとって大きな一歩であり、前向きなスタートになった。「軽度のパニック。それに予期不安や広場恐怖、つまりアゴラフォビアというやつですね。お薬を出しますので、時間をかけてゆっくりいきましょう」そう告げられると、なんだかホッとした。今の僕には、これらを受け入れる心の準備があったのだ。それは長い年月をかけて培われた、努力の賜物でもあった。
僕はこれまでにたくさんの友人を失った。そして時間を無駄にしてきた。僕の履き違えた思想によって友人や家族を傷つけ、自分を苦しめた。たくさんの人が僕の元から去っていくのを見るのは辛かったが、少なからず僕の側にいてくれる人が今もいる。僕はその人たちを大切にして、そして過ちを繰り返さないためにも、教訓を忘れずに生きてゆく。背負うものが多すぎて、度々足が止まりかけたこともある。教会の戸を開けたくもなったが、僕にはまだ早い気がした。カルマを認識し贖罪の意味も込めて、過去の自分も含めて全てを受け入れていく覚悟である。
自室に戻り、デスクの上にあるファイルの束を手に取る。そのずっしりとした重みを全身で感じると、いつの間にかまた体が熱を帯びていた。少し心拍数が上昇している。僕はもう一度、ふうーっと、深い呼吸をした。

      ※

積み重ねであった。高校生になった頃には、僕はとにかく漲っていたに違いない。何に漲っていたかというと、それは答え難い。目には見えない抽象的な、魂のような不確かな存在が、僕を奮い立たせ背中を押していたのだろう。過去を振り返ってみると、それは取るに足らない下らないものであるが、己の社会の中だけで生きていた自分にとっては、それは絶対であり、必要不可欠なものであったに違いない。
「はるくーん」
「野崎。どうした?」
廊下を歩いていた僕を呼び止めたのは、同じクラスの野崎凛耶だった。160センチ前半ぐらいで黒髪が胸の辺りまである彼女は、パタパタと小走りで僕の前にやってきた。
「はるくん、聞いたよ。この前の模試、良かったんだってね、すごいよ、さすがはるくん。また英語教えてね。
あっ、そうだ、先生にはるくんのこと呼んで来いって頼まれて。職員室まできて欲しいって」
そう上目遣いで僕を見つめながら話す彼女は、自分の長所を上手く使う方法を知っているのだろう。そして、事あるごとに僕に話しかけてくるのは、きっと僕に好意か何かの類を示していることも僕は知っていた。
「まじ、なんだろう。俺そんな悪い事してないけどなあ。ありがとね」
自然な感じで好青年っぽく言ってみる。僕は相手に好かれそうな言葉選びをなんとなく知っていた。それは今までの経験の中で、相手の表情や仕草なんかを見て気付いた。
職員室のドアを開けると、雑然と並ぶたくさんのデスクはどれも同じように散らかっていた。
「朝日、こっちだ」担任は奥の方で手を挙げて僕のことを呼んでいる。「朝日おまえ、この前の全国模試が良かったらしいなあ。このままいけば第一志望の国立も大丈夫そうだな」威圧的な態度にも思えるその喋り口調は、生徒の間でも賛否を分けていた。僕は臆することなく「ありがとうございます」と伝えた。
「今日の職員会議で話が上がったんだが、おまえに卒業生代表として何か言葉を言って欲しい、どうだ? 卒業式は先のことだがこれから受験で忙しくなってくる。ましてやおまえは国立志望だ。卒業式直前まで忙しいはずだ。早めに言っておこうと思ってな」
試験も終え今週末から冬休みが始まる。それからは授業もなくなり、自宅学習になるので卒業式までほとんど学校に来ることは無かった。
正直なところ、こういう役回りは僕がするのだろう、そう思っていた。なぜこんな考えを持っていたのか説明はできない。それは直感というか、蛇口からぽたぽたと一滴ずつ垂れるように滲み出てくる何かだった。その雫がポタッと静かな波紋を作るたびに、僕は優越感に全身を震わせていた。
挨拶をして職員室を出た。ガラス窓が壁半分の大きさを占め、それが何枚も連なっている廊下から綺麗な夕日が見える。赤黒く光り、ゆっくりと早く沈んでいく太陽を眺めながら廊下を進んでいく。通り過ぎる窓一枚一枚が映画のワンシーンみたいで、コマ送りに太陽が沈んでいくのを見ているみたいだった。


寒々しい景色から徐々に鮮やかさを持ち始めた外の景色に、樹木は陽光を欲しているように見え、皮膚が太陽からの熱を感じ始めて春の訪れを感じた。
今日は朝から騒がしかった。「はるー、お弁当いるんだっけ?」と朝早くに母さんに起こされ、「今日は卒業式だから大丈夫だよ」と言うと、「ほら、これ。生姜のお茶。スピーチで喉使うから」と、寝起きに苦い飲み物を飲まされた。「朝からきついよ」と笑って母に伝えると、「頑張ってきな」と肩を強く叩かれムッとした。母さんはきっと僕の気持ちを考えて、今の状況を踏まえて色々と気にしてくれているのだろう。
久しぶりのクラスに入ると、雰囲気が少しゆがんだ気がした。静かに室温が一度下がったようだった。周りの視線が一瞬、僕に全て集まる。背を向けている者もいるが、背中で僕の気配を確実に感じ取っている。見るな、と言われたものを見たくなるような。物珍しいものを見てしまい、興味を失わずにはいられない状況に皆がいるみたいに。クラス一人一人の視線が僕に向けられている気がした。
なぜかは分かっていた。僕は第一志望の大学に落ちていた。あれだけ期待を受け、既定路線だと自分自身も含めて誰もがそう思っていたが、何が原因だったのか僕はミスを繰り返し、そして合格を逃した。
何人かの視線でそれを感じた。普段からこういった役回りを受けてこなかった。だからこそ周りの僕に対する、視線や行動の些細な変化を敏感に感じ取った。日常の中では僕をネタに陰口などを叩くことがないからこそ、最後に大きなイベントが来たと、待ちわびていたかのように僕は格好の標的となっていた。普段は僕を馬鹿にできなかったやつが一瞬の機を狙って飛びかかってくる。自分の不満を他者にすり替えて自己肯定感を高めようとしている。予想はしていたが実際目にすると初めての感覚だった。気持ち良いものではない。クラっときた。足元から何かが崩れ落ちていく感覚。教室のドアを強く掴んでいた。
「おはよう、野崎」
「あ、おはよう、はるくん」自然体を装っているが、いつもの上目遣いはなかった。戸惑いと哀れむような目だ。彼女の視線の先に憐れむべき何かがいるみたいに。
「はるくん、どうだった?」うわべだけのクラスメートが寄って来た。
「はる、センターどうだったよ」知らない顔の奴になぜか質問された。
よそよそしそうに、知らないとでもいうように何人かのクラスメートが僕に話しかけてくる。その時の笑みはどこか嫌な感じがした。口角を普段以上にあげていやらしい目つきで話しかけてくるそいつらは、私達は君を慰められるよ、と偽善者ぶって近づいてくるタチの悪い奴らに見えた。
「ああ、あまり上手くいかなくてさ。もう一年するかもしれない」僕がそう言うと、タチの悪い奴が一瞬口元を緩ませた。そして驚いたように言う「え、そうなの、はるなら絶対合格すると思ってた」、と。
またクラっときた。一瞬目の前が白くなり後ろに倒れそうになる。頭が一番重い身体のパーツということを脳が忘れ、平衡感覚の制御を放棄し始めた。次はさっきよりも大きな揺れであった。人生で初めて、こんな気分を味わった気がする。他人から褒められる、羨ましがられる日々を送ってきた。人の嘲笑の的になる気分は心底嫌なもので、足元の方からまたガサッと何かが大きく崩れていくのを感じた。


体育館に学年全体が集まると、かなりの人数だった。よく見る簡易的な装飾が壁に施されている。十八年間生きてきた中で、初めての経験に動揺していた僕は、与えられたパイプ椅子とわずかなスペースの中で落ち着けずに身悶えしていた。
「朝日はる」知らない先生が僕の名前を呼んだ。
その瞬間ザワっと、体育館中が揺れ動いた気がした。一瞬のざわめきに包まれると、またすぐに静寂で厳かな雰囲気へと戻っていく。僕は気にしないふりをするのに必死だった。平静を装い前へ踏み出すが、地面を踏んでいる感覚は全く無かった。おかしい、心臓の音が聞こえくる。そしてその音はとても早かった。知らぬ間に僕は大量の汗をかいていた。吹奏楽部が演奏しているはずだが、僕の周りの世界は無音で、ただ心臓の鼓動がドンドンとうるさいだけだった。
「卒業生代表の言葉。朝日はる」担任が僕の名前を呼ぶ。
「はい」と立ち上がった瞬間に視界がぼやけ、真っ白な世界が目の前に現れた。壇上脇に備え付けてある階段を数段のぼり、壇上中央に立ってみると、目の前は騒がしくざわめいていた。ススキ野原に風が吹いたように、一面が揺れているようだった。クラスだけではなかったのだ。学年中に僕の噂は広まっていた。皆が僕に勝手な期待を背負わせ、それが裏切られたとなったら、待っていたかのように己の鬱憤を晴らす道具にしている。それから帰宅するまでの記憶はほとんど覚えていない。一つ覚えているのは、壇上で見た景色の次にはまた視界がぼやけ、呼吸が早くなっていくのを感じた。倒れる、そんな感情が頭をよぎったと思う。

     ※

高校を卒業した後、僕は大学にも通っていないので、浪人生ということになった。卒業式は一週間前のことだったが、どこか遠い昔のように感じられた。
リビングにはすでに父と弟が食卓についており、まじまじとお笑い番組を見ていた。今日の夕食は、肉じゃが、オクラとゴマの和え物、トマトサラダ、ブリの照り焼き、そしてご飯と味噌汁だ。母は夕方ごろに仕事から帰ってくると、手際よく何品かを作ってしまう、そして全部が美味しい。
肉じゃがのじゃがを崩れないようにそっと箸でつまんでいる時、母がいきなりひゃあっと変な声を出した。それと同時に僕のじゃがは、簡単に真っ二つに割れ肉じゃがの森に落っこちていった。
「ん、どうしたの?」食い損ねた僕が怪訝そうな顔で尋ねると、「ブリの照り焼き。このお魚ね、ほんとは明日の夕飯に出そうと思って買ったのに、ついつい焼いちゃった。はる、明日スーパーに行ってお魚買ってきて」と、父でもなく弟でもなく、母が僕にだけ向かってその台詞を言うのは、家族の中で僕だけが日中暇をしているからだ。
翌日の朝、母が家を出る前に、「はるー、お魚お願いね」と確認してきたので、「どの魚?」と尋ねると、「ぶりがいい」と強く言われた。「なんで?」と尋ねると、「今週はぶりなのよ」とよくわからない返事がきたので、笑って頷くだけにした。
その日は朝十時から図書館に向かった。外観がコンクリート打ちっぱなしの二階建てで、周辺は赤のレンガで舗装してある。「ここからは図書館の敷地内なのでお静かに」とでも無言の圧をかけられている気がした。
自動ドアを抜けるとひんやりとした空気に身体が反応した。しかしそれも出入り口までで、二階に続く中央階段を上って行くと、古本の匂いと重い空気に満たされた蒸し暑く感じる空間へと変わっていった。平日の午前中なので混んではいなかった。いつもの決まった人たち、特にお年寄りの方が多いが、何人かは同士の姿も見受けられた。僕はきまって左奥にある横長のテーブルを目指して歩く。
二時間ほど経ちお昼も近くなってくると、なぜだか徐々に人が増えてくる。四人がけのテーブルはほとんど埋まっていて、僕の右横にも二十分ぐらい前に人が座った。最近、他人が横に来るとなんだか心が落ち着かない。もっと言えば誰かが横を通り過ぎたり、近くにいるだけでもソワソワした気分になり、周りにばかり集中してしまう。意識をそちらに奪われてしまうのだ。そして「あれ」に襲われる。
左の空いていた席にも別の人がやってきたのは、それから十分後のことだった。僕の両隣の席は埋まり、気づけば残ったのは己の身一つだけに思えた。心許なさに不安という気泡が僕の感情を埋めていく。僕の感情が「不安」という源泉を掘り起こしてしまった為に、あとは止まることなく溢れ出すだけに思えた。
「すみません、ちょっとだけ席を離れるので、このバッグを少しの間見ておいてもらえますか?」左横に座った男性がそう言ってきた。七十歳ぐらいだろうか、グレーのスリーピースのスーツに水玉模様のネクタイをしており、年相応に後退した白髪混じりの髪がキマっている方が、礼儀正しく頭を下げた。
「ええ、はい、もちろん」優しい瞳で見つめられた僕はすぐに視線を逸らした。
トイレの方に男性が向かっていくのを眺めながら、ふうと一息つくと心臓の音がうるさいぐらいに高鳴っていた。小さな太鼓が僕の真後ろでリズムよく演奏しており、胸に響く低重音が鳴り響いている。最近これを経験する機会が増えていた。
「すみません、ありがとうございます」
礼儀正しくその方はそう言って席に着いた。同時に僕は「全然です」と伏し目がちに答えると、荷物を持って席を立っていた。トイレの個室に駆け込み急いで鍵を閉める。心臓の音はまだうるさいままだ。僕はズボンを下ろさず便器に座り、両手で顔を覆いながら十分ほど俯いていた。


夕飯の魚を買う為に図書館近くのスーパーの中に入ると、店内はかなり混んでいた。昼食を買いにきたワイシャツ姿の人や、お昼ついでに夕飯の買い物をしている主婦の方で賑わっている。一歩前に進む度、僕がいたスペースはまた別の誰かによって埋められてゆく。どこを見渡しても人の波が際限なく続いていた。買い物客は商品を遠目で確認して、急いで近くにやってくる。別の買い物客とすれ違う時は、横目でカゴの中の商品を確認している。三つのカゴ一杯に買い物をしている婦人は、他人のカゴの中身を見るなり咄嗟に方向転換をして、確認した商品の元へと向かって行った。店内を忙しなく行き交う人々は、常に目をキョロキョロさせながら、己の導線確保に必死に見えた。そしてその光景を意識した時に初めて、気持ち悪い、そう感じたのだ。
僕が見る世界は色を失っていくように、徐々に真っ白になっていった。ドロドロとした気持ちの悪い、乳白色の世界であった。蛍光灯が照らす店内で、自分だけが曇りガラス越しに世界を眺めているかのようだ。白くぼやけた景色の中で、遠い奥の方がきらきらと輝いて見える。そして体のバランスを失い、前につんのめりそうになるのを寸前のところで堪えた。何かがおかしかった。突然、心臓の音がうるさいくらいに聞こえたり、目の前がキラキラとした世界に変わったり。高校の卒業式の壇上で経験したあれに似ていることが、最近よく起きていた。
人の波を掻い潜りながら前に進もうとするのだけれど、心とは反するように一歩ずつ体が重くなっていく。店内中央に位置する鮮魚コーナーが遠くに感じ、ぼやけた世界では怪しく冷気が立ち込めているかのように見えた。店内放送で流れる音楽はいつしか消え、僕の周りはただ太鼓の音がうるさく響き渡っている。忙しく行き交う人々の足音が消えたと感じると、次には知らない誰かが僕の横を通り過ぎていた。それは夜道に曲がり角で、突然誰かと直面したような感覚に近いもので、「恐怖」にも似たものであった。驚きでビクッと身体を震わせると、同時に呼吸が早くなり、心臓の音はまた早くなるのだ。いつの間にか僕は踵を返して来た道を足早に戻っていた。気がつくと、人気の無い駐輪場で膝に手をつき、息を切らしていた。
「母さん、ごめん。今日魚買えなかった……」
外もだいぶ薄暗くなってきた頃、母さんがエコバックを両肩に背負って帰ってきた。毎日帰宅した時は重そうなバックを抱えているので、上半身はかなり鍛えられているかもしれない。
「はる、これ持って。あー重い」
「今日スーパー行ったんだけど、良さそうな魚売ってなくて、そのまま帰ってきたんだけど、今日の夕飯足りるかな?」母さんの首元でゆらゆらと光るネックレスに視線を落とし、僕がそう言うと、「大丈夫よ。ありがとね、家にあるもので何か作るよ」と不満そうな顔もせずに優しくそう言ってくれた。母さんの両肩からバックを受け取ると、ずっしりとした重さがあり、そして肩にかけていた部分は汗で少し濡れていた。
「お米でも研ごうか?」と聞くと、「四合ぐらいかな、お願いね。お母さんは買ってきたプリン食べてからご飯の準備しようかな」と言って口元を少しだけ緩めた。優しく笑う母さんは決して「疲れたあ」と、僕らに心配をかけるような人ではない。「母は強し」を体現する人で、まずは僕たち家族を第一に考え動き回ってくれている。
今日スーパーであったことや最近図書館で起きること。世界がひっくり返ったように、自分がどこにいるのか見当もつかなくなる瞬間が訪れること。乳白色の世界に閉じ込められ気づけば前に倒れそうになったことや、心臓の音が五月蝿すぎるくらいに聞こえることはまだ言いたくなかった。
母がバックからプリンを取り出すと、「はるもいる?」と僕に一つ手渡す素振りを見せたので、「いただきます」と言って受け取った。少し恥ずかしかったが、ソファーを背もたれにして、母さんと横に並んで座って食べた。「美味しいね」と母が呟いたので、「普通にね」と言うと、「普通が一番よ」と笑っていた。

    ※

ぶりの件から三ヶ月が経とうとしていたが、状態は悪くなっていく一方だった。目の前が真っ白になり心拍数が異常に早くなる。身体中が熱くてどうしようもできないあの感覚は「めまい」や「動悸」というものだと知った。すぐ治るだろうと楽に構えていたが、思ったより酷いものなのかもしれないと気付いた。
例えば、弟と二人で買い物に行った日があった。太陽の輝きとその熱が僕たちの頭上で存在感を高め、あたりの花は綺麗に咲き始めていた。新緑の景色に青い空が似合う時期がやってくると、僕たちも表参道に夏服を買い求めに行った。
「今日、暇?」眠そうな目でリビングのソファーに座り、目玉だけを動かしながらテレビを見ていたれんが僕に言ってきた。今年で高校一年生となったれんは、僕と同じ高校を受験し、そして合格していた。あまり感情を表に出すやつではなく、受験に受かった時も、へへと苦笑いしていた。「おめでとう」と僕が言うと、「おう」と言ってきた。「高校では部活とかやるのか?」と聞くと、「ああ」と曖昧な返事で終わった。基本は僕に対して二文字で返答をしてくるのが彼の流儀みたいだ。しかし僕たち兄弟は仲が良く、時々二人で買い物や出掛けにいくこともしていた。今回もいつもと変わらない、外出のはずだと僕も考え呑気にいた。
休日の表参道はかなり混んでいた。この前のスーパーとは比べものにならないぐらいの人。人の列が数十メートル続いている。そして皆が自信に溢れているように見えた。大きなガラスが何面も続くショーウィンドウに映る自分の姿に惚れ惚れしている。長く続くファッションショーとでも思っているのか、格好良く歩いていた。表参道のこの景色を見た時から僕は怖気づいていた。高校の頃から何度も来ていたが、今日はなんだか別世界のようだった。
通り過ぎる人達から舐めるように全身をチェックされ、評価を下されているみたいで、向けられたそれらの視線に気が狂いそうだ。以前の僕はそんなこと気にもせずに、見られていることに対して優越感に浸っていたと思う。僕自身に集まる視線を全て良い評価だと捉えていた頃の自分は影を潜め、今では僕に視線を送らないで欲しいと願っていた。「評価されている自分」にだけ己の存在を見出していたのに、今は評価をしないでくれと泣いて頼んでいるようだった。評価されたいけど見られたくない、矛盾した考えが振り子のようにゆらゆらと揺れていた。
電車内も本当に辛かった。表参道まで約三十五分、僕たちはずっと立っていた。乗り換えを一回挾む中でなんだかずっと落ち着かなかった。右左をチラチラと気にしてそわそわしてしまう。初めはドアの前でつり革につかまり立っていたが、気づけばどんどんと奥に流れ、座席シートの真ん中あたりでれんと立っていた。右隣にれんがいて、左には知らないスーツ姿のおじさん、前には大学生らしき女の子が二人で喋っている。後ろには子供を抱えるお母さんと、もう少し大きいお兄ちゃんと手をつないでいるお父さんが立っていた。とにかく僕は大勢の人に囲まれ、そしてこの状況が「こわい」、そう感じるようになっていたのだ。周りを塞がれ逃げ場はなく、水でも流され溺れてしまうのではないか、そんな恐怖に体を震わせていた。
なぜこわいのか? それはうまく説明ができない。とにかく身体中の神経が過敏に反応し、いてもたっても居られなくなる。全身の神経が目を持った生き物みたいに、キョロキョロと緊迫感を持ってあたりを警戒している。動悸というものが心拍数の上昇を助け、際限なく心臓の鼓動を身体の隅々まで響き渡らせる。めまいがしてくるのでつり革を強く握り、目は開けられずずっと瞑っていた。
乗り換えで人の多いホームを歩いていてもそれはまだ治らず、横切る人たちを見ないように下を向いて歩いた。できることなら、れんの手をさっきのつり革のようにぎゅっと掴んで、僕を誘導して欲しかった。目的地に着くまでに僕はもうボロボロであったのだ。一人勝手に体力を消耗しきっていた。れんがいなかったら、きっとトイレの個室に駆け込んでいただろう。
「スタバ行かない? どこでもいいけど、ちょっとコーヒーでも飲み行こ」
疲れ切っていた僕は、れんにそう言って近くの洒落たコーヒーショップに入った。冷房が効いた室内に客もいなかったので、僕らは一時間ぐらい休んでいたと思う。
「そろそろ行く?」れんがしびれを切らして尋ねてくる。
「もうちょいここにいようかな。れん、買い物行ってこいよ」
「いいの? じゃあ、先行ってるから、あとで連絡してよ」
そう言って颯爽と店を出て行くれんの後ろ姿を眺めて、「かっこよくなったなあ」と思った。結局僕はここにあともう一時間滞在した。その頃には連は買い物を終わらせ、右手に茶色の紙バックを一つ持って帰ってきた。
「もうそろそろ行かなくちゃ」、何度もそう思い外に出ようとしたが、まだいるべきだ、と肩を掴まれ上から押さえつけられている気がした。時々店員と目が合い、僕は急いで下を向いて視線から逃れようとした。腰を上げようとするとさっきの光景が脳裏に浮かんでくる。またあそこに戻りたいのか、そう言われているようで、僕はまた腰を椅子に戻し残り少ないコーヒーを持ち上げた。
帰り道にれんが「飯でも食ってく?」と聞いてきた。僕は「今日は疲れたから帰ろう。なんか人酔いしたかも」と変な言い訳をして直帰することを選んだ。正直にいうと怖かった。この人混みの中にあと数時間も身を潜めなくてはいけないと想像して、不安に襲われていただけだった。同じように電車に乗り、夕方ごろ家に着いた時にはもう歩く気力すらなく、ソファーに沈むように横になっていた。


この経験は僕の中で大きな何かへと変わっていた。あのなんとも言えない恐怖を思い返し想像すると、足がすくむ思いがした。そして、僕の気力や行動力を簡単に奪い去っていったのだ。
弟と出かけてから一週間後、薄い青と濃い青のコントラストが綺麗な晴れた日だった。高校の同級生からいきなり連絡が来た。連絡をくれたのは野崎だった。高校のクラスメイトでわりとよく話していた子からだ。
「はるくーん、久しぶり! 最近会えてないけど元気かな? 実はね三年生の時のクラスメートの何人かで会うことになってるの。はるくんにも、もし時間があれば来てほしいなあと思って連絡しました。場所は表参道のスペインバル「イ・トゥ」。もし時間があれば来てください、私も久しぶりにはるくんに会いたいです。いきなり連絡してごめんねー。りんか」
この文章を一読して、初めに浮かんだ言葉は、「いけない」だった。それは水を垂らすとそこから文字が浮かんで見えてくるトリックアートみたいに、じわじわと僕の脳内に浮かび上がり、そしてどんどん肥大化していった。大学生となった彼女らは、表参道のオシャレな「すぺいんばる」で遊んでいるのか。そう考えるとどこか切ない気持ちになった。数ヶ月前までは同じ教室で同じ話題を共有していたのに、今は少し大人びて遠い存在のように感じた。そして、つい自分と比較してしまい己の小ささを強調してしまう。
久しぶりに彼女たちに会ってみたいが行けない気がした。行きたいと気持ちが踊り出す反面、頭の中のどこか隅の方で、嫌な映像が白黒の粗い画質で流れている。それは前回れんと一緒に行った買い物や、スーパーでぶりを買おうとした時、図書館のあの紳士的なおじさんの過去などであって、その時の僕はずっと目線をきょろきょろと動かし、はぁはぁと苦しそうに怯えているのだった。
高校の体育館。壇上に立つ僕に対して、数百の視線が僕に向けられている。嫌な笑みを口元に浮かべるやつや、悲しそうな目で見てくるやつ。いろんな感情がこの小さな体育館でごちゃ混ぜになっていて、もしこれらの感情を全て集めて泥団子を作ったら、きっと青やグレー・茶黒などが混ざり合って冷たい印象を与える球体になるのだろう。嫌な思い出のフラッシュバック、トラウマ。虎と馬の目がピカと光って僕の視界を奪い、そして襲いかかってくる。
野崎に返信をした。携帯がいつもより重く感じる。「誘ってくれてありがとう。行きたいけど、夏は勉強が忙しくてさ、今回は行けそうにないかもしれない。ごめん。また今度ぜひ。はる」文章を送信して、スマホをポッケにしまった。
なんだか申し訳なく感じた。野崎はまた僕を誘ってくれるだろうか? 他愛のない内容でもいいから、前みたいに連絡をくれるだろうか。行きたいのに行けない、そんな矛盾した考えに悩み、混乱する。対処の仕方がわからなかった。会ったところで、以前のように振る舞える自信がなかったのかもしれない。彼女たちが知る僕と今の僕では、大きな隔たりが存在するようで、格好の悪い自分を見られ評価されるぐらいなら、独りの方がましに思えた。良いイメージの僕をずっと、頭の片隅に思い浮かべていて欲しい。自室のベットに横たわりそんなことを考えていた。自分の拠り所は、もうそこにしか無い気がした。
ポッケのスマホが鳴り、画面を見ると野崎からだった。僕は内容を確認もせずにまたポッケにしまうと、目を閉じてはあー、と一呼吸入れた。斜め上をぼうと眺めていると、天井がすぅーと僕から離れていく。
世界が僕から距離を取り始めた、そんな気がした。

   ※

夏の暑さは盛りを迎えていて、プールとかき氷がだんだんともの悲しくなってくる八月の終わり。世間では最後の夏を遊び尽くすぞ、と気合い溢れる人々で爽やかに賑わっていたが、僕はこの夏、特にどこにも行かずにただ家で一人じっとしていた。
この前こんなことがあった。それは僕の保育園からの幼馴染みが、久しぶりに連絡してきた時だった。
「おっスー、元気かー? 最近調子どうよ、久しぶりに飯でも食いに行きます?」
この青年とはもう15年近くの仲になる。僕が保育園年中の時に入園してきた彼とは、そこから小・中と一緒の学校で、毎日登下校を共にするぐらい仲が良かった。
両海光祐という男はかっこいいやつに思えた。服の上からでもわかる逞しい体つき、その体に似合った短い髪、おしゃれ坊主とでもいうのか横を短く刈り上げたツーブロックで、爽やかな香りの整髪料で前髪をくるんと上げている。太く凛々しい眉毛に彫りの深い二重まぶた。口元は常に口角が上がっていて、いつも優しそうな雰囲気を醸し出している。そしてこうすけは本当に優しくていいやつだった。
かれこれ15年、僕たちはまだ一度も喧嘩というものをしていない。見栄っ張りで皮肉屋な僕は、彼に鋭い言葉を何回も浴びせだが、そんな時でも彼は爽やかに笑って僕を小突くぐらいだった。女子に対しても裏表のない態度で接しているので、誰からも好かれるいい男だった。僕の親友であり心を許して話せる相手。格好良くて、もしかしたら僕の理想の男性像に近い男であった。
高校は別の学校に行ったが、月に一回はなんだかんだ会って夕飯を共にしていた。しかし彼が大学に現役で合格してからは、会う機会も随分減った気がする。久しぶりのお誘いだった。僕は、「はろー、元気げんき。飯行きますか。フードコートとかでいいよね? 明日の7時とかは?」と何気無しに返信して気づく、彼となら大丈だろう、と。


表参道の件からだいぶ経っていた。あれ以来ほとんど外に出ていなかったので、「あの感覚」は随分おぼろげで、遠い昔のことのように感じていた。僕は、自分を甘く見積もっていた、と後悔で呆然としたのは、彼と別れて帰路についている時のことだった。
こうすけと会ったほんの数時間の中で、僕は動悸に苦しめられほとんどジッとしていた。心臓の音はフードコートの有線放送よりうるさく聞こえ、めまいで食べていた釜玉うどんの桶に顔から突っ込みそうになるのを寸前で堪えた。こうすけに対しては普通に喋れるのに、なんだか周りを気にしすぎて、うどんの噛みごたえや卵のねっとり感を忘れるぐらいにずっと落ち着かなかった。
「はる、汗すごいぞ」こうすけに言われると、自分でも気づかなかったが、そこまで熱くない釜玉うどんで、信じられない量の汗を垂れ流していた。「いや、まあ」と曖昧な返事が精一杯の僕に、「水持ってくるよ」とこうすけは優しかった。こうすけと話したことは何も覚えていない。ただこうすけに、僕の異変を気づかれていないかだけが心配で、彼は気づいていたとしてもいつもどおり快活なやつだった。
ショックなのはこうして二人でご飯を食べていても、昔みたいにリラックスしながら、阿呆な話をできなくなっている自分がいる、と認めなくてはいけないことだった。こうすけといるときはただずっと笑いあい、ゆるりと時間を感じていた過去が夢だったのかと思うぐらいに、現実離れしているこの状況を受け入れられなかった。


この時期から僕は本当に外に出なくなるようになった。人と会いたくなかったし、人がいそうな場所にも行きたくなかった。家の中にいれば苦しまずに、そして現実を直視しなくて済むからだ。
できていたことが急にできなくなった。それは本当にショックなことで、ショックという言葉では物足りなかった。明るい場所から真っ暗闇に突然放り込まれ、何も見えず右往左往していたら、上と下がくるんと入れ替わって地面に頭を強くぶつけた。今の自分がどういう状況で、どんな体勢をとっているのか分からないような事態に、誰かの悪いいたずらのようにも思えるが、突然のことすぎて怒る暇もなかった。
そしてこの時期に辛かったのは、「誰かの頭の片隅に、僕がまだしっかり存在している」と認識したときだった。僕はただ一人になりたくて、そうすれば苦しまずに、孤独の中の平安をずっと享受することができるのに。予期せずに送られてきた「はるくーん」や「はる、げんきかー?」なんていう連絡に心を乱された。
彼ら彼女らの頭の中で生きる僕は、勉強ができるかっこいい男子だったり、受験に失敗したけど今は猛勉強中で、来年には「あの国立大学に入学」している僕の姿なんかがあるのかもしれない。連絡が来るたびにそんなことを考えては、「理想」と「現実」のギャップが大きすぎて僕は大声を上げたくなる。そんなこと思わないでくれ、と怒鳴りつけたい。もうほっといてくれ、と掴まれた手を全力で払いたくなる、しかしそうした後には「後悔」だけが残り、悪いことをしたなあ、と自戒の念に駆られるのだ。
本当に僕は面倒な男なのだが……、それと同時に己の心の中に「喜び」を見つける。
一人になりたいと「孤独」を願っていても、不意に受けるそれら知り合いからの連絡は、「僕はまだ独りではない」そう思わせてくれた。結果、自分の中の上辺な部分では、声高らかに「俺は一人になりたいんだ、もう邪魔をしないでくれ」と虚勢を張っているが、心の奥底では微かに「誰かと一緒にいたい、一人になるのは嫌だ」と、声を出さずに泣いてうずくまっている。理想と現実のギャップに「一人になりたいけど、独りは嫌だ」と、深い矛盾の狭間で僕は頭を抱え込んでいた。


引きこもり生活。もしくは隠れ身生活であまり外に出なくなると、何かに追われてるような焦る気持ちになり、漠然とした不安を感じるようになっていた。本能が、「このままでは本当に人間として終わってしまうぞ」と訴えかけてくるみたいに。母さんだけは僕の変化に気づいていたのだろうか。心配をかけないように、家にいるときは普段と変わらない態度で家族と接していたが、表情の微かな陰りとか、お笑い番組を見て笑った回数とか、そんな些細なことを敏感に感じ取り、言わずとも心配してくれていたのかもしれない。
「はる、今日何食べたい?」
ソファーの上で横になり、携帯でラジオを聞いている僕に母がそう尋ねてきた。
「んー、なんでもいいかな。トマトとか、レタスとか」
「トマトかレタスって、あんた、もっと食べなきゃ夏バテも治らないよ」
母さんは僕の不調の原因はあえて「夏バテ」、ということにしてくれているみたいだった。
「んー、でもほんとに食欲無いしなあ」
「まだ暑いからねえ。エアコンも無いあんな暑い部屋に毎日篭ってたら、そりゃ調子も悪くなるか。受験生はみんな大変だねえ。はるさあ、そしたら今日は外に食べに行こうか? 今日はれんも友達と遊び行って夜いないし、お父さんも今日は泊りでいないのよ。あの近くにできた台湾料理のお店、この前はるに話したところあるでしょ。今日そこ行ってみようよ」
夏ベテで食欲が無いのだとしたら、あえてこんな暑い日にギトギトでボリュミーなその店を選ぶのは罰ゲームに近いような気もした。確かに夏が始まる少し前、あの時はまだ雨が多くて肌寒い時期にそんな話をした気もする。
「別にいいけど……」とても気分は乗らないけど、作ってもらうのも申し訳なくて渋々承諾した。母は携帯でそのお店のホームページを開いて、これ食べたい、あれが美味しそう、と台湾料理の口になっていたのでノーとはもう言えなかった。
家から自転車で数分のそこは、派手な飾り付けとユニークな店名でひときわ目立っている。テレビでも紹介されたことのあるお店なのだが、どうやら今夜は客足が遠いらしい。母さんはなぜか首元に赤と青の派手な首飾りをしていた。「それって台湾を意識してる?」と僕が尋ねると、「当たり前でしょ」と言われ返答に困った。何が当たり前なのか悩んでいたら、「まずは形からよ」と愉快そうに笑っていた。「はるもこのブレスレット使う」と、真っ赤な数珠を見せてきたので、「心はもう台湾だから大丈夫」と言って丁重に断った。
店に入ると客は見当たらず、店内にはガツンと大きな肉の塊を出刃包丁で切る音と、台湾料理独特のあの匂いで満たされていた。「いらっしゃいませー」少し片言交りの挨拶で席へ案内されると、「本日のおすすめは、牛肉麺とルーローハンのセットですう」店員はそう言い残して奥のテーブルへ行き、開いたまま置いてある新聞を手に取りそっぽを向いて読み始めた。
「そしたら、そのセットにしようかな」
「えー、私もそれいいなあって思ってたんだけど」困った顔をしてそう言ってきた母がしばらくの間考えている素ぶりを見せていた。僕は気が変わった風に装って、「やっぱり汁なし担々麺と水餃子にしよう」と言うと、「ほんとに? じゃあ母さんは今日のオススメにしよう」と笑っていた。それが食べたい、と言えばいいのに。少し強情になる母さんは食事時に姿を表すことが多い。きっと僕の水餃子と坦々麺も一口ずつ貰おうとしているはずだ。
「すいません。今日のオススメを一つと、汁なし担々麺に水餃子で」僕が店員さんに向かってそう言うと、ビリビリびりぃ、彼は読んでいた新聞の端を破りだした。そこに走り書きのようなメモを残すと、足早に厨房の奥へと消えていったのだ。
ふむ……。文化の違いというやつか、と一人で納得して僕は水を一口飲んだ。
「はるさあ、勉強とか色々さあ、最近どう?」母さんが優しい笑みを浮かべ、僕の目を見ながらそう尋ねてくる。その時の母さんは、私をお前のことなんてなんでもお見通しだよ、と見透かされているような、そんな自信と慈愛に満ちた表情をしていた。
「んー、特には。まあまあだよ」と焦った僕は、曖昧な返答しかできなかった。
「最近さ、はる家にいることが多いでしょ。自分の部屋に篭りっきりで。勉強が忙しくて頑張ってるならいいけど。天気も良いし、たまには外に散歩に行くとか、友達と海に行って日焼けするとか。部屋にこもって一人で抱え込む時間を減らしてみてもいいんじゃない? 人は一人になると、ああでもない、こうでもない、って色々と考えちゃうのよ。それが楽しいことだったらいいけどね、大概は悪いことを考えちゃうのが人間なの。自分と向き合うって作業は本当に辛くて、すごく苦しいことでしょ。だから周りの人たちと関係を作って、なるべく一人の時間を作らないようにしている。それは別に友達でも、家族でも良いんだけどね。楽しいことがあれば無理に苦しいことを考えなくてもいいし、誰かがいれば自分とわざわざ向き合う必要もなくなる。気分が乗っている時ならね、一人の時間が大切になってくるときもある。自分自身と向き合って、将来の一歩を踏み出すために自問自答するべきなの。でも、それは自分の調子が良い時じゃなきゃだめ。調子の良い自分が、考えて過ぎて苦しくなってきた自分を最後に、今の世界に連れ戻してくれるから。今のはるはね、調子が悪いのに無理してるように見えるよ。闇雲に走り回って疲れて、完璧にできない自分をまた責めてるみたいに。今のはるには、少しゆっくりする時間があっても良いんじゃないかなあ、って。母さんはそんな風にも思うんだけどね。ごめんね、急に」
うん、と俯いて顔を見られないように頷いた。自分でも気づかぬうちに、僕の心は疲弊しギリギリまで擦り切らせていたのかもしれない。母さんがくれた言葉は、僕が欲していたものであった気がする。早くそれらの言葉を言って欲しかったが、僕からは今の悩みを打ち明けることができずにいたので、助けを求めながらもそれが叶うことは無かったのだ。僕の目は何かの液体でいっぱいだった。不意に紡ぎ出されたそれらの言葉に、側頭部と心臓正面を勢いよく殴られたみたいで、僕は一瞬揺れた。
それから僕は、自然と今まであったことを断片的に母さんに話していた。
ブリがなぜあの時買えなかったのか。最近図書館に行かなくなったのは、席に着くと動悸やめまいで苦しんでいた自分を思い返してもう集中ができない、と。れんと一緒に行った表参道ではコーヒーを飲むのがやっとだったこと。こうすけと一緒に居たフードコートでうどんに顔を突っ込みそうになったとか。あとは、高校の卒業式ぐらいからおかしくなり始めた、と正直に言った。それは五歳児の子供が、「今日は何したの?」と母に一日の出来事を聞かれ、素直に全部を答えるみたいに。十九歳の僕は、そのとき恥ずかしげもなく泣きながら、辛かった、今が辛い、と延々と話してしまった。この時はきっと、自分でも知らないうちに色々抱え込んでいて、それが一気に溢れ出てしまった。
「パニック障害かもしれない」
僕は初めてこの言葉を口にした。たどたどしく言い放たれたその言葉は、言い慣れていない僕の口からグニャリとした形をして現れた。病院に行って診察してもらったわけではないが、インターネットや本など、今の僕の症状に当てはまるものがこのパニック障害だった。障害とつくモノを口にしてはいけない気がしていた。病気だと認めてしまうと、自分が自分で無くなってしまう恐れがあった。この病名を知ってからも、「自分は病気でもなければ障害なんて無い」と気づいてないふりをした。口に出さなければ自覚したことにならないと頑なだった気がする。助けを求めているにも関わらず、原因の究明をすることを極端に恐れていたのだ。
根拠はないが僕の自己判断で口にしたそれを聞いた母さんは、「はるは、はるだよ」と優しかった。その後に続けて、「生きていればいろんなことが起こるよ。はるにも、母さんにもね。生きてさえいればそれで良いの。生きてくれているだけで」母さんは僕にそう伝えてきた。俯きながら話を聞いていた僕に、「はいこれ」と言って、母さんは鞄からクマの絵が小さく書かれた水色のハンカチを手渡してきた。それを受け取る時に母を見ると、先ほどと同じように慈愛と自信に溢れた穏やかな表情をしており、気持ちが落ち着いた。「大学に落ちたって大丈夫。勉強しなくても良いよ。辛いなら今は無理すること無い。はるのペースで良いよ」テーブルの上で手を揃えて、悟ったように呟く母は、涙で霞む視界の中で、本当にブッダや大仏の類のように見えた。僕は嬉しくて、ホッとして、涙と鼻水をいっぺんに出していた。いい歳した青年が、生まれてまもない赤ちゃんみたいに泣き声をあげて。


結局僕たちは注文した料理をほとんど食べずに店を出ようとした。お会計で母さんが「すみません」と申し訳なさそうに言うと、「これ食べてください」と持ち帰り用の容器に移された料理を手渡してくれた。あの新聞ビリビリの店員さんはとても良い方だった。『ありがとうございます』と、二人でお礼を言って店を後にした。
もう外は暗く、生暖かい風が僕たちの横を通り過ぎていった。自転車に近寄ると、びびびぃー、と近くにいたセミが濃いブルーの空に飛んで消えていった。母さんは自転車のそばまで行くと僕に振り返り、「はる、明日出かけるよ」と、肩を上下に揺らし鼻息荒く言ってきた。僕は「うん」とだけ頷いて、普段より軽く感じる自転車に跨り、帰路へと着いた。
道端に等間隔で並ぶ街路灯の明かり。暗闇の先の方まで照らしているその光は、真っ暗な世界を闇雲に走り回っていた僕に、道を示してくれているみたいで、気分が少しだけ軽くなった気がした。

   ※

その日は流れの早い雲が競争してるみたいに、ぐんぐんと影を落とす位置を変えていく中、ちょっとした隙間から青い空と太陽が照らしてくる気持ちの良い日だった。
「母さん、今日出かけるんだよね?」
朧げに記憶していた昨夜の母の言葉を、確かめるようにもう一度尋ねてみた。もしかしたらあれは夢か蜃気楼の一種であって、僕はまだ暗闇の中にいる気がしたのだ。
「おはよう、はる。今日はねお昼前ぐらいに出ようか」
母の言葉を聞いた後、僕は急いで部屋に駆け込み服を着替えた。どこかのアイドルのコンサートでの早着替えくらいに、風のように身なりを整えた。「よし」、気の弱そうな冴えない男が鏡に映る。僕はそいつに向かってそう呟いた。
今日は朝からやろうと決めていたことがある。今の自分を変え、現状を前向きに捉えていきたい。そのためにもできることをしよう、と。自転車に跨り最寄りの駅に向かった。平日の通勤時間帯はとにかく混んでいた。これだけの数の他者が同じ方向を目指して歩いているのは、もはや不気味な光景としか思えない。
改札に近づくとピッガシャンと途切れることなく規則的な音を響かせていた。ベルトコンベアでこれから何処かへと送られるみたいに、僕もその一部品になろうと規則的な音の輪へと加わる。
これからどこに行くのか? わからない。何をするのか? 決めてない。とにかく苦手な電車、息の詰まる空間に飛び込んでみようと思った。あえて苦手な場所に飛び込み、体と心を慣らしていこうと急に思い立ったのだ。このままじっとしてたら本当に終わってしまいそうで、少しでも前に進みたいと気持ちが焦っていた。
ホームは混み合い隣の人と肩がぶつかるほどだ。久しぶりに他人の存在を全身で感じ、急に鼓動が早くなってくる。人の波が波紋を生み大きな波を作っているようで、僕が見る世界は横に回りだした。人に酔い始めたか、もしくはめまいがはじまってきたようだ。
電車がホームに飛び込んでくる。今すぐにでも逃げ出したい気持ちを抑えて、人波に乗って車内へと足を踏み入れた。「大丈夫、死ぬわけではない」、懸命に自分を鼓舞しながらドア前のつり革に捕まる。気がつくと掌は汗で濡れていた。残酷なほど詰め込まれた満員電車は、全員が誰かに体重をあずけながらなぜかうまく安定を保っていた。ゼロ距離で四方を囲まれた僕は必死にただ立っていた。周りの人の心臓の音がうるさいな、とそんなことをずっと考えながら。
いつの間にか僕は電車を降りていた。駅のホームの椅子の上で、何本もの電車を見送っていた。いつ下車したのか記憶に無く、そこの駅名を確かめると最寄りから七駅先のところだった。携帯で時間を確認すると家を出てから二時間近く経っている。びゅうと風と共に、勢いよく電車がまたホームにやってくると、たくさんの汗をかき、火照った身体を冷ますのに心地よい風だった。
気絶から目を覚ましたように状況を理解してくると、得体のしれない不安が全身を包んだ。突発的に行動をした今朝の自分を嘲笑うかのように、今の自分には自信も行動力も残ってはいなかった。この後また電車に乗って帰らなくてはいけないという不安しか、頭の中を占めるものはそれ以外になかった。
また電車がホームに飛び込んできた。もしあの風に自分も乗ってみたらどうなるだろうか。そんなことを考えた。目の前を通り過ぎて行く人々が不思議でならなかった。どうして平然と電車に乗り、そこまで忙しそうに生きることができるのか。僕もそうなりたいとベットの中で震えながら祈り、そして朝を迎えるが決して変わるものなど無かった。だんだんと目を覚ますのが怖くなりいつしか動くのをやめた。そんな毎日がこれからも続くのなら、僕は気持ちよく風にでもなって日々を享受していたかった。
次の電車だろうか……。そんなことをぼんやりと考えていたら、母さんから連絡があった。母の姿を思い浮かべ、今日の約束を守るためにとりあえず帰路に着いた。


「はるー、準備できた?」
いつもより濃いめのリップを塗った母は、なぜか片手に牛乳を持ったまま室内の電気・ガス・鍵などをチェックしていた。
自転車で駅に向かっていると、さっきまでの青空は霞み灰色の厚い雲に覆われていた。駅のホームはついさっきまで居たみたいに、まぶたの裏にその既視感を強く残していた。そして、ああ、今朝もここに来たのだと気づく。
右半身に小さな揺れを感じ携帯を取り出してみると、「おはよう、はるくん。最近調子はどうですか?」と野崎からの連絡だった。彼女は何気無いことで、僕に度々連絡をくれた。嬉しさはあった、しかし同時にため息が漏れた。なんと返せばいいのかいつも悩んだ。嘘でもつけばいいのになぜだかそうはしたくなかった。車輪がレールにぶつかり合って、黒板を引っ掻いているような音が鳴り響いている。考えが上手くまとまらなかった。


「はるくんはさあ。彼女とか作らないの?」
受験前の夏休みが始まろうとしていた。放課後の教室は、湿った風がカーテンをはためかせ、薄暗い教室内に光と陰を交互に導いていた。野崎は僕の机の向かいに座り、小さい体をさらに小さくするように、両手を膝の上に乗せて上目遣いで見てくる。僕は「そうだなあ、今はどうだろう。受験も近いしな」と、野崎が解いた英語の問題にチェックを入れながらぼそっと呟いた。
今年の初めに僕は彼女と別れた。高校二年生の四月から付き合いだした一個上の先輩と。真面目でウブな生徒が多いクラスの中で、僕は学年で初めて先輩と付き合った男子となった。別れた原因は先輩の受験が近くなったことで、勉強に集中したい、と言われた。僕は予想通りの言葉を言われ、予定通り「わかりました」と返事をした。先輩に対して好意はあったがそれは愛情とかではなかった。綺麗な先輩と付き合っている自分が好きなだけだった気がする。クラスの中で誰よりも先に身体を重ねる快感を覚えた。人肌恋しいという言葉の意味をいち早く理解し、コンドームを誰よりも早く使い切った。
上目遣いでまっすぐな視線を送ってくる野崎の、白く柔らかそうな肌を見ていると、その手を引き寄せ彼女の下唇に自分の唇が触れる、そんな想像をして下半身に妙な力が入っていた。男女問わず誰とでも仲良くできる野崎だが、その無邪気さの裏にある穢れを知らない彼女には、守りたいと思わせる何かがあった。できることなら自分が、そんなことを考え、シャツの上からでもわかるその豊かな膨らみを一瞥して、透き通る瞳に僕は視線を戻した。


乗り換えのために電車を降りると、ホーム内は湿った暑さで満たされていた。冷風機が申し訳ない程度に冷たい風を近場に送っているその周りには、これから円陣でも組んで大声でも出すのか、人が輪を作り涼んでいた。階段を登っていると、母がちらと僕を見た。母の言葉は鮮明に僕の耳に届いた。しかしそれを処理して理解するのに時間がかかった。
「はる、海外行ってみる?」一瞬、時が止まったように感じた。ホームから響く声の通るアナウンスが僕を通り過ぎていく。階段をコツコツと歩くヒールを履いた女性、ざっざっと勢いよく駆け上がる男性を横目で確認しながら、僕は五秒ほど口を閉じ考えていた。
「なんで?」
正常に働き出した頭がまず導き出した言葉は、母のそれに対しての疑問だった。
「海外とか行ってみたいと思ったことない?」
「ないよ、そんなの」
「そっかあ」母さんはどうして、とでも言いたいのかしきりに顎を触っていた。
そこからは無言で二人、ただ目の前を通り過ぎる暗闇の中の風景に視線を送っていた。また一五分ほど電車に揺られていると母は、ここで降りるよ、と行って先に降りて行ったので僕は後を追った。
僕たちが降りた駅はなぜだか人が多いような気がして、オフィス街として知られているその街には、平日の昼間にも関わらず若い人が多かった。中には僕みたいに母親と一緒に来ている人も見かけた。自然とその人波に加わりながら同じ方向に向かって歩いていくと、この流れはどうやら目の前に立つ大きなビルの、開け放たれた室内へと向かっているようだった。そこには大きな白い段幕に「留学ペディア 留学フェア」と、黄色の文字で黒く縁取られたものが見えた。
もう一度母が尋ねてきた。
「はる、留学してみない?」と。僕は、「なんで?」と答えていた。


高校の体育館三面分はありそうな大きな空間、そこにはたくさんの人が活気よく歩いていた。長机を二つ合わせ、その上には運動会でよく見かける大きなテントが立っている。英語で表記された学校名がこの空間に異彩を放ち、英語も時々聞こえてきた。僕は入り口の前で呆然とその景色を眺めていた。
「三日前にね、図書館でここのポスターを見つけたの」
僕が閉じた口を開こうとした時に、先に母が話し始めた。「留学っていう文字が一際目立っていてね、母さんは思わずこれだって思ったの。試しに話しだけでも聞いてみない? 色々な世界や選択肢があるって知るのも悪くないでしょ。母さんも少し興味がでてきちゃった」無邪気に笑う母がそう言い終えると、ほら、と僕の手を掴み強引に中に入ろうとする。僕は、恋人ごっこをしているみたいで恥ずかしくなり、うん、と呟き掴まれた手を優しく払いのけた。
「母さん、留学に前から興味あったの?」
「そうだね。私に子供ができたら、教えてあげたいって思ってたことがあるの。それが、いろいろな世界を見せてあげること」
僕は周りの人の多さに呆気にとられ、心臓の音が早くなってきた、そう感じて下を向いていた。母は続けて、「母さんが大学生の頃に、仲の良い友達がいたの。一人の女の子は高校二年生の時に半年間アメリカに留学したことのある子だった。もう一人の子も中学生の時に一年間ニュージーランドに留学していて、二人とも大人びてて、芯の通ったかっこいい女性だった。母さんは中学も高校も普通の公立高校で、周りの子で留学に行く人なんて一人もいなかった。彼女達と会話していると、もし私が学生の頃に、周りの友達で留学に行く子がいたら、私の選択肢にも留学っていう進路が浮かんだのかなあって。そう考えるとなんだか悔しくてね。その子たちの周りではきっと友達か、もしくは両親が、留学という選択肢があることを教えていた。もしも母さんが学生の頃に留学を知っていたら、今の人生はどんなだっただろう、ってね。はるやれんには、タイミングが来たら話してあげようってずっと決めていたの。あんたら二人は私の心配に及ばずしっかりしているから、母さんも話すのが遅れちゃったんだけどね」と、ふふっと優しい笑みを浮かべる母さんを横目で見ながら、僕は手持ち無沙汰な左手で脇腹をさすっていた。
「留学なんて考えたことも無かった」僕はそう呟いた。
僕の周りにも何人かそういう奴はいたが、学校として国内の名門大学に合格しなくてはいけない、そんな雰囲気があった。僕もそんな気配を敏感に嗅ぎ取り、自分の存在価値をより高めるために、国立大学合格を目指してつい先日まで生活していたのだから。
「ちょっとだけ、話し聞いてみようよ」
はる、と呼び前を行く母を、僕は人波に消えるまでぼんやり眺めていた。


「留学ペディアの村上と申します」
ぺこりと頭を下げそう名乗る女性は、グレーのスーツがビシッとキマる少し肩に力が入りすぎている方だった。今年大学を卒業したばかりの新人さんらしい。落ち着いた雰囲気を漂わせながら、背筋を伸ばし慎ましくそこに座っている。アメリカの大学を卒業後、留学ペディアを第一志望として、この企業しか就職活動をしてないと恥ずかしそうに話してくれた。その話をするときは、手を頭の後ろに持ってきて、えへへと舌をぺろっと出しているような印象だった。凛とした女性から急に無邪気な笑顔を見せられ、冷蔵庫に隠されたへそくりを見つけてしまったような気分になる。高校を卒業してすぐに渡米したらしく、その際に留学ペディアを使っていたのだと話していた。
「私が留学に興味があり息子を連れてきたのですが」と、母さんが遠慮がちに言っている。
「お母様が息子さんをお連れになって来たんですね。今は、息子さんは?」
「浪人生です。今年高校を卒業しました」
僕は落ち着いた雰囲気で座る村上さんをなんだか直視できずにいた。こんな綺麗な女性を前にして話すのが久しぶりすぎて、言葉を忘れたみたいに、頭の中で一文字ずつ浮かんでは消えていった。
「高校を卒業したタイミングでお越し頂けたのはよかったと思います。もし留学をするのなら、長期留学も視野に入れて、正規生として海外に渡ることもできます。お母様がこの時期に息子さんをお誘いになられたのは、私としましても嬉しく思います」
ニコと笑った村上さんの黒目は大きく、歯並びの良い綺麗な前歯が見えた。血色の良いその肌は、刷りたての用紙ぐらいツルッとしていて、その滑らかさを止める凹凸は見られない。グレーのスーツという霞んだ空模様を全身に纏っているその身体とは対をなして、顔だけが別で宙に浮いている感じだった。
「朝日さんはいまどのようにお考えですか?」
「私は息子に留学という選択肢があるということを伝えたいと思い、息子を連れてきました。選ぶのは息子自身ですので、参考になればと思っております」
母は僕に笑いかけ村上さんに力強い目つきで視線を送っているが、それに応えるように村上さんも、母の視線を受け止めまっすぐな瞳で視線を交錯させていた。
「そうですね。朝日くんは何か質問などありますか?」
質問を振られるが別段聞きたいことも思い浮かばない。まず言葉が浮かんでこない僕はそのとき、鳴くことができないセミのように情けなく映っていたはずだ。
「留学は楽しかったですか?」恥ずかしい質問だな、と後悔したが後の祭りだった。
僕の質問など気に留める様子もなく、「私は留学をしてよかったと思っています」村上さんそうきっぱりと言い放った。S字カーブを絵描いているはずの背骨が真っ平らになってしまったみたいに、姿勢良く落ち着いた雰囲気の女性がそこにいた。
「留学したことで私の人生は変わりました。環境を一変して、思い切って飛び込んだその土地で、私は外見から内面まで全てを変えることができたと思っています。正確にいうと、私が、私自身の力で、私を変えたんです。知らない土地で生きていく為に言語を覚え、そして文化を知り、その場所で生きていく術を学びました。なにもできない無力な自分と向き合うのは、泣きたくなるほど辛かったです。でもそれを乗り越え踏ん張ったからこそ、今の私がいると信じています。私は、留学で出会った全ての人、出来事が本当にかけがえのない素敵な思い出です。私が皆さんにお会いしてお話ししたいことは、思い切って飛び込んでみてください、ということです。明日を想像できない未来に対しては、私たちはとてつもない不安を抱く生き物です。しかしそこで一歩を踏み出してみれば、素晴らしい景色が先に見えたりします。心の中の安全地帯から外に出てみると、それは案外悪くないところだったりします」
正直、とても恥ずかしいことを言っているなと僕は思ったが、同時に村上さんはなんだか信用できる、そう感じた。実際に経験をした人だからこそ言えるそれは、占い師が水晶を手で舐めまわしながら呟く予言の一種などではなく、自信と経験からくる確信めいたものに違いなかった。
「あ、ありがとうございます」なぜだかお礼を言ってしまった僕は、「僕もそうだと思います」と訳のわからないことを言って、「なんであんたがわかるの」と母にツッコまれた。顔を真っ赤にした僕は、それ以上村上さんを見ることはできなかったので、俯いて身体の火照りが治まるのを待っていた。母が僕の右手を触り、そして笑いかけてきたので、僕は恥ずかしそうに母さんを見返したのだった。母も、ありがとうございました、とお礼を言っていた。もう何も聞くことは無いのだろうと母の顔を見て分かった。
「今日はいろいろな大学が来ています。ぜひお話だけでも聞いてみてください。また質問などございましたら、私の方に来ていただければと思います」
僕たちは二人で席を立ち、周りのブースを見ることにした。
約一時間かけて母はほぼ全部のブースに行き、熱心に話を聞いていたという。対して僕はというと、アメリカの大学ブースで一度話を聞いた後は、ずっとトイレの個室の中で休んでいた。トイレの個室にこもり一人になると、先ほどの村上さんの言葉を頭の中で反芻していた。
留学をしたら自分も変われるだろうか。今の自分を肯定できるくらいに、楽しい日々を送ることができるのだろうか? こんな自分が一人で生きていけるだろうか……。止め処なく溢れ出る不安が僅かな希望的観測をことごとく踏み越えていく。
羅列的に頭の中の不安を挙げ連ねてみると、いかにも全てが凡庸で、誰しもが経験している悩みのように感じた。過去に様々な人が経験し、そしてどこかの偉人がそれについての回答をすでに示しているはずだ、と。人並みな不安であり、陳腐な悩みかもしれないと考えると、脱力感と同時に推進力が身体の奥底から湧き出てくるように思えた。しかし、結局気にしすぎなのでは無いか、そう言われてしまうと見放されたような、どこか月並な回答のように聞こえ、それならばこんな苦労はしていない、と大声で叫び返したくなる。「トラウマになる前に忘れよう」「気にせずに、前向きに」と、一つの出来事は捉え方次第でどんな思い出にも変えることができる。こんな風に達観した域まで、自分を導くことができるのだろうか、とまた不安が姿を現し、それは終わることがない永遠の悪循環に思えた。人生とは達観し、自己受容ができて、そして賢者にでもなるためにあるのだろうか。
村上さんは自分を自分自身で変えた、そう言っていた。まさにその通りだった。自分の人生なので、と冷たく言い放たれたらそれまでだ。はい、そうですね、と僕は僕自身の力でどうにかするしかない。不安や疑問が生まれてくるのに際限はなかった。
横の個室に誰かが入ってきた。勢いよくドンっとドアを閉めると数秒静寂の後、「母さん俺だけど。俺さあ、留学したい。今からお金貯めて頑張るからさ。向こうで勉強頑張って絶対いい職見つけるからさ。お願い、留学に行かせてもらえないかな。お願いします」
声を潜めて小声で言っているが、その切実さや覚悟は壁を挟んでも伝わってくる。声だけ聞くと、まるで便器の上で土下座でもしながら懇願しているのかもしれない。そんな風に考えると、彼の本気度が伝わってくる。これが彼の母親にも伝わっていれば良いなと自分をよそに他人の心配をしてしまう。
どこからともなく湧き上がる自信を、疑うことなく信じていた。過去の僕はきっと、何にでもなれると疑うこともせずに生きていた、隣の個室の彼のように。それで良かった。疑いの目を持たなければ、今も僕はきっと、自分自身がかっこいいと思うマントを羽織り、自分にしか合わない度数の色眼鏡をかけて、幸せを享受していたに違いない。その時、漲る自信について根拠を示せと言われれば、確たる証拠など無い。ただ人間が持つ己への自信というのは、その人を形成し動かすのに重要なものだった。自信を失った時は、ただ自己否定を繰り返し、自分に対する無力感でいっぱいだった。今までできた行動が嘘みたいにできなくなると、行動に自信が持てなくなり、動くのをいつしかやめてしまった。そうなれば自分や他人に猜疑心を向けるのは簡単で、常に疑いの目を持って全てを見てしまう。濁った眼から映る世界は不満に溢れ、理不尽で横暴な世界だと自己解釈しては、自分を正当化するのに必死だったのだろう。そんな場所ではいつまでたっても、「自信」を育み手に入れられるはずもなかった。
変わりたいと願う自分がいる一方で、行動してまた傷つくのが怖いので、未来と安全が確約されている、不平不満が溢れたこの場所を選び、また悶々と日々を過ごすことを選んでしまっていた。これが駄目だということはわかっていた。何かしなくては今の状況は変わらないことなど、初めから気づいていたのに、現実と理想の狭間で苦しみ、どこかで茨の道を進んでいる自分を見つけると、苦しんでいる自分に酔いしれ悲劇のヒーローを演じていた。そんな自分がいることを知りながら、安全地帯から未知の世界を遠目で眺め、一生手に入らない場所だと信じて指をくわえていた。村上さんの言葉は真理であり、僕にとっては正義だった。彼女の道を辿れば僕も変われる気がした。もしかしたら、追い込まれすぎていた僕には、それだけが僕を救済してくれる、一本の投げ込まれたロープに見えたのかもしれない。僕はそれを必死で掴み、たぐり寄せて這い上がることしか道がないように思えた。そしてここまで導いてくれた母さんの決断と行動に、僕は感謝をして頭を地面に擦り付けるべきだと直感があった。どん底だった。落ちるところまで落ちた気分でいた。そして、もう失うものなど何もないように思えたのだった。この機を逃すな、と誰かに言われている気がした。
母からの着信があった。なぜか横の人に申し訳なく思いそれを拒否してテキストで「今いく」と伝えた。


母はトイレの近くにある自販機の横で、何枚もの書類の束を抱えながらその中の一枚を熱心に読んでいた。お待たせ、そう言って母に近づいた。僕はどこか清々しい気持ちでいた。久しぶりの感覚があった。喉元まできた言葉が一度引っ込んだが、深呼吸をしてみると、大丈夫な気がした
「留学。してみてもいいかな?」
僕はそんなことを口に出し、そして母に尋ねていた。一瞬大きく目を見開き、開いた口が閉まらず三秒ほど沈黙していた母は、「はるがそう決めたなら」と、優しさと慈愛に満ちた表情で、目を細めながら口角だけを上げて微笑んだ。僕は、「ありがとう」と伝えていた。
二人で村上さんの元へ戻った。さっきと比べてブースはだいぶ空いている様子で、僕らは村上さんの目の前へとやってきた。どうぞこちらへ、と落ち着いた声で席へと促される。
「何かご質問などありましたか?」村上さんがそう尋ねるので、僕は「留学、しようと思います。さっき村上さんからお話を聞いて。それで、その、勇気をもらいました。僕も変わりたいなあって。とにかく前に進みたいんです」動悸やめまいとはまた別の、心に迫る何かに僕は急かされたよう気がして、必死に頭の中で言葉を紡いだ。

  ※

翌週に面談が行われた。「朝日くんはどの国にいきたい?」と尋ねられ、「僕は別に、本当にやりたいことも、どこに行きたいかも何も決めてなくて」としか言えなかった。村上さんが僕の担当カウンセラーになった。一年目の新人さんが担当に就くことは珍しいことだという。僕のために熱心に耳を傾けてくれた。
「今日の面談では、どこの国に留学するのか、それを話し合いたいと思っているの。もし朝日くんがまだ悩んでいるのなら、アメリカはどうかな?」
アメリカと言われてもピンとくるものは無く、自分がそこにいる図は想像できなかった。
村上さんの口元は少し緩んでいた。話したいことがありすぎて溢れてくるものをなんとか必死に堪えているみたいに。村上さんはまた首を右に少しだけ傾け、大きな黒目で優しそうに笑いかけてくれた。村上さんの言葉によって僕の気持ちは揺れ動いたのだ。彼女が言うことをまるで天からの啓示のように、僕はそのままを受け取るだけだった。この時はまだ、どこに行っても同じだろう、半ば諦めにも似た気持ちも少しはあったのかもしれない。


「あのさあ、留学することになった」
母と共に帰宅した晩、れんにそう告げた。夏の暑さもそろそろ終わりを見せ、以前の湿った風を感じることも少なくなってきた。夕方の冷たい空気に慣れていない僕たちは、久しぶりに鍋を食べていた。れんは「そうなんだ」と呟いて、菜箸で鍋底をグルグルとかき回していた。
母さんが契約書にハンコを押す前に村上さんが話していた。「まずは二年間コミュニティカレッジという、日本でいう短大ですね、行ってみてはどうですか? 正規生として入学する留学生の多くはこの選択を取ることが多いです。メリットとしては、お金を格段に安く抑えることができることです」。母は「お金ですか?」と口を開けてなんのことか知らない様子で尋ねた。村上さんは「四年制の大学に一年生から入学もできますが、アメリカの大学の学費はとても高額です。三百から四百万以上と考えてください。コミカレの場合ですとそれが半額以下にまで抑えることができます。二年間の勉強を終えて、必要な単位や学位を取った上で有名大学に編入するという流れは私も取ったように、留学生の間でも一般的な流れです。コミカレで学ぶ内容は、四年制の学生が学ぶ内容と何も変わりませんし、周りに留学生がたくさんいるので、一緒に語学を磨いていく上で心強いはずです。二年間まずは必死に勉強をして、その間に語学を磨き良い成績で編入するのが理想的な道筋です」と目を輝かせてそう言っていたが、僕はどこか遠目で眺めるように話を聞いていた。僕が四年制の大学に編入するかどうか、それは自分でもまだわからない。一年で限界を感じて帰ってくるかもしれない。今の僕にはそこまで自分を高く評価して、尊い理想を掲げられるほどの自信も無ければ期待もできなかった。だけど村上さんがそう言うのなら、僕はその言葉を額面通りに受け取るだけだった。
「母さんがはるを無理やり連れて行ったの。まさかほんとうに留学するなんて母さんもびっくりよ」れんと僕を交互に見つめる母さんはなんだかニヤついていた。
「そっかあ。頑張ってね」鍋底に沈む豆腐を探しながらそう言うれんは、箸で挟んでは落としてを繰り返していた。


頭の中でこうすけに何を伝えるべきか、色々と整理をして内容を精査していく。音声電話というボタンを押すと四コール目に、「どうしたー?」と寝ぼけたような声で電話に出た。僕は、突然なんだけど、と軽く前置きを置いた。自分でも知らずに声が震えていたので、緊張していたのだと思う。「留学しようと思ってる」と唐突に切り出してみた。こうすけは、そっかあ、と何気なく言うと、「すげえなあ、はる。よく決断したよ。頑張れよ」と落ち着いた声で、僕にそう言ってくれた。
こうすけには言っておきたかった。留学することに決めた、と。そしてこうすけがくれた言葉に、僕は嬉しくて今にも泣きそうだった。留学すると決めてから二週間、僕はまだ悩んでいた。本当にこの選択で良かったのかと、次第に事の重大さに気づき一人で震えていたのだ。同い年くらいの知らない子から突然、「逃げるのかよ」と罵倒されている気分だった。過去に受けた期待や羨望の視線が、今になって僕に重荷としてのしかかってくる。受けなくてもよい荷物を散々背負わされた僕は、身動きが取れずにその場で立ち尽くすしかなかった。どの高校生も通る大学受験を逃げた情けない奴だ、と後ろ指を指され馬鹿にされている気がして、僕はこの決断にまだ自信を持てていなかったのだ。母の英断によって、無数に広がる選択肢の存在を見せてもらいながら、僕はまだ一つの固定観念にぶら下がり、留まり続ける必要の無い場所で苦しんでいた。こうすけには、こんな僕が下した決断について何かを言って欲しかったのだと思う。そして、僕の決断に対して肯定して欲しかった。どん底に落ち、底辺に這いつくばる僕だったが、それでもこうすけだけは失いたくなかった。僕の唯一の友人としてそばにいて欲しかった。だからこそ、こうすけが僕にかけてくれた言葉を聞けただけで、僕はもう満足だった。
「ありがとう。そういえばこうすけの姉ちゃんもアメリカに留学してたよね?」
「ああ、違うよ。卒業旅行で二週間ぐらい語学の勉強してただけ。確かシアトルだったけな。色々話聞いたけどすごく良さそうな街だったよ。治安も良くて学ぶには良いところだったってさ」
村上さんの言葉を思い出す。彼女との会話の中で何度となく登場した「シアトル」という言葉は、それを聞く度になぜだか魅力的な絵が頭の中に浮かび、僕の心に根強く張り付くようになっていた。


シアトルは本当に素敵な街なの、それが村上さんと会話をしていると良く聞く言葉だった。愛犬を脇に抱え、優しく撫でながらいつまでもその可愛さを話すように、その一言一言を噛み締めながらゆっくりと話していた。
僕は村上さんに憧れていた。そこまで自信に溢れ切った態度で振る舞えることに対して。そして、村上さんが話す言葉に耳を傾け、ついて行こうと決めていたのだと思う。彼女が「シアトル」が良いと言うのなら、僕はシアトルに行くまでだ。もし彼女が別の国や他の地域、例えば中東の国や南米の街を提案してきても、僕は素直に受け入れその場所に行くだろう。僕の目には、村上さんが救世主のように映って見え、出口の見えない暗闇から抜け出す方法を教えてくれると信じて疑わなかった。
村上さんは「海や山、そして街や人々が綺麗だった」としみじみ言っていた。そう話す村上さんの横顔はとても美しかった。村上さんがなぜそう言ったのか、僕には本意を掴めなかった。僕の目に映る世界は、今や白黒で色彩を持たない薄暗い場所であった。日本の四季が素晴らしい、と声高に感嘆している人がいるが、草花の色付きに感動して、季節の変化による景色を楽しむなど今の僕にはできなかった。僕の世界は、自分の内にいる自分との対話だけで成り立ち、世界は自室のベットの上だけに思えた。しかし、村上さんがシアトルの自然や街、そこに住む人々に影響を受け変わったと言うのなら、僕もその後を追ってみたかった。彼女は僕の唯一の正義であり真理なのだから、助けを求めていた僕は、ただ言葉を受け止めそれに従う。
僕が「何が村上さんを変えてくれたんですか?」と質問すると、「人よ」と呟いていた。そして、「いろいろな人たちを見たの」と微笑んでいた。それは何か含みを持つ言い方であり、村上さんは全てを語ろうとはしなかった。村上さんの表情からは、自分の目で確かめてみなさい、とそう暗に仄めかしてる気がして、僕もそれ以上は聞くことができなかった。けれど僕にとっては十分だった。人を避けて、独りで生きようとしていた僕にとって、村上さんの言葉は人との繋がりを意識させる、重要な意味合いを含んでいたのだ。人との繋がりを求めているが、繋がりを作ることに恐怖を覚え、孤独に生きることを選んでしまっていた。僕は今までその思考回路の中で常に苦しんでいたのだ。村上さんの言葉は、僕の思考回路に新たな導線を増やし、そして別の考えへと導く助けとなった。堂々と話す村上さんに、僕は憧憬の念を抱き、感動していたに違いない。村上さんが言った言葉を頭の中で反芻して、沸沸と希望や推進力を養っていた。
嘘のない、心の底から愛情を表して語ってくれる言葉というものは、なんだか人の芯の部分に優しく触れてくる。すやすやと眠る子供の頬を撫でるみたいに、真実を突きつけられ、僕の揺れ動いていた心はもう凪のように穏やかでいた。もう迷う必要もないくらいに、ひっそりと何かが固まっていく感じだった。


「返信遅れてごめん。元気にやってるよ。野崎は?」
「はるくーん、久しぶり! 私も元気にやってるよ。勉強が忙しい時期だね、全然大丈夫、時間がある時返信もらえれば嬉しいです。りんか」
確か留学フェアに行った日に、野崎から連絡をもらっていたがまだ返信してなかった。あの頃はまだ太陽が早い時間から燦々と照らす時期だったが、十一月ともなると、体に纏う布の数を競い合う季節だ。
「進路なんだけど、留学することに決まったんだ。アメリカに行くことになった」
「アメリカ?」すぐに返事が返ってきた。
「そう。シアトルっていう街に。向こうの大学に入学する予定」
彼女からの連絡はこれから二時間ほど止まったままだった。昼の一時過ぎ、僕は自分のベットの上でただ天井を眺めていた。彼女にはもう少し早く連絡をするべきだっただろうか? ふとそんなことを考えては、なんだか申し訳なさを感じていた。そして、早く返信をしてくれ、と傲慢で独り善がりな考えにも想いを巡らせていた。彼女から返信を待つ時間が苦痛で仕方なかったのだ。悪い想像がいくつも頭をよぎった。野崎ならするはずもないが、別の友人に僕のことを話し、複数人で馬鹿にされていたらなどと考え震えていた。僕はまだ怖がっているみたいだ。いつまでたっても決断に自信を持てていなかった。野崎なら大丈夫、そう考え連絡はしてみたものの、そんな友人にさえ疑いの目を持ち、自分を守るために相手を否定することに必死だった。こんな自分を変えたい、こう考え悩む日々が続いていたが、この深い闇から脱出する道筋はまだ見える気配はなかった。
村上さんに言われ、僕は一ヶ月後には日本を離れることになっていた。航空券を手配しました、そう告げられるとなんだか緊張してきて、留学が現実味を帯びて僕の目の前に現れたみたいだった。色々な不安が頭の中を駆け巡る。しかし良い解決策など思い浮かばぬまま、時間だけが足早に過ぎ去るのを感じながらぼんやりしていると携帯が震えた。
「そっかあ、はるくん留学するんだね。すごいよ、はるくんは英語得意だったもんね。でも突然でびっくり!」
飛びつくように内容を確認するが、味気ない感嘆符を最後に発見すると、波が引いてくように嬉しさが消えていった。彼女が何を考えているのか分からなかった。
「色々バタバタしてて、連絡するの遅くなった。驚かせてごめん」
「大丈夫! 向こうの大学に入学するんだよね? シアトルでは何を勉強するの?」
何をやりたいのかなんて何一つ決めていなかった。
村上さんに以前の面談で「専攻するなら、コンピューターサイエンスはどう?」と言われたことがあった。僕は初めて聞いたその言葉に、口を開けて村上さんの話を黙って聞いていた。「テック産業が盛んなシアトルではね……、」何度もそう呟く村上さんの言葉からは、どこか哀愁や後悔の念がにじみ出ていた。「私も、もう少し早く知っていたら、間違いなく専攻していたと思う」と、唇を噛み締めるように語るその表情を垣間見ると、慎ましさとはかけ離れた、村上さんの必死さが窺えた。その言葉は僕に向けての言葉では無く、過去の村上さん自身に話しているように聞こえたのだ。同じ轍を踏むな、そう言われているように聞こえた僕は、特に考えることもなく、「コンピューターサイエンスを専攻したいです」と答えていたのだ。先人から受け継がれた言葉の重みを、僕は包むように抱き上げ全身で感じていた。古代ギリシャの哲学者が残した数々の言葉に教えを受けるように、若く無知な僕はありがたい言葉のように、村上さんの教えを忠実に則るつもりだったのだ。
「一回会えないかな?」彼女からまた連絡がきた。僕はその文面をじっくりと三度読み返した。心臓の音が聞こえてくると、そのスピードは徐々に早くなっていく。なんだろう、このホッとした気持ちは。彼女はまだ僕を忘れてはいなかった。嬉しさが体の底からジワリと湧き上がってきた。同時に、自分はくだらない男だ、と情けない想いで苦しくなった。


冷たい風が全身をさすっていくと、ぶるっと身体が震えポッケに手を入れて寒さを凌いだ。駅前は綺麗な電飾がカラフルな明かりを輝かせている。かすかに聞こえるおなじみのクリスマスソングを聞くと、なぜだか勝手に体が踊りだしてくる。クリスマスや大晦日、新しい年を楽しみに待つ人々がにこやかに街を揺らしていた。
待ち合わせより十分早めに着き駅の広場に向かうと、そこにはもう彼女の姿があった。遠くからでも一目でわかるその存在感が、僕の鼓動を徐々に早めた。家から五駅ほど電車に乗ってきたが、それまでの緊張感や動悸とは違う胸の高鳴りがあった。
「野崎。ごめんね、寒い中。待った?」
「はるくん。久しぶり。私もちょうど来たところだよ」
またあの上目遣いで僕をみつめる姿は、久しぶりに会っても変わってはいなかった。青のスキニージーンズにベージュのタートルネックセーター、その上にもっと濃いベージュ色のモコモコした上着を羽織っていた。毛布に包まれた小動物の何かみたいに、彼女は小さく僕の前に立っている。
「どこ行こうか? 夜ご飯もう食べちゃう? 近くにカフェもあったよね」
彼女の上目遣いを見る度に、僕は心地よさに包まれていた気がする。自分だけが持つ特権。意地汚くも独占欲を満たすことで優越感に浸っていた。高校時代は、きっと僕は彼女を利用していた。自分の存在を認識し、そして評価を得るために、人気のある野崎を使って僕に視線を集めた。同時に、野崎が僕と同じ理由で近づいてきていることも知っていた。人気や視線を欲するあまり、高校という小さな社会しか知らなかった僕らは、ヒエラルキーの頂を目指して必死だったのだろう。そして若く無知であった僕らは、他人を利用することに微塵も罪悪感など感じていなかった。僕が、野崎と一緒にいることで得ていた安らぎや心地よさの類は、共犯関係において仲間意識が芽生えたことにより、心の繋がりを得ていたからだった。しかし、今の僕らにもう繋がりなどは無いのであって、ぎこちなさを感じて昔のように振る舞えないのも当然だった。僕は彼女の上目遣いを久しぶりに感じて、どこか嫌悪感を抱いていた。それは今の僕が変わってしまったせいなのか、もしくは彼女の純粋な心に触れたことで、自分の器の小ささを強調されたことに対する反抗だったのかもしれない。今の彼女が僕に近寄る理由など無いように思えたので、どうしてまだ彼女はその上目遣いを僕にするのか、それが不思議で理由が分からなかった。僕は野崎に対して恐れていた。何かの予感を感じて、そして予想通りになることを恐れ、震えていたに違いない。それ以上踏み込んでくるな、と全身で制止しようとしていた。
彼女は俯き何か考え事をしている。そして、どこか別の場所にいるみたいにコクと首を縦に一度振った。僕の「これからどうする?」という質問に対する返答として、あまりにも曖昧で不自然な動作だった。冬の寒空が夜と共に気温をまた下げ始めた。しかし、雲ひとつない空には、不純物など何も無い濃紺の綺麗な夜が広がっていた。
「お腹減ってない? そしたらマックでも行こうか? コーヒー飲みたいな」
「はるくん」
突然顔を上げ僕を下から覗くように見てくる。その表情は先ほどの可愛らしいものとは違っていた。僕は驚いて、そして次に彼女が発する言葉が何か分かっていたような気がした。僕は諦観にも近い気持ちでただ彼女を見つめていた。
「ん?」
「わたし、はるくんのことが好きです。高校の頃からずっと、ずっと好きでした」
駅の広場は帰宅途中の人々で賑わいを見せ始めていた。夜がひっそりとやってくると、かえって街は賑やかさを増していく。無言で立ち尽くしている僕ら二人を、気にもせずに何人もの人が横を通り過ぎて行った。何も返す言葉が思い浮かばないのは、周りが気になり震えていたせいかもしれない。もしくは、彼女に対しての怒りだったのかもしれない。
「高校卒業してからもすっと好きなんです」
何も話さない僕を気にすることもなく、彼女は、長い間胸に秘めていた想いを僕に伝えようとしていた。その時の彼女は両手を腿の前で合わせて、肩を震わせながら、全身に力を込めているようだった。目尻に浮かぶ水滴は、目を見開きすぎたせいで乾いたのか、もしくは涙なのか判別はできない。予感をしていた。きっとこんな言葉を言われるのだろう、と。なんと答えるべきか考えてはみたが、全く思いつかなかった。できるなら、その言葉を僕に言って欲しくは無かった。今の僕に、彼女の想いを受け止めることはできないとわかっていた。彼女が思い浮かべる過去の僕と今では、とてつもなく深い隔たりがあった。彼女の想いを聞けたのは嬉しかったが、自分が変わってしまったことを認識させられ、ギャップの深さに絶望した。
「はるくんのことが好きです」また彼女はそう伝えてきた。もうやめて欲しかった。何かを言わなければ、気づいていたが言葉が浮かんでは消えていく。
「このことをね、はるくんに伝えたかったの。はるくんがアメリカに行くまえに」
「ああ」
「はるくん。頑張ってね」
最後まで碌な言葉を言えなかった。彼女はどんな言葉を欲しているのか、なんて言ってあげればよかったのか、思いつく言葉は喉元で止まり最後までそれを口には出せなかった。彼女は最後まで笑って僕に手を振ってくれていた。駅に吸い込まれるように角を曲がり見えなくなるまで、ずっと。僕は彼女の姿がいなくなってもまだ、そこにずっと立っていた。冷たいと感じていた風にもう寒さを感じることもなかった。手の感覚を忘れるほど、僕はただ遠くの角を眺めていた。
「あぁ」うめき声に似たものが漏れた。自分自身に対して、情けなく思い失望した。僕はこれからも、一人で生きていくのだろう、そう感じていた。僕に好意を抱く女性が現れたとしても、僕はまた何も言えずにその場に立ち尽くし、その女性が去るのを見送ることしかできないのだ。自分が相手に好意を持っていたとしても。僕の過去を知らない相手であっても、理想と現実の矛盾の中で苦しみ、一人で自己完結して独りになろうとするのだろう。数少ない友人を失うということは、とても大きな痛みを伴うのだと初めて知った。野崎という友人が、大切な存在だったのだと改めて感じた。尊大な態度で彼女に接していたと気づき、自分を恨めしく思った。人というのは本当に、失ってからでないとその価値や存在の大きさを感じられないのだった。
どれくらい立ち尽くしていただろうか。ふと、僕は駅に向かって駆け出し、野崎の後を追っていた。心臓の鼓動はとても早く、その音はいつもの二倍増しのようだった。蛍光灯の光が、街のイルミネーションのように見え、実体のないぼやけた光を奥で輝かせている。改札を抜け、全速力で階段を駆け上がり、野崎がいるホームへと向かった。端から端まで、駆け抜けながら彼女の姿を探した。彼女の姿は当たり前のように無かった。
僕はホームの一番端にある椅子に座り、四本の電車を見送った。いざ帰ろうとして立ち上がると、めまいで世界が霞んで見える。動悸が激しくなってくると、僕はまた椅子に座り直した。急に不安に襲われると、その不安は際限が無かった。僕は膝に両肘を置き俯いていた。呼吸を整えようとするが上手くはいかない。
僕は母に連絡をした、「車で迎えにきて欲しい」、と。


出発ロビーの目の前で、僕は母さんとれんと父さんと一緒にいた。搭乗時間になると僕はこのロビーをくぐり、飛行機に飛び乗っているはずだ。異国の地へ一人で渡る時はもう目の前まで迫ってきている。
「はる頑張ってね」母さんが涙を溜めながら僕の手を強くつよく握っている。
「にいちゃん、頑張って。向こうついたら連絡してよ」れんがなんだかこわばった表情でそう伝えてくれた。あまり見ないその顔つきに僕は少し動揺した。
「はる、向こう着いたらすぐ連絡して。何かあったらすぐに近くの人に助けを求めるんだぞ」海外出張の多い父さんは昨夜も的確なアドバイスをいくつかくれた。
「うん。頑張ります。来てくれてありがとね。帰り道気をつけて」
今朝こうすけに、行ってきます、と連絡をした。村上さんにも初めて連絡をした。意外と絵文字を使うらしく可愛らしい華やかな文面で、頑張ってね、と返信が来た。そして野崎にも連絡はしてみた。まだ返信は帰ってきていない。
「行ってきます」
脇に置いてある大きなボストンバッグを肩に乗せ、それ以上に大きなキャリーケースを掴み、みんなに一礼して僕は前に歩き出す。本当に生きていけるのだろうか? 直前までそんな不安に駆られていた。大丈夫、あとはもう飛び込むだけだ。そう自分に言い聞かせて歩みを止めないことだけに集中した。
もう一度振り向いて家族を見ると、母さんは目を真っ赤にしながら僕をじっとみていた。手を大きく振って、はるー頑張ってねー、と叫んでいる。僕は右手を高く突き上げて、拳を振り上げてみんなに見せた。声を出さずに口の形だけで、「頑張ります」と伝えた。

  2

ガタガタと砂利道を進んでいくと開けた場所に茶色の屋根の一軒家がポツンとあった。周りを草木に囲まれたその家を一周するように小さな小川が流れている。車一台分ほどの狭い道を抜けた先に、これからが僕がお世話になるホストファミリーの家があった。
一二月二十二日月曜日、十四時五十分に、僕はシアトルタコマ国際空港に降り立った。到着予定時刻通りに飛行機は着陸、僕は事前の予習通りにカスタムを抜けラゲッジエリアで荷物を無事探し出し、ホストファミリーが空港まで迎えにきてくれるのを待っていた。二十分ばかり待っていると、はる?と声を掛けられた。どちらかというと、はるうぅ、に近い発音で名前を呼ばれ僕の心臓は今までにないくらいに飛び上がった。
目の前には一人に女性が立っていた。ピンクのジャージに青のジーンズ、足元は黒のテニスシューズとラフな格好のその方は、「セレスです。初めまして。さあ行きましょうか」と、ゆっくりとした英語で話しかけてきた。セレスは、どうやらアジア系の方みたいだ。
「はじめまして、はるです」自分が今外国にいるんだ、と実感する。一言英語を話しただけでもなぜか感動に似た、崩れそうなジェンガの一つを抜き一番上に置くことができたみたいに、何かが増えた気がした。英語の構内アナウンスや、どう使えばいいのかわからない自動販売機、隙間から外が覗けてしまうトイレの個室や四レーンある広い車道なんかにいちいち心が弾んだ。十数時間前はまだ日本にいたのに、今はもうアメリカにいるのだと強く実感した。これから僕はこの土地で生きていくんだ、と前向きな気持ちが沸き起こったことには、自分でも驚いた。


セレスはシンガポールの方らしい。生まれも育ちもシンガポール、二十六歳の時たまたま訪れたシアトルで、今の旦那に一目惚れをしてそのままゴールイン。ラッセンは、シアトルで生まれた生粋のシアトルっ子だ。大きな身体でゆっくりと歩く。肥満ではないが肥満気味だ。常にハアハアと小さく唸っている。セレスに比べるとラッセンは、無口でクールでちょっと怖い印象がある。
クリスマスの日だった。セレスは朝から料理に掃除と、いつも通り忙しなく家中を動き回っていた。目を覚ましてふらっとキッチンに行くと、大きなターキーがあって本当に驚いた。これがアメリカなのか、と一人でクスクス笑ってしまう。見たこともないほど大きな冷蔵庫の中には、見たこともない食材がたくさん入っていた。冷蔵庫を開けるたびに、僕はなんだかワクワクした。一つずつ食材を手にとっては、英語で書かれた商品名を確認しパッケージに目が奪われた。
「セレス。何か僕にも手伝えることはない?」
「イッツオッケー。ディナーまでゆっくりして。今日はご馳走よ」
僕の英語が通じたことにまず喜んだ。
「ラッセンは今日何をしているの?」と尋ねると、「ん?」と聞き返された。彼には僕の英語は通じなかったらしい。「今日の予定は?」ともう一度聞くと、「すまないね。君の言っていることが理解できないよ」と言われた。
こう言われるのは結構ショックなことだった。これが欧米人の気質なのだと思う、それは分かっていたつもりだが、ストレートに物を言う態度のラッセンに僕は萎縮してしまうのだ。他人の褒め言葉やポジティブな意見だけに反応して、自分の存在を確かめてきた人生だったので、ノーと直接的に言われるのは、まるで自分を否定されたように感じ、最初は慣れることが無くショックを受けていた。こちらでは、自分の意見を隠さずに言うことは良しとされていて、それは優しさや友好の証でもあることに気付くまでは、日常生活や学校などで幾度となく傷ついた。
大晦日の日には、花火が上がるので見に行こうと三人で行くことになった。場所はスペースニードル。シアトルのランドマークタワーとして有名な建物から花火が打ち上がるらしい。会場にはとにかく人がいた。ただ一点いつもと違うのは、周りからは聞き馴染みのある日本語は一切聞こえず、早口で何と言っているかわからない愉快な英語だけが聞こえた。そんな状況を前にして、僕はなんだか自然体で生きていた。
花火が打ち上がった。が、目の肥えた日本人が見るにはとてもお粗末なものだった。パンっ、パンっと乾いたタオルを思い切り振り回すみたいに、安物のスターターピストルのような音が響いていた。しかし周りの人たちは指笛を鳴らし、陽気な歌を歌い、肩を組んで飛び跳ねながら大声を出していた。いつもクールなラッセンも、セレスの腰に手を回して歌っていた。三十秒ほどで花火が終わると、先ほどまでの歓声が嘘みたいに、皆が無言で帰り支度を始めたあの光景を、僕は一生忘れないだろう。


一月二日から始まった学校には違和感しか感じなかった。ちなみにだが、アメリカ人は元日でも驚くほどにドライで、いつも通り生活をしていることに寂しく思った。オンとオフがはっきりしている、と良い意味で捉えれば見習いたいマインドだ。
「はるうぅ、今日はどこかに行くの?」セレスが僕に言った。
「今日はパイクプレイスマーケットに行こうかと思って」
「良いわね。スタバの一号店には行ってみて、混んでいると思うけど」
学校が始まった最初の一週間は、オリエンテーションなどであっというまに終わってしまった。僕は一番前の席に座り、目の前で英語を話す白人のおじいさんを睨み続けていた。話す言葉が全て英語だということに、感動を覚えていた。
パイクプレイスマーケットも、シアトルでは有名な観光地だ。今ではスタバの一号店を始めとして、年中人で溢れている場所である。海沿いに面したそこは、芝生の上で日光浴や話し込んでいる人もいれば、両手に袋を抱えた人たちが忙しなく往来を繰り返している。
初めてのダウンタウンに緊張しながらも、なんとか目当てのバスに飛び乗る。休日の車内は空いていた。車社会のアメリカではバスに乗る人も少ないのだろうか、そんなこと思いながら後部ドアに近い座席に座ってみる。
「にいちゃん、両替できる?」トントンと背中を叩かれ後ろを振り向くと、ドレッドヘアーの黒人の方が笑顔で僕を見ていた。「ちょっとだけで良いからさ、両替できる?」と。僕は意味がわからず、パニックだった。「どういうことですか?」と僕が尋ねると、「だからさあ、これだよこれ」と、一ドル札を手に持って僕に見せてきた。慌てて僕が一ドル札を三枚財布から取り出し見せると、「センキュー、センキュー」と言って、僕の三ドルを奪い取ってポッケにしまった。僕は、「ユーアーウェルカム」とだけ言って何が起きたのかわからないまま前を向きなおした。なぜ僕の三ドルを笑顔で奪ったのだろう? 状況が理解できずに僕は泣きそうだった。
また背中をトントンとやられた。僕はもううんざりしていたので、「なんですか?」と勇気をふりしぼりちょっと怖い顔をしてみせた。
「歌でも歌おうか?」
この人はさっきから何を言っているのか、彼の目的が分からず困惑した。
「何か好きな歌はあるかい?」彼はまだ僕に話しかけてくる。
僕はもうわけがわからなくて無言でいた。すると彼は突然、車内に響き渡るような大声で歌い出した。目を垂らして前歯を見せ大きく口を広げながら楽しそうに歌っている。何の歌かはわからない、聞いたことのないその陽気なメロディーは、僕のこわばった身体の熱をすうーっと冷ましてくれた。驚いたことに誰も歌っている男性を見ようともしていない。この状況が来ることをまるで知っていたみたいだ。
「ヘイ!」一番後ろにいた女性が大きな声を出し、自分が注意されたみたいに僕は飛び上がった。怒っている、そう感じ女性に振り向くと、彼女はなんと笑顔だった。         
「私も歌うわ」そう言って一緒に歌い始めた。まるで彼女の号令を待っていたかのように、そのあとは次々と別の乗客まで一緒に歌い出した。立って踊っている人もいる。八十歳ほどの白人の老夫婦は手を繋いでダンスをしている。若い黒人の男の子は手を叩いて盛り上げ、その横の白人の女の子は口笛で応戦している。三ドルという手頃な値段でミュージカルのチケットを買うことができた僕は、呆然としながらも楽しんでいたと思う。日本であれほど嫌いだった、交通公共機関の中で、僕は信じられない光景を目の当たりにして、心おだやかに座っていられた。電車内ではいくら払えばいいのだろう、そんなことをぼんやりと考えていた。


「ヒャルウ、テスト合格おめでとう」
ピュウーはそう言って、僕にハグをしてきた。ベトナム人の彼は異様にパーソナルスペースが近い。話すときは顔を近づけて、何回もボディタッチをしてくる。
「ありがとう。やっと終わったよ」そう言って、ハグを返す。
「来月からは本当のクラスで勉強だ」隣にいたアンドレがそう言った。
「シルビアもでしょ?」僕が彼女の方を向き聞いてみる。
「ええ、私も何とかパスできたの。すごく勉強したから本当に良かった」
僕たちは、ESLで同じスピーキングの授業を受けているクラスメートだ。ESLとは、イングリッシュアズアセカンドランゲージの略であり、正規生として、ネイティブの学生と一緒に授業を受けるレベルになるまでの間、重点的に英語を勉強する場所。
半年に一回ある校内テストで良いスコアを取ると、ESLを卒業できる。僕はアメリカに来てから、三ヶ月後にあるこのテストで合格することを目標に勉強していた。
「ピュウーはどうだった?」僕が聞いてみると、「またダメだった」とヘラヘラ笑っていたが、しかしその表情はどこか悲しそうであった。「ピュウーはさ、もう一年もESLにいるんだからそろそろ合格してもいいよな」中国人のアンドレが綺麗な発音で鋭くピュウーに詰め寄る。「確かに」と僕も二回頷いた。「英語の発音にアクセントがあるから聞き取りづらいんだ、それに早口だ」冗談っぽく言うアンドレに、僕も心の中でまた二回頷いていた。「アンドレもよ。あなたは英語が喋れるくせに、リーディングもライティングも全然できないじゃない。ピュウーと一緒のクラスから始まったのにあなたはまだ真ん中のクラスって、ちゃんと勉強してるの?」気の強いシルビアは、ピュウーをからかうアンドレにいつものように毒を吐いている。肌が白すぎるシルビアは、目が大きくてシュッとした顎を持つ、綺麗な黒髪を持つ韓国人の女の子だ。このグループの中で紅一点であり、学校でも人気があった。
何気なく四人が集まり、中庭の芝生の上で輪を作って話すこの日常が、なんだか僕は好きだった。ピュウーとアンドレが二人でいつもふざけあっている。それを止めるのはいつもシルビアだ。僕はその光景をいつも横で眺めている。拙い英語で話す僕らは、多分言いたいことの半分くらいしか言えてないと思う。だけど、会話にはなっているし、僕たちはずっと笑っていた。
留学生として同じ境遇にある僕たちは、よく悩みや問題を打ち明けては、その度に心を通わせっていったのだと思う。僕はまだ皆といても緊張はしていたが、一人でいることに耐えられるほど、強くも無かったのだ。毎日が必死の中、日々の困難を友達に打ち明けることは、僕の心を楽にしてくれた。彼らを信用できるほど僕はまだ出来上がっていなかったが、友達が必要だということは、ここで生活する上で必要なことだと気づき始めていた。こんな気難しい僕にも、三人はフランクに接してくれたので、僕もだんだんと気を許せるようになっていったのだ。


ネイティブの生徒たちに混ざってクラスを受け始めると、ESLの授業がままごとみたいに感じるほど大変だった。良い成績を取るためにはかなりの努力が必要だと気付く。日本の大学がどうかは知らない。知らないが、こっちではグループワークなど授業外で会うことを頻繁に求められた。これが毎回緊張する。バスを乗り継いで目的地までの間で何を話すかなどを必死に考える。
一度学校の近くにあるスタバで会おうとなったことがあった。適当に決められた四人一組のチーム。自己紹介をしてみると、僕だけが留学生で残りは全員アメリカ人だった。僕が自己紹介し終えても、なんだか周りの顔色が悪い気がした。初めてみるマジックに困惑しているような表情で僕を見てくる。
「じゃあ連絡先を交換しよう。番号でいいよね」と、グループの一人が言い出した。「ええ」「もちろん」残り二人も阿吽の呼吸で携帯を取り出し、番号を教え合っている。僕はフェイスブックなんかで連絡するものと思っていたので驚いた。僕はまだアメリカで携帯の番号を持っていなかったのだ。
「あの、すいません。僕、まだ番号を持っていなくて……。どうすればいいですか?」
「そしたら、今日の三時にスタバに来てよ」連絡先の話を切り出した体の大きい白人の男の子は、ぶっきらぼうに空を眺めながら僕に言ってきた。僕はなんだかチームに入れていない気がして、不安で仕方なかった。
午後三時スタバに着くと、三人はもうすでにテーブルを囲んで楽しそうにしていた。「遅くなってごめん」僕がそう言って近づくと、なんだかまた空気が変わった気がした。三人があの目で僕を見上げている。
「ああ、実は一時間前にもう集まることになってね。ほとんど決まったよ」あのでかい男がヘラヘラと僕に向かって言ってきた。
「これ。君の調べる範囲ね。次の授業でパワポにするから調べておいて」僕に紙切れを渡すと、他の二人とまた楽しそうに話を始めた。
早口で捲し立てるように発せられたその言葉は、普段僕が聞き慣れたセレスのゆっくりな英語ではない。ピュウーやアンドレ、シルビアが話すカタコトの英語でもなく、正真正銘ネイティブの方が使う英語だった。彼らの話に耳を傾けるだけで精一杯の僕は、話すタイミンングを失っていた。聞いた内容を頭で理解し終える頃には、別の話にもう移っている。三人からしてみれば、僕は英語が喋れないシャイな留学生ぐらいにしか映っていないのだろう。僕が感じた視線はまさしく、一つの異質なものを不思議そうに眺めるそれだった気がする。寂しく思うし、自分に腹が立ったし、悲しかった。こんな感情は初めてで、牧場に放たれた白い羊の中にいる一匹の黒い羊になった気分に近かった。僕は今、留学生としてアメリカで勉強をしているんだ、そうはっきり感じた。


落ち込んだ気分で帰宅すると、僕はすぐに村上さんに連絡をした。
「私もよく経験したわ。特に一年目はそんなことばっかりだった。だけどね、そこから何かを学んでいくの。話せない自分に腹が立つのなら、必死に勉強して彼らと対等に話せるようになるしかない」
「郷に入っては郷に従えですか?」
「そうだね。彼らが話しているときどんなリアクションをしてジェスチャーをしているかとか。スラングとかその土地での言い回しを日常生活の中で覚えていくの。段々とアメリカ人っぽく振る舞っていいのよ。日本に帰ってきたらちょっと鼻につくみたいだけどね。頑張って!」
「僕も初めて村上さんにお会いしたときは、アメリカの方かと思いました」
「私も努力したからね。髪型や服装なんかも馴染むように努力したよ。そのおかげでたくさんの仲間ができたし、自分に自信を持つことにもつながったの。私は今でもこんな自分が好きだし、変えようとも思わない。頑張った過去の自分も含めて肯定してあげたいからね」
村上さんのアドバイスは的確だった。それは慰めるだけに考えた気持ちのよい言葉などではなく、村上さん自身が経験した中で言える、己と向き合ったことのある人が言える厳しい言葉であった。彼女はきっと、自分にとても厳しい人なのだろう。しかしそれは、ここで生き抜いていく為に必要なことだと知っているからこそ、上辺だけの言葉で語ることがどれだけ卑劣なことかを理解しているからこそ言える、極上のアドバイスなのだと僕は感じていた。強く、清く生きようとしていた村上さんに対して、僕はまた憧れの念を強く抱くのだった。


話せば長くなると思ったが、一年を振り返ってみるとさほど覚えていなかった。いざ過去を振り返ってみてもそんなものだ。あまりにも濃い時間を過ごしているために、脳が記憶することを放棄しているのかもしれない。そうしなければ身体がもたないからだ。ここにいると時間の感覚がおかしいと感じることがある。日本にいた頃の自分は、本当に止まっていたのだ、とそう感じる。いや、止まっていたとしても生きていくことができる環境があった為に、僕はその状況に甘んじていたのだ。両親が与えてくれた部屋があり、僕はそこでじっとしていればいつかは食料を与えられていた。両親の優しさに甘え、自分を変える必要などないと考えていた。しかしここでは違う。僕は毎日のように学校に行かなければならない。それは米国で勉強をする学生の義務であり、それを犯せば強制送還という罰があった。どんなに外に出るのが怖いと感じても、人と会うことに震えていても、僕に拒否する権利は無かった。母や父が毎日仕事に行ってくれることで、僕はベットにいるだけで生きることができたのだ。両親に苦労をかけ犠牲にすることで。
ここに来てからは、毎回新しい発見をしている。一年間は飽きもせずに、それはスーパーや本屋に行った時や、またはどこかのレストランに入る度に、いちいち心が弾み笑顔が自然と漏れた。セレスの言葉に熱心に耳を傾け、目を見て頻繁に頷いた。セレスだけではなく他のどの人に対しても、僕は熱心に話を聞いた。他人と対面して話を聞くのは毎回心臓が高鳴り、汗をかいて緊張したが、相手の言葉を理解する為に、そして自分はなんと返せば良いのかを同時に懸命に考えていたので、別のことに気をとられることで緊張は半減していた。時間が解決してくれるよ、と母が月を見上げながら僕に言ったことがあった。あの日は満月で空は綺麗に澄み渡っていた。僕は必死に毎日を生き抜こうとする中で、知らぬ間に変わっていた。もちろん、それには悩みや苦痛、緊張や努力を必要としたが。

 ※

一人では生きていけない。いつからだろうか、異国の地で右も左もわからぬまま一年生活してみると、こんなことを考えるようになった。僕が他者に歩みよりだしたのか、または本能が生き抜くためにそうさせたのか、それはわからない。あれほど孤独を求め一人ベッドの上で丸まっていた日々が嘘みたいに、僕は様々な人に囲まれながら生活していた。孤独の中の平安を求めていた頃はとにかく独りでいた。しかし理想の世界を手に入れたはずなのに、なぜだか苦しかった。音一つしない静寂な世界は、矛盾を孕んだ落ち着かない場所でもあった。今では過去の自分が驚くくらいに、なんとか生きてゆけている。諦めにも似た気持ち、もしくは自分に集中して忙しいからなのか、人波の中でも揺られ押し戻されながら対抗していた。
クラスに行けばたくさんの学生と共に授業を受けなくてはいけないし、グループワークをやらなければ評価はもらえない。道に迷ったら誰振り構わず道をたずねた、そこで野垂れ死ぬよりかは何倍も良い選択だ。セレスにキュウリは嫌いだから食べたくない、と恐れながら堂々と言った。まるまる一本が味噌と一緒に出てきたときは、見ただけで昼に食べたフレンチフライを戻しそうになった。授業で理解できない箇所があればいつでも教授室へ駆け込んだし、ネイティブの子と会話するときはジェスチャーや若者がよく使う言葉を選んで使うようにした。いつの間にか僕は成長していたのだ。それは半強制的に、環境や状況に強いられてもいたので、僕自身が進んで何かをやっている自覚はあまり無いが。
ピュウーやアンドレやシルビアは側にいてくれるだけで心が安らぐ存在だ。彼ら彼女には僕が望んで歩みよったのだ、それは決して状況や環境によって無理やりそうなったものでは無い気もしてきた。留学生としてアメリカで生きていく、という信念をプラカードに掲げ、一列になり行進でもするように、僕らは同じコミュニティーの仲間として自然に歩み寄った。一人では圧倒的に弱い存在であることを理解しているからこそ、こうして力を合わせ同じ境遇を生きてゆこうとした。非力で無知で小さなコミュニティーだが、なぜか僕を安心させ、心の平安を際限なく与えてくれる場所。感謝している。
やはり人間というものは同じ国籍や宗教、人種や肌の色なんかで集まりたがる。もちろん、小さな学校の中で、日本人が大体何人いてどんな子なのかは知っていた。日本人留学生のコミュニティーもあり、人知れず出来上がったスカイブルーの透き通る池のように、流暢に母国語を使い、伝えたいことを細部に至るまで話し合っていた。僕はそこに顔を出したことは一度も無い。いや日本人と話した記憶もほとんどない気がする。周りからは、一人でカッコつけてる痛い奴、みたいに思われているだろう。
授業終わりのある日、僕が図書館に向かっていると、前から鋭い睨みを効かせた目つきの悪い男が近づいてきた。その人は確か僕より先にいる日本人留学生だ。一度も話したことは無い、彼の話を僕がした覚えもないが、彼の目は怒り切れ長の悪そうな目つきで睨みつけてくる。横を通り過ぎるとき、顔をわざわざ僕に向け、ちっと舌打ちをしてどこかへ去って行った。浮いた存在なのは自分でもわかっていたが、ここまでのことをしただろうかと混乱した。一度はパーティに顔を出そうとしたが、身体がなぜか歩みを逆の方へと進めていき、気づいたらセレスとコーヒーを飲んでいた。
一人では生きていけないと気づくと同時に、日本人の友達がいた方が良いとも考えたことはあったが、まだその一歩を踏み出すことに勇気が出なかった。トラウマというやつは、確実にまだ僕の頭の片隅に潜んでいたのだ。繋がりを持つには、特に同じ日本人同士では、持ちつ持たれつの関係を強いられ、常に一緒にいることを求められていたので、僕にはそれができないと悟っていた。日本人から煙たがられているのは薄々気づいていたが、僕も自分勝手ながら努力はしていたのだ。靴底をすり減らしながら、汗をかきながら必死に生きていた。毎朝、教科書や重いラップトップが入ったリュックを背負ってバスに乗っている自分が、なんだかイケてるなと思った。朝早くに登校し、遅くまで図書館に残る毎日に幸せを感じることもあった。僕はシアトルで生きている。


恐れていた日本人コミュニティーに踏み入れることができたのは、間違いなくゲンさんのおかげだった。これから先の遠い未来でも、親しい友人として付き合っていきたい、そう願った人はゲンさんが初めてだった。一年間の長期留学なのに、なぜか四ヶ月を残して突然帰国するまでの約八ヶ月間は、僕の人生を大きく変えてくれた。ゲンさんは僕が憧れたカッコいい先輩だった。
「イツルミナモト」、新学期が始まり初日のクラスで、前に立つ先生がその名を呼んだ。明らかに違和感のある名前に僕は、日本人がいる、と思い周りをキョロキョロしてみると、その人は僕の後ろに座り右手を高らかと挙げていた。
「日本の方ですか?」
「そうです。あなたも?」
「はい。はるです。今年で二年目になります」
「おー。正規生として留学ですか。初めまして、ゲンって呼んでください」
授業が終わると、ゲンさんは僕の元にやってきていろいろと話をしてくれた。ゲンさんは日本にある留学エージェントを介して、一年の長期プログラムでシアトルにきたらしい。有名私立・国立大学から合わせて三十人の日本人学生と共に。ゲンさんも都内にある有名私立大学の四年生で、一年休学してシアトルに来た、と。僕の二個上だった。
ゲンさんはいつも、「オース、はる、おはよう」と片手をだるそうに挙げて爽やかに挨拶してくれる。そしてそのまま僕の席の横に座るのだ。正直初めは横に座らないでくれと思った。まだ日本人と上手く会話ができない。ゲンさんが横にいるとなんだかそわそわして授業に集中できなかった。そんなことも知らずにゲンさんは僕の横に着くと、「あー眠い」と言って授業もろくに聞かずにずっと寝ていた。
「ゲンさん、授業受けなくていいんですか?」
「いいのいいの。あっ、はる、今日の課題いつまでだっけ?」
「夜中までですよ。まだやってないんですか? あれ結構重いやつですよ」
「ヤベェ。忘れてた。はる、ちょっとそれ写させて」
こんなことがいつもで、いつからか僕もゲンさんが横に座ることに慣れ始めていた。授業中、ゲンさんは死んだように静かにそこにいるだけで、いつしか僕も気にしなくなった。
「はる、カフェテリアいこ」授業が終わるとゲンさんは決まって僕を誘う。「いいですよ」と答えると「フレンチフライ奢るから食べようぜ」と決まってその言葉を口にするのだ。眠そうに、しかしどこか生気が漲っているゲンさんはいつも僕に何かをおごってくれた。
ゲンさんとのクラスが一学期を終えて、同じクラスではもうないのにも関わらず、まだ僕をカフェテリアに誘ってくれた。「はるー。今日飲み会あるんだけど一緒に行くぞ」と、すでに話が決まっているかのように言うので、「はい。じゃあお邪魔します」とそれ以外は何も言うことができなかった。正直、飲み会がどんなものなのか、行ったこともなかったので予想がつかない。日本人の大学生がする飲み会に、少し憧れを抱いていた僕は、不安と期待を胸にゲンさんの後をついて行った。
「はるー。もっと飲めよ」
「いや、もう無理です。吐きます。本当に吐きます」
「バカヤロウ。吐いたらまた飲めるだろう。ほら、いけ」
僕は三回吐いた。ビールを飲まされ、苦いアルコール消毒液を飲まされ、ギトギトのポテトチップスで空き腹を満たしていたので気持ち悪くて散々吐いた。
飲み会でのゲンさんは、普段見る無気力でだるそうにしている人ではなく、誰よりも笑いその場を盛り上げ、そしてゲンさんの周りには常に人が集まっていた。
「はる。生きてるか?」
「死んでます」
「ちょっと横になってろ。水ここに置いとくから」
横になり微かに目を開け遠くを見ると、ゲンさんの周りにはまた大きな輪が出来上がっていた。罰ゲームで一気飲みやコールなんかが初めての僕は、緊張していたし、昂ぶってもいた。男女分け隔てなく楽しそうにしている光景に、こんな世界も楽しいんだなあ、と思ったりもした。他者を拒絶し、独りの時間だけに没頭していると、不意に訪れるこういった大人数での場が、奇妙で夢心地に感じた。幼い頃夢の国で味わったあの高揚感だ。僕はただの飲み会で、自分がこの場にいることに感動していたのだ。ゲンさんが開いてくれた扉。その向こうの世界に、僕は自分でも想像しないほどに夢中になっていった。ゲンさんが帰国した後も、僕は何回か飲み会にお邪魔させてもらったし、数々のアルコールを飲み比べ、そして吐いて無駄にした。
ある日の授業前に、「俺はさあ、警察官になりたいんだ」と、ゲンさんは僕にそう言った。「警察ですか?」と尋ねると、「そっ、しかも国家公務員のほうね。エリートコースだよ。一年目から三十年四十年のベテラン刑事の上司になれるんだぞ。俺はキャリアになって国を動かすんだ」と、意気揚々と話していた。「それでなんで留学したんですか?」現実と理想の姿が合ってなさすぎるように思え、少し笑ってしまうと「バカ。お前、もしかしたら外国の犯人を追う場面が出てくるかもしれないだろ。動くなっ、お前は完全に包囲されてる、ってな。世界を相手にするんだから英語ぐらい話せなくちゃダメだろ」ボソボソと話していると、教授がクラスに入ってきた。ゲンさんはそれと同時に顔を伏せて寝てしまった。
「また寝るんですか?」
「おう。後で課題写させてな」
こんな人が国家公務員として、国のトップを背負えるのだろうか、疑問しかなかったが、こういう人が国を変えたりもするのか、とよくわからなくなった。僕の心を動かしたように、人の心を動かす才能を持つゲンさんなら、優しさと愛情ある厳しさで部下や上司、犯人までも変えてしまう気がした。
「了解です。後でフライおごってくださいね」ぶっきらぼうに返事をしてみてもゲンさんからの返事はなかった。もう死んでしまったようだ。僕はそっとしておくように決めた。
雨がまだ多かった四月に初めて会ったゲンさんとは、もう八ヶ月ほどの仲になっていた。ほんの少しの夏を終えるとシアトルは急に暗くなり、雨の街としての存在感を発揮してくる。十二月になった外は常に曇天の様相で、僕たちの気分を滅入らせていた。
「俺さあ、今月に帰国するわ」カフェテリアでいつものようにフライを食べている時に、ゲンさんは突拍子もなくそう言いだした。
「えっ、帰国ですか? なんで、あと四ヶ月ありますよ?」
「いや、国家公務員試験の勉強したくなった。こっちにきてからあんまり勉強できてなくて焦ってきたし、早めに切り上げようと思ってる」
僕は十秒くらい無言でフライをただ咀嚼していた。芋が口の中の水分を奪い去っていき、噛みづらくなってきくる。
「それでさ、はる。ウチに住むか?」
ゲンさんが僕の恩人でもある理由の一つは、こう言ってくれたことが大きな要因の一つでもあった。僕がまさに路頭に迷い込もうとしている時に、優しく手を差し伸べてくれたのだ。人生のターニングポイントにもなったこの出来事に、僕はゲンさんに頭が上がらない。


「ハワイに住もうと思っているの」
夕食で骨つき肉にかぶりついている時、向かいに座るセレスにそう告げられた。青天の霹靂とはまさにこのことで、言葉が見つからず、目頭に少しの涙を溜めセレスを見つめることしかできなかった。
「ジョーがね、今年ハワイの大学を卒業して、向こうで働くことが決まったの。私とラッセンも一緒に住もうってね。悪いけどあと一ヶ月後にはムーブアウトしてもらってもいいかしら?」
僕は来年も、もしかしたら再来年も、この家に住み続けるものだと思っていた。
「私もこの決断をするのにとても頭を悩ましたわ。でも決めたの、私たちが幸せに生きるために何が重要なのか。いつでもハワイに会いにきてね。はるうぅなら大歓迎よ」
一瞬、見放されたような気がしてとても傷ついたが、なんとなく理解できた。僕はこの家に住まわせてもらっているただの留学生であって、セレスやラッセンが僕のことを第一に考える必要もないことを、アメリカに二年住んで気づいてきた。誰よりも身近にいる大切なひとや、自分自身の幸せを先に考える彼ら彼女らを、僕は素直にすごいと感じる。
セレスも悩み抜いて決断したのだろう。なぜ彼女が毎日忙しなく動き回っているのか。料理に掃除に洗濯と夜中まで休むことなく働くと、またリビングで一人本などを読んでいる。そして誰よりも起きるのは早く、寝ていないのでは、と心配したこともあった。僕はやんわりと気づいていた。普段あまりラッセンと話すことの無いセレスの姿を。この夫妻の間には明らかに大きな溝があった。セレスはその息苦しさに耐えることができずに、常に家中を動き回ることで二人の時間から逃げているように見えた。セレスがラッセンといるときは、その間には常に僕がいたのだ。息苦しい空間だと感じたことは一度もなかったが、どこか違和感を感じていた。彼女の僕に対する優しさの裏には、悩みや葛藤が常にある気がしていた。そんな二人が、息子の卒業と同時に、家族全員で住みたいと決断したのならば、セレスが「私たち」の幸せを願っての決心なら、僕は大手を振って応援する。
ゲンさんには退去を告げられた次の日にこの話をしていた。家がそんなすぐには見つからずに、パニックになっていた時期にもらった言葉に僕はまず安心した。ゲンさんが言い終えると同時に、住みたいです、と差し伸べられた救いの手に飛びつき、力強くそれを握りしめたのだった。

  ※

二年目のシアトルは僕に安らぎと落ち着きを与えてくれた。ゲンさんと出会った頃に、他のクラスでも、初めて親友と呼べる半分日本人の男と、友達と呼べる日本人の女の子に出会った。
「ハイッ、アイムタロー。よろしくね」
そいつは英語と日本語を混ぜて挨拶してきた。コノミタロウと呼ばれ、明らかに日本人の名前を持っていながら、彼は誰も使わないような難しい単語を織り交ぜ、誰よりも堂々と流暢に英語を話していた。
「ハーフ?」
「うーん、そう。父がイギリス人で育ちはイギリスだけど、母は日本人だよ。日本語は普段、母と話す時に使ってるから一応話せる」
僕は初めて会うイギリス人に、もしくは僕に似た顔をした人間からは、想像もつかない綺麗な英語を話すこの男に、衝撃を受けていた。一応日本語も話せる、と謙遜する彼の日本語に指摘するべき箇所など見つからなかった。体は僕より少し大きく、肌も微かに白い気もするが、イギリス人だと言われなければ気づかないほどに、彼は日本人でもあった。
「はるです。あと数ヶ月で二十一歳の二十歳です。よろしく」
「同い年だ。僕も今年二十一だよ。よろしく、はるうぅ」
彼を同い年に見えなかった理由はいくつかあるが、そのうちの一つは彼のクラスでの振る舞いだ。彼は紛れもなく英語を母国語とするネイティブスピーカーであり、そしてそれはイギリス人の英語だった。一年間で僕の耳も慣れ英語を聞き取れるようになった。が、彼の英語はまるで別物みたいに、なんだか理解できなかった。普段僕が聞くような英単語を使わずに、聞いたことも無い、まるでシェイクスピアの一文を聞いているみたいだった。
クラスの連中も彼のアクセントを度々バカにしていた。彼は誰よりも手を先に挙げ、隙あらば教授に質問をする。毎回の授業での彼の小賢しい質問に教授は疲れ果て、クラスの奴らも飽き飽きしていたが、彼は常に堂々として自信に満ち溢れていた。
「ハロー、アイムタロー」そんな彼はまた、誰よりもフランクに自己紹介をしては握手を求め、仲間をどんどんと増やしていた。僕も握手を求められ初めて彼と話したのは、クラスが始まり出して少し時間が経った後のこと。「変な奴がいるなあ」と感じ始めた矢先の頃だった。
ある日の授業終わりにタローが僕に話しかけてきた。中間テストも終わり緊張の糸が切れた頃に、タローは誰よりも元気に僕をカフェテリアに誘ったのだ。彼とは授業外で話したことがなかったので、少し緊張したが行くことにした。僕らはフライを一つずつ頼み、席に座って食べようとしていた。油の塊にも見える、太いポテトが今では僕の好物であった。僕が嬉々とケチャップを山盛りにかけている時、タローは突然「はるうぅ。ごめん、僕もう行くね。友達がお腹を空かせてる」と、顔を上げて僕に言ってきた。タローは揚げたてのフライをまだ口にもしていない。「彼女?」と聞くと、「違うよ。ただの友達さ。でも彼女はとても綺麗な目をしているのは確かだよ」と言うが、よくはわからなかった。
「君は今食べているのにいいの?」と尋ねると、「ああ。後でハムでも食べるさ。フライはあげるよ。ごめんね。また明日クラスで」そう言うとタローは足早に去っていった。僕は一人でフライをかじり、塩味の強いそれを舌で感じていた。コーヒーを買って飲んでみると、濃くて苦くて不味かった。
タローは変わったやつだが、僕は彼に興味を惹かれていた。それから僕たちはよく遊ぶようになった。時間にはルーズで返信は二日後が当たり前。遊んでいても「彼女からだ」と言って急にいなくなるような、本当に風のような奴だったけど、なんだか憎めなくて、そんなところも僕は好きだった。彼はいきなり連絡してくる。しかし、僕がいきなり連絡しても、当たり前のように無視をするやつだった。彼には、振り回されっぱなしであったが、彼の人柄もあって、僕は許容してしまっていた。ある時もタローから連絡を貰った。
「はるう。今からピザでも食べに行かない?」
四時間前に「彼女をモールまで送ってくる」と言い残し、僕を学校に置き去りにした日の、夜中十時ごろに連絡を受けた。
「今から? もうベッドの中だ」
「キャピトルヒルに美味しいピザ屋さんがあるよ。その後ブルワリーに行こうよ。いまはるの家に向かっているからあと三十分で着くよ。シーユースーン」
彼に何を言っても無理なのはわかっている。僕は温いベッドの中から起き上がると、仕方なくジーパンと裏起毛の黒のパーカーをかぶって準備をした。
キャピトルヒルは、クールでおしゃれな若者の街のイメージがある。夜中でも大声をあげ騒いでいる人間がいたるところにいる。クラブやバーが立ち並ぶ危険と快楽が隣り合わせた街だ。タローが云うピザ屋もそんなクラブが立ち並ぶ近くにひっそりとあった。赤地に白文字で「PIZZA」と書かれ、その近くには黄緑の電飾が目障りなほど輝いている。こぢんまりとした意外に静かな店内に客はおらず、カウンターにはタトゥーを色鮮やかに全身にまとう大きな男がタバコを吸っていた。僕たちはペパロニとマッシュルームのピザを一切れずつ頼み、ハイネケンを二本買った。
「運転大丈夫か?」と僕が尋ねると、「気にすることはないよ。アメリカでは二本までなら許される。僕なら四本までオーケーだ」そう言うとタローはポッケからタバコを取り出し、口にくわえ出した。
「タバコ吸うんだ? 意外だな」
「今日は特別さ。彼女と色々あってね。もうきっと会うこともないよ」
タローはタバコを急いで吸い終えるとビールを一気に飲み干した。そして、
「僕はセックスしない」と呟いた。
「えっ?」意外な言葉をタローの口から聞いて動揺した。ピザから大きなマッシュルームが紙皿に落ちた。
「僕のタマは幼い頃に吹き飛んでどこかへ行ってしまったからね」
タマと聞いても僕にはピンとくるものが無く、猫とか?と聞き返してしまった。
「キンタマさ。睾丸だよ。何が起きたかは全く覚えていない。幼い頃のことだからね。ただ僕が気づいた時には、君にもぶら下がっているものはもう無かったよ」
こんな話を今まで一度も聞いたことが無かった僕は、驚き絶句してしまい申し訳無く思った。友達として言葉をかけたいが、整理するのに時間がかかってしまった。
「僕は一六の頃までホームスクーリングで育ったんだ。常に母が家で勉強を教えてくれた。日本語が喋れるのもそのおかげだよ。周りに遊ぶ友達なんていなかったし、僕のキンタマを指摘するやつもいなかったね」
「比べる人間がいなかった?」僕は彼に質問していた。
「まあね。母は一人で僕を育てていたからね、余計なお金をかけたく無かったのかもしれない」彼の壮絶な人生を垣間見た気がして、僕はただビールを飲むことしかできなかった。
「初めはとても戸惑ったよ。他人とコミュニケーションが取れずによく一人でいた。群れて気を使うのにうんざりもした。そんなある日、僕は自分が他者とは違うことに気づいた。あれは確か、男四人で集まってアダルトビデオを見ている時だった。僕は初めて見たセックスに興味があったし嫌悪感も少しあった。それを見ていると、テレビの中で腰を必死に振り、女性にペニスを舐められている男性の性器は、僕が知っているものとは違っていたんだ。ペニスの下には大きな袋が垂れ下がり、中に何か入っているみたいにコンコンと揺れている。衝撃だったよ」
そう言ってタローは二本目のビールを一気に飲み干すと、ペパロニを一口かじりタバコに火をつけた。彼の額は油で光り、タバコの煙の奥の方でゆらゆらと時折輝いていた。
「それからね、一度仲の良い女の子といい感じになってね。彼女はゆっくりと舌を僕の舌と絡ませて、手を少しずつ僕の股間の方に下ろしてくんだ。彼女の唾液をたくさん吸って変な気持ちになっていた僕は、突然彼女が僕のズボンとパンツを下ろしたことにすぐには気づかなかった。彼女はね、僕の普段より膨れ上がったペニスを見て絶叫したよ。怖いものでも見てしまったみたいにね。数秒か、数分か経ったあと彼女は、きもい、とだけ言ってどこかへ行ったよ」タローは悲しそうにそう呟いた。
「酷い話だ」
「まあね。それからも数回セックスを試みたよ。だけどね、怖いんだ。自分をさらけ出した時に、相手に拒否されることがね。自分を否定された時の痛みを知ってしまうと、その苦痛から逃げるようになってしまった。溶けるようなキスをして興奮してもね、結局はそこまでなんだ。僕はそれ以上何もできない。不自由なもんだよ」
僕ならタローに、全てを打ち明けることができるだろうか? そんなことを考えていた。他人を恐れ、孤独を求めて苦しんでいるんだ、と彼に打ち明けることができるだろうか。思いを巡らせてみると、答えは「まだ、できない」、のような気がする。タローは僕よりも強く生きていた。己と向き合い苦しみぬいた末にたどり着く場所に至っていた。僕は、こんな勇気ある行動を友人に見せられても、殻を破ることはできなかったのだ。心に問題や病気があることは、タローのそれとは別物の気がした。歪んだ僕の思考では、大人になってから発症した心の問題は、自分の弱さに直結し、社会や他者から非難の対象になるべきだ、と的外れな価値観に縛られていたのだ。
タローは続けて話してくれた。「他人が僕を見れば特に変わりない普通の人間さ。外見はさ。だけどね、一度衣服を脱ぎ捨て、自然に還ると僕の不自由さが姿を現すんだ。その状況で僕はありありと思い知らされるのさ、他人とは違うってことをね。僕のこの不自由さを理解してくれって最初は怒りが湧いたよ。生まれた時から不自由さを兼ね備えて生きてきた僕にとって、この状況はなんら不思議なことでは無かったからね。安いお菓子のオマケみたいに、有無を言わさずに僕には玉無しがついて回ってきた。不公平な世界だと思ったよ」
タローの言葉を聞いて、僕は、ただ純粋に、タローのことがかっこいいと思った。ヘラヘラとふざけているようにも見えるが、自分の人生を変えてしまった悩みを、他人に打ち明けるのは勇気のいることだと僕は知っていた。彼はきっと、自分と幾度となく向き合いそして語り合ってきたのだろう。それはとても辛い作業のはずなのに。ここまでの域に至るには、懸命な努力を伴いながら達したのだろう。
タローはまだ話してくれた。「高校の時は自分を理解できずに苦しんだよ。自分を受け入れようとしても簡単なことでは無かったさ。だけどね、他人に怒りをぶつけても仕方ないと気づいたのさ。彼ら彼女らは、僕の不自由さに気がついて、生き辛い人生を送ることなんて無い。他人は自身の人生を懸命に生きてる、僕の不自由さを心配なんてしないってね。相手に僕の不自由さを理解しろ、というのも無理な話だ。だって相手は僕の苦しみや悩みを実際に経験なんてしたこともない。その時に思ったよ、僕は僕の人生を進んでいけばいいんだ、ってね。こんな風に思えたのはつい最近のことだけどね」
タローは口早にそう話し終えると、もう一枚のピザを口に押し込み、「ブルワリーに行こう」と僕を強引に店の外へ連れ出した。
彼が云うブルワリーはピザ屋から歩いて二ブロックとすぐの所だった。銀色に輝くタンクが店の奥に何十本も見える。カウンターには銘柄が記された細長い管が注文を待っているみたいに、ひっそりと並べられている。
「さあ、飲もうか」タローはカウンターに近寄ると、店員の男とハグをし、握手していた。「よおー、タロー。元気だったか?」派手な緑色の坊主頭の男は、ダイダイのティーシャツを着てピンクのマ二キュアをしていた。
「やあ。ジャック。いつもと変わらないさ。会えて嬉しいよ。とりあえず飲み比べを二つもらおうかな。今日は僕の友達と来たのさ」
「すぐ持ってくよ。テーブルで楽しんどいてくれ。やあよろしくね」ジャックは僕に白い歯を見せ挨拶すると、手際よくビールを注ぎ出した。
「よく来るの?」と尋ねると、「ああ。僕の行きつけさ。気分が悪い時なんかはよくここに来てみんなと話すんだ」と、ため息をつきながら答えていた。「みんな?」僕が不思議に思い次を尋ねようとした時、ジャックがビールを両手に運んできた。「お待ちー。飲み比べ五種盛りね」五つのグラスがトレイの上に並べられている。右から左に流れるにつれてビールの色は綺麗な黄色から毒々しい黒ビールに移り、まるで理科の実験で見た変色反応を一度に見ているようだった。
「ここの店員さんはね、みんなLGBTQに関わる人なんだ。ジャックはゲイさ。おしゃべりが好きなサブリナはレズビアンで、向こうで男性の手を握って目を見つめてるのはアリーサ。彼女はもともと男性だった。客もそうだ。今ジャックと話してるのはデイビットさ。彼はジャックのことが好き」
店を見渡してみた。誰一人として、僕のように卑屈そうな人間は見当たらなかった。
タローは、ここにくると落ち着く、と言っていた。「ここにいる誰しもが辛い過去を持っていることを僕は知っている。時には社会から差別され、仲間から攻撃もされたんだ。でもこうして堂々と自分らしく生きている。みんなが自信に満ち溢れているだろう。そんな人間を見てしまったらさ、僕にも希望が湧いてくるのさ。今の自分と向き合って生きていかなくちゃ、ってね」
僕はいつの間にか拳を握りしめ、掌の中は汗で濡れていた。
タローは続けて言った。「僕は一度、不自由さを感じて自分を見失ってしまった。「知らぬが仏」ってやつさ。だけどね、知ったことで僕はさらに自分を理解できるようになったのさ。「知は力なり」ってことだよ。彼ら彼女らみたいにね、楽しく生きたほうが絶対に良い。自分を受け入れた人間は強いのさ」
その晩はとにかく二人で飲んだ。タローは五種盛りを二つとビールを六杯飲んで顔が少し赤くなっていた。僕は五種盛りの真ん中まで来て一回吐き、そして黒ビールを飲みきってもう一度吐いた。その間にもタローの周りにはたくさんの人が来てハグや握手を交わしていた。タローは全員と同じ笑顔で優しく接していた。そんなタローたちを見て、僕もまたここにタローと来よう、と思った。
トントンという微かに響く音で目が醒めると、僕はタローの車の中にいた。時刻は十一時五十五分。昼からの授業はスキップだ。フロントガラスに雨が跳ね返る音に耳を澄ますと、その不規則なリズムが心地よかった。タローはなぜか上半身裸でシートの上に寝ている。タローの股間を見てみると、ズボンの上からは、そこには大きなペニスとキンタマがあるのだろう、と不自然さは感じない。正面を向くと、水滴がフロントガラスを覆い前がよく見えない。斜め上には太陽らしきものが光っている。タローが起きたら、ワイパーをかけて貰おう、そうすればきっとどこまで見えるはずだ。そんなことを考え、僕はまた目を瞑った。


もう一人の子はタローとは正反対の、無口で冷たい女の子だった。常に教授の前に座り熱心に授業を受ける彼女は、僕が視線を送っても冷たい目つきで一瞥しどこか行ってしまう。
タローと仲良くなってからのこと。彼は相変わらず「ハイ、アイムタロー」と彼女に握手を求めていた。すると彼女は笑顔で「ヘイ、アイムナナ」と綺麗な英語で彼と話し始めた。「日本の方ですか?」続け様に僕が彼女にそう尋ねてみると、またあの目で「そうです」と言い、タローと英語で話し始めた。
「はるです。今年で二年目。それと今年で二十一歳。よろしく」僕が無理に話しかけてみると、「ななみです。私も。よろしく」何が「私も」なのかわからなかったが、彼女はそう言い終えると「シィーユーガイズ」と行ってどこかへ行ってしまった。彼女の素っ気無さに、僕は地面を一度蹴る仕草をタローに見せた。タローと一緒にいるから気が大きくなったのか、クラスメイトとして気安く話しかけてしまったのか、普段の僕なら絶対することの無い行動をしたことに驚き、そして傷ついていることを自覚して困惑していた。タローは「なんだか面白い子だね。でも彼女の英語はとても上手だった」と笑っていた。
ゲンさんにこの話をすると、「あーナナミちゃんね。あの子可愛いから最初は俺らの周りで人気あったんだよ。何人かナナミちゃんに告白して綺麗に木っ端微塵だ。クール過ぎるというか、誰も近寄らせない雰囲気があって今では陰口叩かれてるんだよな」
ゲンさんによると、彼女は日本人とはあまり群れずに、外国人の友達といるらしいが、ほとんど遊ばないらしい。僕からしてみれば芯の通った子だ、と感心するが日本の大学生や他の子たちからは、いけ好かない奴と思われても仕方ない。さらに自分のことをベルと名乗ったり、アメリカの女の子がするような服装・メイクをしているのが鼻に付くらしい。
「ナナミ、おはよう」
「どうも」
こんなやりとりだけで彼女と会話をできずにクラスは終わった。同じ日本人としてフレンドリーに話しかけているのに、彼女は頑なに会話を拒んだ。僕がなぜここまで執拗に話しかけるのか、自分でも理解できなかった。ゲンさんの話を聞いた後、僕は彼女が何を考え生きているのか興味を抱いていた気がする。僕はまだ弱い人間だったので、異国の地でも一人で生きていくことに自信が無かった。ゲンさんによって開かれた、母国語を介したパーティにも楽しさを覚え、勉強をサボってまで息抜きの為に足を運んでいた。穏やかな波に一度心地よさを覚えると、僕はそこから抜けられずに流されるままであった。それは自分が勇気を持って、別の世界に足を踏み入れたからこそ気づいた場所であったが、同時に自分の弱さでもあることに気づいた。ナナミは強い女性のようにみえた。それは村上さんや母さんのように信念を持ち合わせ、己を持っているように見えたからだ。彼女が感じている「痛み」や「苦痛」を理解できる気がして、そう考えると目が離せなくなっていた。
「気にすることはないよ。きっと少し気が荒ぶってるだけさ」タローはヘラヘラしていて、特に気にしている様子もなかった。彼は空を見上げながら「それより今日もブルワリーに行かない?」と言っている。僕は、いいね、とだけ返事をした。

シアトルに記録的な寒波が押し寄せ、雨の街には珍しい大雪が降っていた。二年弱シアトルにいるが、雪が降る街を見たのは初めてのことで、綺麗な街だと改めて感じたのだった。積雪十センチはあるスノーフレークの塊は、道路を覆い真っ白な世界を作り上げていた。
クリスマスイブの夕方。僕はゲンさんと一緒に、ホストファミリーに初めての挨拶を兼ねて夕食に誘われていた。ゲンさんのホストファミリーは、シアトルから離れた郊外の静かな住宅地にある、一軒家に住んでいた。屋根は薄い青色でドアはブライトピンクと印象的な家だった。ドアまでは石段を九段ほど上がる。その脇にはチューリップがたくさん植えてあった。
ゲンさんが鍵を回してドアを開けると、30歳前半くらいか若い白人の女性が出迎えてくれた。「ソフィアです」と名乗るその女性は次に、「クック家へようこそ」と握手を求めてきた。髪の毛は綺麗な金色をしており、目は綺麗なブルーとグリーンの中間くらいの色をしていた。
「お母さんのソフィア。ソフィア、はるだよ」
「はる。ゲンから聞いていたわ。さあ入って。ルーカス! カイルとノアも」
ソフィアがそう呼びかけると、奥のキッチンから背の高い男性と、その後ろに両親そっくりの兄弟が二人出てきた。ルーカスという男性は僕よりも身長が高く百八十センチ前半はある。彼も綺麗な瞳をしていた。年齢はソフィアと同じくらいとまだ若く、この家からはどこか漲るパワーを全身で感じていた。
「やあ。はるだね。ルーカスです。よろしく」柔らかく握られたその手からは、彼の優しい人柄が滲み出ていた。「カイル。ノア。おいで。はるだよ。ゲンのお友達だ。今日はみんなでご飯を食べるよ。さあ、挨拶しようか」、ルーカスが二人の手を引いて僕の前まで連れてきた。
「カイルです。五歳です」綺麗なブロンドの髪を持つカイルは恥ずかしそうにしている。「ノア。三歳」まだたどたどしく英語を話すノアも綺麗なブロンドを持つ男の子だ。
「さあ。まずはご飯を食べましょう。みんな手を洗ってキッチンに来てね」ソフィアがそう声を掛けると、二人の兄弟がまずトイレに競争するように駆け込んで行った。「ヘイ。ノアカモーン」先を走る兄の後を、ドタドタと大きな音を立てながら、ぎこちなく追いかける弟の姿を見てなんだかニヤけてしまった。
食卓にはミックスベジタブルにチキンのソテー、ライスクッカーが置いてあった。そしてカツオとタマゴのふりかけに気づき、ゲンさんに微笑みかけてしまった。この家族は僕たちに親切であった。一人ずつ一枚の皿にスプーンとフォークが置いてある。子供達のお皿はキャラクターが描いてあるプラスチックのものだ。全員が席に着きご飯を食べ始めると、まるで中華の回転テーブルみたいに、料理を横に回しながら一品ずつ皿によそっていく。
弟のノアはチキンを貰うと手で食べ始めて、ソフィアに注意されていた。ノアの手も服もソースでベタベタだ。カイルはチキンも野菜も食べたくないと拗ねている。子供の面倒を見ながらも、ソフィアとルーカスは僕たちに色々と話しかけてくれた。賑やかで楽しい食事が久しぶりに感じる。前の家では、いつも電子レンジで温めて一人で食べていた。遠い昔を懐かしむような、笑っているのに涙が垂れてきそうだった。
お土産にチーズケーキファクトリーのワンホールを渡すと、「それじゃいま食べましょう」とソフィアが切り分けてくれた。カイルとノアは大はしゃぎだった。キッチンからリビングに行き、大声を出しながらソファーの上でぴょんぴょん飛び跳ねている。六人で食べるには大きすぎたのか、一人分が異様に大きくなってしまった甘すぎるケーキは、とびきり美味しいケーキに思えた。
その次の日も夕食に誘われた。セレス家に涙の別れをしたのが今日の朝のこと。雪が積もる冷たい風の日の別れというのは、なんだか目頭を熱くさせ涙を誘発した。
クリスマス当日は、家の中に大きなクリスマスツリーが綺麗な電飾とともに飾られてあり、その足元にはたくさんのプレゼントが置いてある。僕が家に入った瞬間からカイルとノアは大騒ぎだった。ソファーの上で暴れまわり「はるウゥー。はるうぅー」と歌でも唄っているみたいに、変な出迎えられ方に、少し仲良くなれた気がして照れてしまう。
「ソフィア。ルーカス。これ、日本にいる僕の家族からこの家にお土産です」
「あら、ありがとう。何かしら」兄弟がソフィアの手から包みを奪い取り、綺麗に包装されたラッピングをビリビリに破いて中身を確認する。中には四人分の浴衣が入っていた。僕が「これは浴衣です。日本では夏に着たりする伝統的な衣服です」と説明すると、「綺麗ねえ。ルーカス、今着てみない?」とソフィアはカイルとノアに浴衣を着せ始めた。
「どうこれ?」浴衣を不恰好に着た四人家族はとても輝いていた。僕らはそのまま夕飯を食べた。クリスマスの夜に、ブロンドの綺麗な髪を持つ家族が浴衣を着て、ラザニアを食べている。日本人の僕は、紺のスーツを着てネクタイまでしているのに。カオスな空間だな、と思ったが、素敵な家族だな、とも思い全身が震えていた。僕は必死にラザニアを頬張り、口にケチャップをつけながら、「これすごく美味しいです」と唸っていたのだ。すると「クック家へようこそ」と、ソフィアが微笑みながら言ってきた。横にいるルーカスも笑って合図をくれた。僕は「ありがとうございます」とだけ伝えることができたのだった。


「ハッピイースター。アアーーー」
お腹に強い衝撃があった。誰かの大声で目を覚まし、僕は上半身をサッとベットから起こすと、「はるううー」カイルとノアが僕に乗っかりいつものごとく騒いでいた。ソフィアが「ソーリー」とドアの前でにやけながら立っている。
「はるうう。今日はイースターよ。お昼から教会に行くからまずは朝ごはんを食べちゃいましょう」そうソフィアが言うと、「パンケェーエークゥー」カイルとノアが叫びながら僕の部屋を出て行った。嵐が去っていたのだ。
「パンケーキを焼いたのよ。下に行って食べましょ」
テーブルにはクック家がすでに着席しており、「ソーリー」と言い僕も席に着く。
「それじゃ、プレイをして、食べようか」ルーカスがそう言うと、僕たちはみんなで手を繋ぎゆっくりと目を瞑る。プレイとはお祈りのことだ。クック家はクリスチャンで、食べる前に毎回お祈りをするのが決まりだった。僕はこのお祈りも好きだった。あれだけ騒いでいた兄弟もこの時間は静かに目をつむりお祈りをする。僕は両隣に座るカイルとノアの手を優しく握って、彼らの体温を感じ取っていた。
お祈りが終わると、飛びつくように兄弟二人がパンケーキの山に食らいついた。ノアはソフィアに小さく切り分けてもらった後、たっぷりのメープルシロップをつけて手で食べている。ノアのそれはもはや、シロップを食べるだけの口実にも見え、微笑ましかった。
朝食が終わると、僕はシャワーを浴び、教会に行く為に準備をしていた。また紺のスーツを着てリビングで兄弟二人と真剣にじゃれ合う。彼らと遊んでいる間にソフィアやルーカスが準備をできればいいなと思い、最近はよくそうしていた。ちなみにカイルのパンチは強烈で、一回みぞおちに入り僕は本気で涙目になった。
教会内はいつもより騒がしく、子供達が走り回っていた。イースターの日はエッグハントが行われていて、子供達は教会内に隠された卵やお菓子を探すのに必死だ。
僕が廊下を歩いていると、カイルとノアが横を走って通り過ぎて行った。カイルは必死の形相で、ノアの手を握って引っ張っていたのだ。ふと、れんと公園でこんな遊びをしていたな、と思い出しニヤケてしまった。
「はる。そろそろサービスが始まるよ」ルーカスが僕を見つけ声を掛けてくれた。
「ルーカスはどんなことをお祈りしてるの?」そんなことを急に思い質問してしまった。
「家族のことだよ。この幸せがいつまでも続きますように、って。僕は家族が幸せでいてくれればそれでいい」恥ずかしそうに白い歯を見せながら言ったルーカスは、とてもかっこよく見えた。穏やかに、静かに子供達を見守るルーカスの姿を思い浮かべ、素敵な大人のお父さんだな、と勝手に頷いてしまう。
一通りのプログラムが終わると、各々が知り合いや近くにいる人と雑談を始める。ドーナッツやコーヒーなどが振る舞われ皆が社交的な時間を過ごしている。こういった関係はいいものだなあ、と遠目から孫を見守る祖父みたいな目をしてしまう。この土地ならではのコミュニケーションであり、コミュニティーを通じてお互いを想い合う習慣があるのだ。人との繋がりを感じることで、己の中に意味を見つけ出そうとしている彼ら彼女らは、強く尊い存在のように僕の目には映っていた。


シアトルで生活を始めて三十ヶ月が経った。六月十六日の今日は、真っ白な雲と青い空が綺麗な色合いを魅せる晴れた日だった。僕は今日、二年半通ったカレッジを卒業する。
卒業式の当日はいつにもまして騒がしく感じた。朝、僕がキッチンに行くとカイルが「はるううぅー」とプラスチックのお皿をフォークでバンバンと叩きながら出迎えてくれた。ソフィアにクリームチーズがたっぷり塗られたベーグルをお皿に乗っけてもらうと、「ベーゴーーオ」と騒ぎながら口一杯に白い塊をつけ、美味しそうに食べていた。ノアはまだ眠そうだ。ソフィアの腕の中で半目でまどろんでいる。チェリオスと牛乳が入った小さなボウルがノアの前の置かれると、彼は手を牛乳に突っ込んで、小さな輪っかを懸命に口に運ぼうとしていたが、ソフィアに怒られていた。
「はるうぅ。グッドモーニング。気分はどう? 今日の卒業式にはみんなで行くからね」朝から大忙しのソフィアは笑顔で僕にそう伝えてくれた。兄弟二人が去った後のテーブルは、まるで突風が吹き去った後みたいに、牛乳やチーズまみれで散乱している。ソフィアはいつも丁寧に掃除をした後に、僕と朝食を一緒に食べてくれるのだ。今ではまるで自分の家にいるみたいに、ソフィアとの時間は心を落ち着かせてくれる、幸せな時間となっていた。
昼頃にソフィアが部屋をノックしてきた。「はるうぅー、一緒にお昼を食べない?」その後に大きな声で兄弟二人が「はるううーごはーん」と笑いながら叫んだ。「オーケー。ツーミニッツ。センキュー」と僕も大声で、やまびこが響き帰るみたいに叫んで返事をした。
昼食は昨晩の残り物、つまりレフトオーバーだ。僕はこの習慣が大好きだった。タッパに入ったラザニアやカレー、インゲン豆の茹でたやつや豆腐サラダ。各自が好きなものを取ってまるでバイキングのように。兄弟二人は大好きなピーナッツバタージェリーサンドを、口の周りを汚しながら頬張っている。テーブルを叩き合って笑い合う兄弟を眺めながら、僕は噛みしめるように咀嚼した。時折網戸から入る風が心地よい。シアトルの晴れた空は、僕の心を真っ白に洗浄してくれる。ソフィアがニコッと笑いかけてくれると、僕もつい顔が綻びてしまう。雲が青空を流れるみたいに、穏やかな時間が僕の周りにはあった。
「そろそろ行ってくるよ。ソフィア、また後でね」
「行ってらっしゃい。私たちも後で行くから」
「ありがとう」と伝えた。そういえば最近よく「ありがとう」と口にするなと考えながら、僕は紺のスーツにグレーの水玉ネクタイをして家を出た。手にはアメリカの卒業式でよく見る黒のガウンと、色紙が上に乗ったような変な帽子を携えて。
卒業式はとにかく楽しかった。たくさんの人と会い、たくさんの写真を撮った。
「はるうう。せーので一斉に投げるのよ」シルビアがそう言って「せーの」と言った。僕は手に持っていた帽子を誰よりも空高くに放り投げた。シルビアやアンドレ、ピュウーも同じくらいの高さまで帽子を投げる。留学生活での苦悩や喜びなんかのすべてを、みんながこの帽子に想いを込めて高く放り投げた。毎日が苦しくて逃げ出したいと感じ、日本に帰って母さんの料理を食べながら、ベットの上でうずくまってたいと願ったこともあった。心が折れそうになるほど辛い経験もしたが、逃げずにここまできたことを今では嬉しく思う。自分を誇れるとさえ感じている。全ての物語は結果論でしかないが、僕はパニックになった経験を肯定しようとしていた。あの経験をしなければ、きっと僕はいまここにいないだろう。他人の評価だけに左右されながら、傲慢で主観的な自信をさらに磨き上げていたかもしれない。あの苦しみを経験したからこそ、自分の弱さと向き合い、己を知ることができた先には、これだけの友人や家族と出会うことができたのだ。これは結果論に過ぎない。しかし結果として「その瞬間を懸命に生きた」からこそ、僕はシアトルで成長できた。もしシアトルに来たとしても、もしくはどの場所でもそうだが、自分の弱さを知らない自信過剰な状態であったのなら、僕は打ちのめされすぐに帰国していただろう。タラレバの話だ。実際は知らない話だが、つまり、僕は成長していた。
「はるうう。今日で卒業だね。とてもいい学校だったよ」タローが言った。
「そうだね。君とは本当によく遊んだよ。素敵な思い出ばかりだ。ありがとう」僕たちは硬い握手を交わし、お互い強く抱き合って最高のハグをした。タローは泣いていた。こいつと出会えてよかった、と本当に嬉しくて悲しくて僕も泣いた。
「ナナミ。卒業おめでとう。そしてこれからも同じ学校だ。よろしく」
「えっ? あんたも受かってたの?」
そうさ、と僕は自信いっぱいに言った。
いつ話しかけても無視をするぶっきらぼうな彼女が、今日だけは写真を撮ってくれた。記念だから、と遠くを見ながら気のなさそうに言っていたが、僕はそれだけで嬉しかった。彼女は成績優秀者として表彰をされていた。二年間、彼女は本当に勉強だけを頑張り、そして強く生きていた。そんな彼女を間近で見ていたからこそ、僕は彼女を誇らしく感じていた。写真を撮る際に、いつものように腰に手を回してみると、彼女はそれをすんなりと受け入れてくれた。アメリカの友人が多いナナミは、こういったことにももう慣れているのだろうと凄みをまた感じたのだった。
「ヘーイ。はるうぅ。卒業おめでとう」ソフィアとルーカスがハグをしてくれた。ソフィアは「これははるの為に作ったの」とピンクや黄色、青や赤の綺麗な花冠を手渡してくれた。僕はその花冠を誇らしい気持ちで被ると、両親の間に立った。僕の前にはカイルとノアが立っている。ナナミが「メイクアファニーフェイス」と言うので、みんなが変な顔をして記念写真を撮った。僕は白目を向いている。ソフィアは口を尖らせひょっとこ顔だ。ルーカスは歯をむき出してドラキュラのつもりだろうか。兄弟二人はカメラを見ずに二人で笑いあっていた。
辛いことも苦しいこともあったが、今思うと経験してよかったと思える。この為に今までがあったのなら頑張ってきてよかった。僕は家族に向かって笑顔で言った。
「ありがとう」、と。


「今日、無事に卒業することができました。そして村上さんと同じ大学に編入できることが決まりました」僕はその夜、村上さんに久しぶりに連絡をした。
返信が三日後や既読スルーが当たり前になっていた僕は、前回の村上さんへの返信を忘れていたので、連絡するのに少し気持ちが重かった。しかし不安を吹き飛ばすようにすぐに、「よかった。頑張ったね。おめでとう」と、文面色鮮やかに、絵文字付きで返信がきた。
「僕がここまでやってこられたのは村上さんのおかげです。ありがとうございます」
村上さんの言葉には力がある。それは僕の感情を揺さぶり、前を向かせてくれる。
母さんにも「ありがとう」とメールを打っておいた。ここに今、僕がいるのはあの時手を引っ張ってくれた母さんのおかげなのだから。


「トリックオアトリート」
ドアをバンバンと叩かれ開けてみると、そこには小さなドラキュラと、可愛らしい魔女の兄妹らしき二人が笑顔で立っていた。僕は「どうぞ」と、バケツに大量に入っているお菓子をいくつか渡す。僕たちが住む住宅地は、小さな子供を持つ家庭が多く、たくさんのいたずらっ子が夜道を徘徊していた。
「さっ、カイル、ノア。準備はいい?」ソフィアが彼らにそう尋ねると、「早くー」と腕をブンブンと振り回し地団駄踏んでいる。カイルは頭の上にピョンと伸びた目を持つ青の怪獣で、ノアは緑のティーレックスだ。どちらの衣装もこの日の為に、ソフィアが時間をかけて作った手作りで、僕は感動している。毎朝早くに起きて、キッチンで衣装を作っていたソフィアを見てきたからだ。目の下にはクマを作り、今までの寝不足が明らかだったが、今日のソフィアも兄弟二人と手を繋ぎ、元気に夜道を闊歩していた。
「ソフィアはすごいね。パワフルですごいお母さんだよ」後ろをついて歩く僕が、横にいるルーカスにそう言うと、「ソフィアは学生の頃から、本当に子供を欲しがっていたからね。きっと今が幸せなんだよ。そんな三人を見ていると僕まで幸せさ」
「素敵だよ」と僕が呟くと、「本当だねえ」とルーカスは遠くを見るように呟いていた。
バケツいっぱいにお菓子を持って、満足そうに帰ってきた兄弟は興奮しているのか、ソファーでピョンと飛び跳ねながらチョコに貪りついている。
「オッケーみんな。今日はムービーナイトよ。各自キッチンからピザと飲み物を持ってリビングに集合ね」ソフィアがそう言った。クック家では月に一回ムービーナイトをやるのが決まりだった。リビングに大きなブランケットを広げ、その上でピザを食べながら映画を観る。映画は兄弟二人が見たいもので大抵はアニメなどだ。カイルとノアは両手でお皿を大事そうに持ってくると、テレビの目の前にいつも陣取る。彼らはいつも真剣な表情で、ピザを食べることを忘れて、映画に没頭している姿がなんとも可愛いのだ。
僕は慎ましく右端の後ろ隅にちょこんと座る。僕の斜め前にはルーカスとソフィアが肩を並べて座っている。二人が腰に手を回し、仲睦まじい光景を眺めるのが、ピザと映画によく合うのだ。まるで超高層ビルの最上階で、光り輝く夜景を見ながらディナーを食べているみたいに、僕は幸せを掴んでしまった、と錯覚してしまう。二十二歳が僕の人生のピークなのではないか、と思えるぐらいにちょっとした日常の光景に胸をときめかせ感慨に浸っていた。ノアが眠そうにソフィアの腕の中に入って行った。僕も眠たい目を必死にこすって、この光景を脳裏に焼き付けようとした。もし目を瞑ってしまったら、次に目を開けた時には、この光景をもう見られない気がしたのだ。

  ※

ハロウインの一ヶ月前、僕は大学に正式に編入していた。九月の終わりともなると雨の時期を匂わせ始めるが、それでもまだ心地の良い日が数日は続くはずだ。なぜ日本の夏はあれほどまでに暑いのか不自然に感じるほど、湿度は低くカラッとしていた。僕は汗一つかくこともなく、広いキャンパス内を歩き回っていた。太陽が頭上で気持ちよく輝いているが、まるでそれは置き物みたいに暑さを感じさせず、ただ真っ青な空を強調し、心地よい風を僕たちに届けてくれた。
僕が編入先のオリエンテーションで、キャンパス内を一人で迷いながら歩いていると 「あんた、いまどこにいるの?」とナナミから連絡があった。「図書館を覗いている」と返信すると、「今すぐカフェテリアに来て」と言われた。来て、と言っているが、「来い」という強い命令口調で話す彼女の姿が思い浮かぶ。彼女も寂しがっているのかと考え、そんな人間では無い、と呆れて苦笑した。
カフェテリアに着くと、デニムのショートパンツにノースリーブ姿のナナミを見つけた。「ナナミー」と遠くにいる彼女に呼びかけると、彼女は誰かと一緒に居た。ナナミと同じくらいの身長をした女性は、軽やかな紫のロングスカートに、紺のノースリーブ姿で、まるでモデルのような服装だ。お洒落な、といってもそれはどこか日本っぽくて、アメリカ生活が長くなっていた僕には、少し浮いてるなあ、という印象だった。
「呼び出してごめんね。この子とはオリエンテーションで会ったの」とナナミが言って、僕が「初めまして、はるです」と名乗ると、その女性は「はるくん」と、まるで旧知の友人であったみたいに話しかけてきた。僕は、本当に、一瞬誰なのか理解していなかった。しかし、彼女が纏う小動物のような健気な雰囲気や、上目遣いで僕を見つめるその視線、そしてその白く柔らかそうな手肌を見て、やっと分かった。
「野崎?」
「うん! はるくん、久しぶりだね」
「ええ。どうして? なんで野崎がここに。どうしてナナミと?」僕は期末試験前くらいに、脳内キャパシティが振り切れてパニックだった。
「だから、さっき会ったって言ったでしょ。何を聞いてたの? リンカがあんたと知り合いって言うから連絡したのよ」ナナミがそう言うと、野崎は整った白い歯を見せながら、綺麗に笑っていた。少し身長が伸びただろうか? そんな気がした。昔と変わらずあの優しさに包まれたような、可憐な雰囲気は変わっていないが、どこか大人びた彼女はもう、高校時代の面影はあまりなかった。それは綺麗に染まっている髪の毛の印象なのか、または服装やメイクなのかもしれない。
「野崎、久しぶりだね」何を話せばいいか分からず、視線があっちこっちと泳ぐ。野崎は、「これから半年間、この学校で勉強するの」と僕に言うと、よろしくね、はるくん、と無邪気に笑っていた。僕は、あぁ、と言うだけであたふたしてしまい、そんな僕に気づいたのか、「とりあえずお昼でも食べない?」とナナミが言った。「そうだね」と野崎も同調するので、三人でフレンチフライとバーガーを食べた。
授業が本格的に始まりだしてからも、野崎は僕に適度に連絡をくれた。そして、僕以上にナナミに懐いていた。怖いもの知らずの小動物は、その可愛さを存分に発揮して、百獣の王の懐にまで忍び込もうとしていたのだ。野崎と一緒にいるナナミは、普段見かけない笑顔で、爽やかそうに話していたのは意外だった。
「はるくん、今からお昼食べようと思うんだけど、一緒に食べない?」
カフェテリアに着くと、すぐに野崎を見つけることができた。手を膝に置いて小さく椅子にのっていた。「ごめんね。お待たせ」と僕が声を掛けると、「今来たところだよ」と微笑んでいた。僕が遠くでトレイにフライをのせているナナミを見つけ、「ナナミー」と大声で呼びかけると、彼女は僕たちに気づいて近くに来た。「なんで呼ぶの? そんな大声で」近くまで来るなりいきなり僕に怒鳴りつけてくると、「おはよう、リンカ」と優しい声色で話しかけていた。
「いや、見かけたからさ。呼ぶでしょ。普通」と僕が答えると、「呼ばないで。普通に」と顔色ひとつ変えずに淡々と言うのだった。「まあまあ。ナナミちゃんも落ち着いて。みんなでお昼食べようよ、ね。」そう言ってナナミの手を握り、席に座らせる野崎の指先は、冷たそうに細く白かった。そして、「わたしシアトルを観光したい」と野崎がそう呟いていた。


週末の午後から、僕たちはまずパイクプレイスマーケットに向かった。天気は快晴。行きのバスからは、くっきりと岩肌の凹凸感まで分かるくらいに、マウントレーニアが雪を被りトレッカーを待っているかのように見えた。
週末のパイクプレイスは人だらけだ。路面に店を構えるどの店も、長蛇の列が出来上がっている。そして横を歩く野崎は、それらの列に片っ端から並んでやるぞ、と意気込んでいる様子だった。「あのヨーグルト食べたい」「あのチョコがかかったりんご飴も」「あー、バナナジュースもある」「ここのピロシキ有名なんだよね?」買いすぎじゃないか、と僕が浮かれる野崎にやんわりと言ってみるが、彼女は聞く耳を持たない。野崎の無邪気さを見ていると、始めてここに訪れた日のことを思い出す。僕も野崎に負けず長時間買い物をしていた。人混みに怯え、街並みに圧倒されながらも、僕を掻き立てる冒険心や好奇心が勝っていたのだ。友人に会えた喜びと同時に、過去の自分の姿を思い浮かべると、今では見飽きてしまったパイクプレイスの街並みに、僕もシアトルの生活に慣れてきたのだ、と感慨に耽るのだった。
ナナミと一緒に買ったヨーグルトを食べてる野崎の側には、食べ物がまだたくさん置いてある。「ナナミ、一口ちょうだいよ」そう僕が尋ねると、「やだ。自分で買いなさいよ。なんであんたにあげなくちゃいけないの」と、恐ろしく拒否された。二人の会話を横で聞いていた野崎は慎ましく微笑んでいる。「はは。はるくんわたしのあげるよ。はい、あーん」甘酸っぱいストロベリー味のそれが、鼻にすうーっと抜けて爽快な味わいだった。野崎は「リンカは甘いよ」とナナミに怒られていた。
「わたし、スタバの一号店にも行きたい。お母さんにマグカップ買ってきてって頼まれてるんだ」野崎はそう言うが、僕は、「いやでも、あの列」と、芝生から遠目に見ても、長い列が伸びているのがわかる。その長い列は蛇というよりかは、真っ直ぐにどこまでも伸びる、猫の尻尾みたいだった。
「行こうよ。せっかくだしさ」ナナミがそう言うので、僕は仕方なく最後尾についた。スタバの店先では路上パフォーマンスが行われており、口にハーモニカ体にタンバリンをつけ、ギターを弾くピエロが喝采を浴びている。僕はこの列に我慢できなくなり「少しトイレに言ってくる」と嘘をついて、魚市場の方に向かった。

「はるは良い人よ。私に嫌味を言われても、挫けずに話しかけてくるの」
「うん。二人を見てるとなぜか面白いの。いいなあって思うよ」
「そう?」
「うん。はるくんも変わったなあって思う。逞しくなって、もっとカッコよくなった。それに明るくなった気がする」
「昔は違ったの?」
「高校の時も明るくて、話しやすくて、みんなと仲良くしてたよ。でも、本当のはるくんを見た気はしなかった。どこか壁があって、それでその壁はとても厚くて、声も通らないくらいに頑丈で」
「昔の彼は知らないけど。わたしは彼が何かと戦っている気がするの。笑顔の中にふと曇ったような表情をすることがあって、自分と常に会話しているように見えるの」
「戦っている?」
「彼も色々と考えて生きているのかもね」
「わたしは、はるくんにね、一度フラれているの」
「そっか」
「高校の頃はね、きっとはるくんの横にいる人になりたかっただけなの。カッコよくて人気者のはるくんの隣で、周りの注目が欲しかった。きっと、はるくんもそれには気づいてた。でも彼は優しいから、わたしを傷つけるような言葉を言えなくて、あの時は困らせちゃった」
「はるは優しい人よ」

店の前で一人立っていたナナミを見つけると、ピエロの横に仏頂面で、その状況がなんだか可笑しかった。彼女に一ドル札を渡したら、自然と受け取ってくれる気がして、ピエロの片割れのように見えたのだ。
「あんたさ、もっとちゃんとしなさいよ」唐突にそんな言葉を言われ、戸惑う。「何?」と尋ねると、「なんでもよ」と曖昧な返事に、ナナミのことが分からなくなった。
茶色の手提げ袋を四つも下げて、店から出てきた野崎は満足気だ。店頭で配られていた、ロリポップを美味しそうに舐めている。「次はどこに行こうか?」ナナミが尋ねたので、僕は「タローに誘われてるんだけど、どう?」と聞いてみた。
週末のキャピトルヒルはやはり騒がしく、そして生気と狂気に満ち溢れていた。
「あんたさ、何回吐けば気が済むの?」
僕は店先ですでに二回吐いていた。店内にはジャズが流れ、陽気な騒ぎ声が中から聞こえていた。近隣に立ち並ぶクラブからはアップテンポな曲が漏れている。僕たちはタローといつものブルワリーで飲んでいた。
「なんか今日はテンション上がっちゃって。野崎もいたから」
「吐いてばっかで全然良いとこ見せれてないよ。酒も弱いくせに」ナナミは僕を気遣うこともなく、グサグサと槍で突いてくるが、右手で僕の背中を優しくさすってくれていた。僕の吐瀉物にも顔色を変えずに付き合ってくれている。「はいこれ。水」と言って渡してくれたそれを胃に流し込んだ。おぼつかない足取りで店内に戻ると、「ヘイはるうぅ、もう一回五種盛り飲まない?」とタローが快活に尋ねてきて、「タローもいい加減にしなさい」とナナミに怒られていた。「はるくん、具合大丈夫?」と野崎も僕の背中をさすってくれた。野崎の手はなんだか冷たく感じ、そして心地よかった。彼女の指先一本一本に意識が集中してしまい、吐き気どころではなくなる。その日は結局もう二回吐いた。僕が店を出て行く度に、「あんたは本当にバカなの」とナナミが背中を優しくさすってくれた。野崎はタローや店の中にいる人たちと楽しそうにしている。ナナミに背中をさすられながら、僕が店内を覗いてみると、野崎と目が一瞬合った。口元には笑みを残し、楽しそうにしているが、僕と目が合った時の野崎はどこか悲しそうに見え、あの冬の頃の顔つきを思い出した。


野崎は、小学校の夏休みがあっという間に過ぎてゆくみたいに、半年という短い期間で帰国してしまった。彼女は、積もった雪がジワジワと溶けていくように、気づけば僕の前からいなくなっていた。
野崎が帰国する前の週末に、クック家で野崎のフェアウェルパーティーを開くことになった。夏頃に野崎と出会った時は、まだ軽やかな服装をしていたが、三月の肌寒い時期となると、自然と布を纏う数も増えてくる。シアトルの神様も、野崎の可憐さに懐柔されてしまったのか、三月には珍しいとても晴れた気持ちの良い日となった。クック家の広い庭ではバーベキューが行われ、肉や野菜をソフィアとナナミが焼いている。近くではタローやルーカス、兄弟二人がトランポリンの上で楽しそうにはしゃいでいて、僕と野崎は椅子に座りそんな光景をただ眺めていた。野崎からはふわりとシャンプーのいい香りがして、何も話さずともどこかで野崎とは繋がり合っている、そんな気がしてこの空間がとても心地よく感じる。しかし、野崎がいなくなってしまっても、何事もなかったようにこの幸せは僕の目の前でまだ続いていくのだ、そう考えるとなんだか苦しくなって、一度咳払いをしたくなった。
一方で、僕にも徐々に卒業の日が迫ってきていた。僕のシアトルでの生活も終わりを迎えていたのだ。一年で帰国するかもしれない、と自信の無かった少年が、今や三年も海外で生活をして、こうして友人と時間を共有していた。そして濃く長い時間だと感じていたものが、残り一年と実感すると寂しく思えた。人生を変えてくれた経験を三年の中でしたからこそ、残りの短さや大切さが想像できた。飴玉を毎日ひとつずつ缶から取り出すように、大事に一日を生きるべきだ、そう思うようになっていた。感傷に浸っていると、どこからともなく良い香りが鼻の奥を刺激してきたので、唾液が口いっぱいに広がった。そんな僕をナナミは事あるごとに呼びつけ、そしてたくさんの命令をしてきた。「あんたなんでなにもしないの? 働きなさいよ」「ちょっとこのお肉見といて」「冷蔵庫からケチャップとソース持ってきて」「リンカにお水くらい持っていきなさいよ」と。彼女は物思いに耽る時間も無いくらいに、忙しかった。
「さあ、みんな食べましょう」右頬に炭をつけたソフィアがそう言うと、僕と野崎は「いただきます」と手を合わせてみんなに感謝をした。
「ナナミ。これちょっと焼き過ぎじゃない?」僕は炭かと見間違えた肉を食べ、ナナミは「うるさい。なら食べるな。カイルとノアにいいお肉を食べてもらうの」と辛辣であった。
ルーカスとソフィアが笑い、そしてみんなもつられて笑いだす。涙なんてきっと流すはずもない、そう思える楽しいパーティーだった。
僕がナナミに命令され、彼女の横で皿を拭いていると、「ナナミちゃん、ちょっといい?」と、野崎がナナミを呼び出しどこかへ行ってしまった。取り残された僕は、二本の腕で皿洗いと皿拭きをしなければならない。しばらくしてナナミが帰ってきた。
「どうした?」と尋ねると、「なんでもないわ。それより、リンカがあなたを呼んでるわよ。ガレージに来てって」と言った。そして「行ってあげて」と、瞳で訴えかけるナナミは、しっとりと水に濡れたような印象だった。
ガレージには本当に野崎がいた。横を向き、腿に両手を合わせて俯いている。「野崎?」僕が彼女の目の前まで行くと、「はるくん。急にごめんね」そう言って、顔を上げた野崎の頬には、涙が垂れ落ち顎にまで伸びていた。瞳からは涙が次々に溢れ、沸騰しすぎたヤカンみたいに、紅潮した頬に雫が伝っていた。あの上目遣いで僕を見上げると、袖で涙を一度拭いたが、野崎の涙は止まることなくまだ流れている。野崎は「はるくん。これ。マグカップ余分に買いすぎちゃって。使って」と茶色の手提げ袋を渡してきた。スタバのマークが見える。中には白い封筒に手紙らしきものを発見したが、その場で読みはしなかった。
「はるくんはさあ、好きな人できた?」唐突な質問に不意打ちをくらい、そして、どこかで聞いた覚えがあるなと思った。僕はあの時なんと答えたのか、記憶にはもう無かった。言葉に詰まる。この無言の時間では、僕と野崎はつながりを感じることは無かった。
「私ははるくんに会えてよかった。またカッコよくなって、ズルイよ」へへ、と笑った瞳は線のように目が無くなり、押し出された涙が次々に頬を伝っていく。僕はまた何も言えなかった。何を言えば良いのか言葉が浮かんでこない。
「日本に来た時は連絡してね。絶対に会いにいくから。頑張ってね」
そう言って野崎はガレージの外へと消えて行ってしまった。同じ光景をどこかで見た気がする。彼女にまた何も言うことができなくて、彼女の涙をまた見てしまった。
シアトルに来て、僕は少なからず成長したと感じていたが、それはまだ思い込みだったのかもしれない。他者と上手く付き合えるようになってきた、そう感じていたが僕はまた野崎を泣かせた。他者との連帯に怯えながらも、環境や状況が僕を後押ししてくれたので、できることが増えていく感覚や、友人が増えていくことに、いつしか慣れてしまっていたのかもしれない。僕はこの状況に満足をして、喜びに浸ることで歩みを止めていた。受け身的な行動をいつしか、自分の努力の成果だと、美点に置き換えていたのだ。いざ状況に迫られ追い詰められると、僕の弱さは歴然と眼前に剥出しとなった。
他者との繋がりを持ち始めたが、友人以上の関係、それは恋人関係など、己の全てを晒し露わにしなければならない状況を、僕はまだ怖がっていたのだ。失う恐怖や否定される痛み、それに伴う自己否定と矛盾の連鎖という悪循環は、こびりついた汚れとして確かにまだ存在していた。クック家での生活を通して、家族の存在に憧れを持ち始めていた。ルーカスとソフィアの子供達への愛情を尊いものに感じていた。両親が注ぐ無償の愛を有り有りと見せられ、美しい自分の未来を想像したが、自らに置き換えると不明瞭で見通しが悪かった。ステージを遠目から眺めスターを応援するのとは違い、自分がステージに立ち何かをすることは甚だ筋違いのように感じ、客席からは先ほどまであった、万雷の拍手や喝采を聞くこともなかったのだ。お前には無理だ、と言われているようで、僕は足取り重く袖にはけるのであった。

  ※

サングラス越しに見る太陽は、とても小さく見えた。まるで今にも爆発してしまいそうで、見ているのがなんだか辛くて、僕はゆっくりと目を閉じた。僕の上半身は影に隠れ、下半身を太陽が気持ちよく照らしてくれている。右脇腹をくすぐっては、どこかへ消えていく海風に、僕は心地よさを感じていた。僕の左横にはもう一人、両腕を頭の後ろで組み、海風と波音に包まれながら寝そべっている奴がいる。
四年生の夏休み、僕にとっては大学最後の、長い夏休みが今日から始まっていた。こうすけは六月十三日に、僕の夏休み初日に合わせて、日本から来てくれたのだ。久しぶりの親友との時間を、僕は心穏やかに、瞳の奥で喜びを感じていた。
「アルカイビーチか。良いとこだな」
こうすけが呟くように言った。サングラス越しで彼の瞳は確認できないが、口元は緩み、シアトルの太陽と風に満足している様子だ。僕は意識を頭の上へと向ける。道路の向かいには潮風で屋根や壁がボロボロになった、趣のある店が軒を連ねている。その中の一つは有名なアイスクリーム屋だ。店内からはウクレレの音が漏れ、僕の耳元で弾んでいる。
「時差ボケは大丈夫? 眠かったりしない?」
「大丈夫だろ、この為に昼夜逆転の生活を二週間したからな。日本にいる方が辛かったよ」
「それなら心配いらないか。素晴らしいところなんだよ、シアトルはさ」
「はるがそう言うなら、良い場所なんだろ。きっと」
こうすけは左手でビールを掴むと、残りを一気に飲み干した。汗をかいたビール瓶が、太陽の熱を受け光線を出しながら反射している。どこからか漂うバーベキューの匂いが、鼻先を刺激し空腹を感じさせた。
「はるはさ、ここに来て変わったよ。もちろんいい意味で」こうすけがそう言うので、僕が「そう?」と尋ねると、「ああ。まずはちゃんと俺に返信をよこすようになったな」とふざけながら言うのであった。そして、二人で笑いあった。過去にあった言いづらい出来事を、こんな風に自然に話すことができるのは、こうすけの人柄のおかげだ。渡米前からシアトル一年目の間は、僕が一番荒れている時期だった気がする。一日中気を張り詰めていたので、家に帰った時には無気力で、倒れるようにベットに沈んでいた。僕が返信を無視しても、「おい、無視すんな」と、角が立たないように気にかけてくれたのだ。
「貝殻の歌はさ、その土地によって違うんだ。貝もその土地に馴染む為に必死なんだよ」
「貝? なんのこと?」突然の話題に、僕は本意が分からずに聞き返した。
「巻貝とかあるだろ。あれに耳を当てると音が聞こえるだろ。あれだよ」僕がまだ彼の本意がつかめずにいると、こうすけは「昔から母さんに言われてたんだ。俺はさ、つまり、柔軟に対応しろ、ってことだと解釈してる」と言っていた。僕は、なるほど、と呟いた。
「僕はさ、こっちに来てからこうすけを意識してる。こうすけみたいに振る舞おうって」僕はそんなことをつい言ってしまい、ビールを慌てて飲んだ。こうすけは「俺らしくがどんなのかは分からないけど。きっと生き辛いだろ、それ」と、横から吹く優しい海風と共に、どこかへ消え入ってしまいそうなか細い声で、そう呟いていた。僕は「そろそろ行こうか」と言って、太ももの砂を払った。


村上さんに連絡をした。「日本から友達が来るので、どこかオススメの場所はないですか?」と。村上さんはすぐに返事をくれる。僕がどれだけ遅く返信をしても、気にも留めていない様子で、絵文字をたくさんをつけて。自分のスタンスはどんな状況でも曲げようとしない、芯の通った人に見えて、そこが好きなところだった。
「キャピトルヒルにある、エイティーオウンスカフェに行ってみて。ここのハンバーガーが絶品なの。あと、オーナーの方が優しいの。会ってみてね」
その夜、僕たちは二人で村上さんオススメのバーガーショップに向かった。学生は僕と同じように夏休みなので、クラブやバーは客で賑わいを魅せ、街全体が踊っているように騒がしかった。「ここすげえなあ」と、こうすけも唸っている。
エイティーオウンスカフェは、僕とタローがよく行くブルワリーの近くにあった。ワンブロック先の裏路地に入ると、電飾など目立った印は無く、くすんだ紫かピンクの塗料で店の名が記されているだけだった。村上さんのお店が、意外な場所にあったことに驚き、彼女の学生時代の過去の一部を紐解いた気分だ。
これだけ街が賑わいを魅せているのにも関わらず、店内に客はいなかった。ドアの隙間から流れ込む風が、肉の焼けたスパイシーな匂いを僕に運んできた。
「ヘイ、ガイズ。いらっしゃい、調子はどうだい?」バーカウンターの中には、両腕にびっしりとタトゥーが彫られた人間がいた。
「ハイ。悪くはないですよ。二人です」違和感をすぐに感じた。タトゥーが彫られた太い腕をしたその方は、大きな胸を持ち、ウィッグだと一目でわかる長い茶色の髪をしていた。
「好きなところに座って。いま水を持ってくるよ」バーカウンターにカウンターチェアーが数台並べられ、その後ろに四人がけのテーブルが五つほど置いてあった。店内は薄暗いが、両脇に付けられた大型のテレビが照らしている。ちょうどシアトルシーホークスの試合のハイライトが映し出されていた。僕たちはバーカウンターを選び、横に並んでテレビの前に座った。
「学生かい?」水を持ってきてくれた女性が僕たちに尋ねた。「はい。僕はシアトルの大学に通っています。彼は日本から来てくれた友達です」。日本に興味を示してくれたのか、その後もいくつか質問を僕らにしてくれた。「俺も昔、日本の友人がいたよ」彼女はタバコでも吸いたいのか、手を口に持ってきて、俯き加減でそう呟いた。僕は「このお店、日本にいる僕の友人から紹介してもらったんです。村上という方を知っていますか?」と尋ねると、彼女は口に手を当てたまま、五秒ほどその名前を発しながら考えている様子だったが、すまない、思い出せないな、と言っていた。
「ところで紹介が遅れたよ。俺はクリスだ」クリスはそう言って、僕とこうすけを見つめると、手を差し出して握手を求めてきた。大きな手だった。「はるです。初めまして」僕が言った後に、「こうすけです」と二人で握手を交わした。
クリスのハンバーガーは絶品だった。片手では持ちきれないくらい大きなバーガーは、持ち上げただけで肉汁が溢れ出てきた。僕たちは口元を肉汁とソースで汚しながら、あっという間に胃袋に流し入れた。フレンチフライの塩見がビールによく合い、アメフトの試合と良いコンボだった。
「美味しかったです」僕がそう言うと、こうすけも横で三回頷いていた。「クリスさんはもう長く、このお店をやられているんですか?」と、こうすけがたくさんのジェスチャーを混じえながら、クリスに質問をした。「ああ。もう随分長いことな。俺が女になる前からだ」そう言うクリスは自分の胸に手を当て、ゆさっと大きなバストを揺らして見せた。口元に見せる笑みからは、全く嫌味も皮肉も感じない。胸を張って堂々としていた。
「いつから女性になられたんですか?」こうすけがまた質問をした。
「五年ぐらい前かな。当時付き合っていた彼女と別れたのをきっかけにな」
「今は、どんな気分ですか?」こうすけは不躾に、次々と質問を聞いていた。
「気持ちの良いもんさ。やっと自分に素直になれた感じだ」
「何がクリスさんを変えてくれたんですか? 僕だったら怖くて動けない気がする」
こうすけは、何かに必死だった。彼はクリスの瞳をじっと見て、言葉を選んでいた。
「マイノリティーとして生きる覚悟だ」
クリスが片手をカウンターに置いて、そう呟いた。白い歯を少し見せ、優しい目つきでこうすけを見据えていた。そして「他人になんと言われようが、馬鹿にされても、自分の幸せの為に、俺は女になることを選んだ。自分の人生だ、他人の意見にビクビクしてても楽しくないだろ。何人かの友達は俺の元を去っていったよ。あれは辛かった。だけど、今の俺を受け入れてくれる新しい友人にも出会った。そいつらのおかげで、俺は自分を受け入れることができた。そんなものだろう? それで良いんだ」と言った。こうすけは「はい。すいません、深入りし過ぎてしまいました」そう言って、ペコと額をカウンターにつけ礼をしていた。その後も僕らはオニオンリングを食べ、ビールを飲んだ。こうすけは気持ち良さそうに、傍にビール瓶を増やしていた。店に客が入りだし、賑わいを見せてきたところで、僕たちはクリスに挨拶をして店を出た。


「母さんの体調が、最近悪いみたいなんだ」れんから連絡が入っていた。「最近、調子はどう?」と決まった文言で始まるいつもの連絡とは違っていたので、少し驚いた。「大丈夫そう?」と返信してみると、数秒後に「漢方をもらってきたから、これを飲めば大丈夫って言ってるけど、どうなんだろう」と返ってきた。
母さんには先月、「卒業式には来てね」と連絡していた。その時は体の不具合などの話はしていなかった。れんには、「経過を見て、また連絡して」と返信しておいた。


クリスの店を出てからちょうど二十四時間が経った頃、僕とこうすけはタローと三人で、いつものブルワリーを訪れていた。僕とタローはスタンディングテーブルに両ひじをつき、ビールをグラスで煽っていた。こうすけは店の奥で、先ほど会ったばかりの数人と酒樽を囲んで肩を組み、グルグルと回りながら唄っている。さっきもカウンターで店員と何かしらの話題で意気投合し、二人でビールを飲んでいた。
「はるの言う通りだ。こうすけは素晴らしい人だよ」タローが僕に言った。僕は誇らしげに、そうなんだ、と返事をした。
「タローは最近どうだい、インターンは。議員秘書は大変だろう?」
「まあ、ボランティアみたいなものだよ。楽しくやってる」そうか、と僕は答えた。
「イギリスの名門大学に受かっていたのに、まさか働き出すとはね。僕はもう君に会えないかと思っていたよ」僕がグラスに口をつけながら言って、一口ビールを飲む。彼も大きな一口でグラスを空にすると、「シアトルが好きになってしまったんだよ」と、ウィンクでもしてくるみたいに、目で同調を求めてきた。
「いやー、ごめん。つい盛り上がっちゃってさ」両手にビール瓶を持って、こうすけが僕たちのテーブルに帰ってきた。顔は少し紅潮しているが、目の焦点は定まっている。首元は濡れていて何かをこぼした跡がある。
「気にすることはないよ。こうすけは明日帰ってしまうんだろう? 僕は君のことがもっと知りたいよ」タローは続けて「チアーズ」と言って、こうすけが持つビールに自分のグラスをくっつけると、チンっと耳に響く乾いた音を鳴らした。
「シアトルにはまだ三日しかいないけどね、ここは素敵な街だよ。はるの言う通りだ。シアトルは人を解放させてくれる場所だ」僕は間違いないと二回頷いた。横にいるタローも、僕もこの街が大好きさ、とこうすけと肩を組んで笑いあっている。
「何か感じたものがあったのかい?」タローがこうすけに質問した。
「ああ。日本にいることが普通だからね、内からでは気づかなかったけど、息苦しさを日頃から感じていたのかもしれない」
「僕は日本人なのに、日本で暮らした一年間は、精神的にもきついものがあったよ。もちろん、僕は日本が大好きだけどね」タローは冗談めかしく笑顔でそう話した。
「今の自分はなんだか素の姿をさらけ出せている気分だよ。迷いや不安が一切なく生きている。はるはどう思う。今の俺は普段と違うかな?」僕は、どうだろう、と曖昧な返事しかできなかった。違うといえばいつもより大声で、フランクに肩を組むこうすけは初めて見たが、それもこの土地にいち早く順応したからだと考えていた。
「僕は日本人でもあるけど、イギリス人でもある。日本にいた頃は、自分がどこのコミュニティーに属しているのかわからなくて、ずっと不安だった。シアトルにいるとね、その不安が一切浮かんでこないんだ。僕ははると同じように留学生であり、日本人というマイノリティーとして、こうして気持ちを通じ合えている。居場所をやっと見つけることができた、そう思えて安心できるんだ」タローは僕を見ながらそう言ってきた。僕は、確かにそうだ、と言葉では表せなかった今までのモヤモヤを、タローに代弁してもらった気がした。
僕は日本人留学生という、一人のマイノリティーとして生きていたのだ。過去に感じたことの無い、安心感に包まれている理由の一つは、小さなコミュニティーの中で仲間を見つけ、心を通じ合わせていたからだ。それは、シアトルが持つダイバーシティな部分が大きな助けにもなっていたのだろう。この街や人々が多様性を受け入れ、共に生きようとしていたのだ。日本にいる頃の僕は、常にマジョリティとして生きていた。そして大きく歪んだコミュニティの中で、一人突出しようと必死だった。競い合う母体数が多すぎて、さらに誰と競い合ってるのかも理解しないまま、日々他者を蹴落とし己を高めることだけに精を出していた。そこは孤独であり、嫉妬や憎悪にまみれた場所でしか無かった。そんな場所ではいつまでたっても仲間などできず、自信を育むことも憚られた。マイノリティとして生きていく中で、他者を想いやり、自分たちの弱さを理解しているからこそ、手を取り合って共に進もうとしていた。拒絶や暴力など、社会を分断する諸悪の根源が一切無いような場所であって、僕は安心していたのだろう。
「俺は何かを演じ、生きることに上手くなりすぎた気がする。母の教えでもある、その場所で上手く立ちまわることに必死になって、気づいたら本当の自分がわからなくなっていたよ」こうすけの口からそんな言葉を聞いたことは無かった。僕は幼い頃から、こうすけは誰とでもコミュニケーションが取れる、すごい奴と勘違いしていたらしい。
「人は誰だって、隠し事を抱えた中で、必死に生きているものさ。こうすけはそんな悩みを抱えながらも生きてきたんだ」タローはそう言って、ビールを大口で煽った。こうすけは「女性が好きかどうかわからないんだ。綺麗だと感じることはある。だけどそれまでなんだ。それ以上は何も思わない」と口角を吊り上げながら、目を線にしてそう言ったのだ。
また、僕の友人が勇気を持って、悩みや苦悩を打ち明けてくれている。
僕は「こうすけ」と一声かけた。そして、僕はゆるりと話し始めた。「僕は怖くて仕方がない。一人になると、変なことまで考え出してしまう。それは、いろいろなことだ。ただ全部が恐ろしく見えて、僕は怖くて震えている。明日には今まで築き上げてきたものを全て放り捨てて、独りでどこかに行ってしまいたい、そう考える時がある。幸せだと感じる時間を享受していると、これが明日も続くのだろうか、と不安が押し寄せてくる。目の前で起きていることが、突然僕の前から消えるようにどこかへ行ってしまう気がして、常に不安と恐れが頭の片隅に潜んでいるんだ。
だけど、そんな不安を一瞬でも忘れさせてくれるのは、こうすけやタローが僕のそばにいてくれる時だよ。君たちと一緒にいるときは、幸せとつながりを感じることができて、僕は落ち着きを取り戻せている。僕にはこうすけが必要なのさ。小さい頃からの仲じゃないか、僕は色々なこうすけを知っているし、そしてこれから知る新しいこうすけも全部が好きだ。僕は、これからも君のそばで、馬鹿な話でもして、笑いあっていたいよ」
目の前にいる二人に感謝の気持ちを述べたくて堪らなかった。コンクリートで覆われた地面から、まるで大地のパワーを授かっているみたいに、足元から熱い何かが、頭のてっぺんまで昇ってくる。僕はこうすけと肩を組み、そしてタローとも肩を組んで、「チアーズ」とグラスを手にして二人と乾杯をした。二人も僕の後に、チアーズ、と笑いながら言った。
翌日、タローと一緒にこうすけを空港まで見送りに行った。僕たち三人はひどい二日酔いで、ソフィアから貰った薬を朝から何錠も飲んでいた。こうすけは「はる、ありがとな」と僕とハグをした。タローにも同じようにハグをして、じゃあな、と手を振って手荷物検査場へと消えて行った。僕とタローは二人で、こうすけが乗った飛行機が飛び立つまで、屋外デッキの椅子に座り、青白い空を眺めていた。


その日の夜、れんからの連絡に気づいた。夕食のチキンカレーを食べ終え、食後にソフィア自家製チェリーパイを食べている時だった。
「母さんが倒れた。今は集中治療室にいる」その一文だけがれんから送られてきた。
僕はその文面を一度読み、そしてまたすぐに読んだ。が、理解できなかった。母さんが入院した? なぜ? そんな疑問が次々に脳内に浮かび、キャパシティが一杯になると同時に、僕はただその場に立ち尽くしていた。ルーカスが僕に何かを言ってきたが、彼の言葉が理解できなかった。ソフィアが僕の側まで来て、肩に手を乗せた。それと同時に、僕は握っていたフォークを床に落とした。左手に持っていたパイが、今はどこにあるのかも分からなかった。

三ヶ月間見続けた天井の壁は、特に目立った変化が起きることもなく、ずっと白いままだった。閉め切られたこの空間に、窓から差し込む明かりだけが、かろうじて生命の瞬きを感じさせたが、夜になればそれは死んだも同然だった。
三ヶ月前に、それがいつだったかはもう覚えていないが、母さんが倒れた。今もまだ眠ったままであった。父親からの連絡でそれを聞いた。一瞬のことだった。父は何かを話していたが覚えていない。強い衝撃を感じ、気づいたら頭から激しく後ろに倒れ込んでいたみたいに、足元から踏み場が崩れ去る感覚。
三ヶ月間、何をしていたのもあまり覚えていない、いや、正確に言うと、何もしていなかったのだから思い出す必要もなかった。いつ着たのかも覚えていないジーパンに、ボタンダウンシャツに白ソックスという、外行きの格好のまま、僕は着替えることも無く同じ服をずっと着ていた。何を考えていたのかも覚えていない。ただ真っ白なその天井を見ていると、僕自身の頭まで真っ白になっていき、何かを考える隙を与えてくれなかった。
母が倒れてからしばらくして、僕は久しぶりに体を動かした。誰かの連絡に気づき、ベット脇のサイドテーブル上にあった携帯に手を伸ばした。充電コードに繋ぎっぱなしだった携帯は、下から白いコードがどこまでも伸びていて、まるでへその緒のように見え気色悪かった。ロック画面を何気なく覗くと、六月二十日と記されていた。それだけ見て携帯をまた元にあった場所に置き、天井を眺めた。
その時に「はるうぅ。ここに夕食置いとくから」と、部屋をノックした音が聞こえると、ソフィアの声が聞こえた。僕はその声を聞いてから、数秒後に言葉の意味を理解したが、僕の口から言葉は出てこなかった。いくらかして僕はベットから降りて、ドアに近づこうとした時、床に右足をついたところで力が入らずに顔から落ちた。
右頬に痛みを感じながらドアに近づくと、スパイス香るカレーの良い匂いがした。ドアをそっと開けてみると、そこにはボウルに入ったライスとカレーが置いてある。僕はそれをすくい上げると、立ったまま一口食べた。僕が好物のソフィアのカレーはとても美味しくて、そしたら母さんの作ったカレーを思い出し、ジャガイモが溶けたチキンカレーは美味しかったと思い出したら、留学前に食べたブリの照り焼きや、ポテトサラダなんかを色々思い出し、僕はスプーンを咥えたまま泣いていた。必死でスプーンを噛みしめ、嗚咽が漏れぬよう、何を我慢しているのか分からぬまま、とにかく歯が痛むくらいに強く噛み、涙だけをぽたぽたと流した。
それからも僕は服も変えずにずっと天井を眺めていたが、家族の声は耳に届くようにはなった。窓から差し込む光が弱くなる頃に、ソフィアがドアをノックし、「はるうぅ。ご飯置いとくね」と。時にはカイルやノアが、僕に気を使ってくれているのか、悲しそうに小さな声で、「はるうぅ。ごはーん」と言っていた。僕はそんな彼らの声を聞いて、情けなくなり、悲しくなり、しかし声を出せず、ただ天井を眺めるしか無かった。
置いてくれた料理は空にしようと思い、どれも一口つけるが、胃が食物を受け付けないのか、すぐに吐き気に襲われた。涙を垂れ流しながら、必死に口一杯食べモノを放り込むが、飲み込めずトイレに吐くばかりだった。家族が運んでくれた食べ物を食べる時に決まって、僕は際限なく涙を流し、嗚咽を必死に堪えた。食べ終わった後は、ベットの上でただ天井を眺め、涙は枯れたように一粒も落ちてこなかった。
そんな生活を三ヶ月間繰り返した。日中は太陽が輝き、僕の部屋を以前よりも明るく照らしていた。閉め切られた部屋の中は蒸し暑く、汗をたくさんかいた。それでも僕はただ天井を眺め続けるだけだった。意識が朦朧とする中で、食べ物だけは食べる生活をしていると、ふと、家族に感謝したくなることがあった。それは、僕の本当の家族に対しても、クック家に対しても。支えてくれる家族がいなかったら、僕はもう死んでいただろうなあ、と突然思いがこみ上げてくると、両手でベットシーツの端をぎゅっと掴み、「ありがとう」と声を漏らしていた。そして、何も成長していない自分に怒りが込み上げ、その握ったシーツを離し、ドンドンっとベットを数回叩いては、どこにもぶつけることのできない怒りを発散した。
ある日、僕はやっとの思いでベットから起き上がると、リビングに向かおうとした。それはふと気づいたクック家への罪悪感であった。三ヶ月間彼らは声を潜め、僕のことを気遣ってくれていると感じていたからだ。カイルとノアでえ、ソファの上で飛び跳ねるのを堪え、元気に走り回ることさえしていなかった。僕を気遣い静かに見守ってくれていたことに罪の意識があった。さらに、家賃を三ヶ月分滞納していたことに気づき、流石に申し訳なくなった。四人は僕に注意することも無く、ご飯と雨風凌げる部屋を与えてくれていた。
僕はそっと部屋のドアを開け、リビングに向かってみると、家族四人がソファーに座りテレビを見ていた。僕は「スッ。ルッ」と、ソフィアとルーカスを呼ぼうとしたが、言葉にはならなかった。ソフィアとルーカスは僕に気づくと、ソファーから立ち上がり、僕の方へとゆっくり歩いてくる。僕も二人に近づき、何か言葉を発そうとする前に、自然と一粒の雫が頬を下へと伝っていくと、水に沈んだドライアイスみたいに、大量の涙が溢れてきた。僕はそこでしゃがみこみ、この瞬間を待っていたみたいに嗚咽が漏れ、肩を震わせ泣きじゃくった。ルーカスが僕の背中から腕を回して、大きな手でポンポンと落ち着かせてくれる。ソフィアは僕の右肩から、ルーカスと僕を包み込むように優しく抱いてくれた。僕は二人の腕の中でとにかく泣いていた。気づけばカイルが僕の左脇腹に細い腕を回してくれている。ノアは、その小さな手で、僕の頭をそっとさすってくれていた。僕はいつまでも、大声で泣き喚いていた。知らぬ間に僕は日本語で、「母さん、母さん。ごめん。ごめん」と言葉を発していた。咽び泣きながら、誰に伝えているのかもわからぬまま、必死に声を出していた。クック家は、僕の言葉を理解できるはずもなかったが、ずっと、そばで抱いてくれていた。

父とれんと電話で話したのは、僕の秋学期が始まる二日前のことだった。「兄ちゃん、卒業式にはみんなで行くから」と、れんはそう言っていた。「何かあったらすぐに連絡してくれよ」と、父はまた釘を刺してきた。父はソフィアとルーカスとも話していて、二人は笑顔で父と会話をしていた。僕はルーカスとソフィアに微笑み、「ありがとう」と伝えた。そして、隣にいたカイルとノアを強く抱きしめた。彼らはくすぐったいのか、騒ぎだし僕の手から逃れようとしたので、僕はそんな彼らをもっと強く抱きしめたのだ。
それから僕はひたすら履歴書を書いていた。僕の学生生活も残すところ、あとこの秋学期と冬学期の半年で終わる。心に落ち着きと少しばかりの推進力を得た僕は、将来を見据えて動こうとしていた。
夏も終わり、十月ごろからシアトルは雨が多くなる時期だった。肌寒さを感じ長袖のシャツを引っ張り出して、リビングでパソコンと向かい合っていると、ソフィアが紅茶を運んできてくれた。「インターンシップはどう?」とソフィアは床に座り、ソファーに背をもたれるようにして、僕の斜め右に腰を下ろした。僕は「昨日、面接が終わったよ。今は結果待ちさ。もし受かれば来週から半年間働けるんだ」と答えた。望みは薄いけどね、と両手を水平に高く上げ、口をすぼめて大袈裟にジェスチャーをしてみせた。僕たちが他愛もない会話をしていると、誰かがドアをノックするので、僕は立ち上がりドアを開けてみた。
そこにはタローが立っていた。「やあ、はるうぅ。久しぶり」と苦さを堪えているかのように、無理に笑顔を浮かべている様子だった。そして大きなタローの身体で気づかなかったが、その数歩後にナナミの姿もあった。彼女は下を向き、僕とは目を合わせてくれなかった。花壇を見つめながら、まるでもう枯れ落ちてしまったチューリップを気に病み嘆いているかのようだ。
ソフィアは二人を見つけると、「どうぞ、中に入って」と二人を招き入れた。僕が鍵を回して閉めようとした時、それはとても硬くザラザラとした感触だった。噛み合わせが悪くなり、このまま閉まらなければ良いと思った。エル字型ソファーの縦の棒に二人は並んで座り、僕は横棒に一人で座った。ナナミはまだ僕と目を合わせようとはしてくれない。
「はるうぅ。調子はどうだい。実はソフィアとルーカスから話を聞いてたんだ」タローがそう言うので、僕は「そっか」とタローに言った。タローはいつもとは違う小さな声で「また君に会えて嬉しいよ」と優しく語りかけてくるが、僕はただ「うん」と俯きながら呟いた。僕が黙ると、タローもそれ以上は何も言ってこない。僕たち三人は長い間、時計の針が動く音と、キッチンでソフィアが小説をめくる音だけに、耳をすましていた。
「どうして連絡をくれなかったの?」
静まり返ったこの空間の中で、突如発せられたナナミの言葉は、冷たく響くように空気を振動させた。僕は彼女の言葉を聞いてから数秒無言の後、「ごめん」と言っていた。
「どうして私たちを頼ってくれなかったの?」ナナミが僕に言った。僕はただ「ごめん」としか答えられなかった。「どうしていつも一人でいようとするの?」と彼女が呟いていた。
僕は足元に見つけたシリアルかスナックの食べカスをただ見続けていた。窓の外からは、向かいの家の主人が帰ってきたのか、ガーレジを開ける機会音が響いている。
「あなたが馬鹿みたいに私に声をかけてくるから、私が近づこうと思って前に踏み出してみると、はるは磁石みたいに、一歩ずつ私から退いていく。どうしてなの? どうしてそこまで一人で苦しんでいるの? 私やタローがいるのに」
そんなこと聞かないで欲しかった。僕はその答えを求めて常に生きていたのだ。
「私がはるのそばに、そっと歩み寄ろうとすると、あなたは天邪鬼みたいに、私を避けるように何処かへ行ってしまう」
ナナミは僕に何を求めているのか。僕は昔からこんな男である。
「いつも何かを隠しているみたいに、楽しそうに振舞っていても、あなたは何かに怯え戦っていた。でもそれを私たちに見せようとしない。はるはいつも一人で抱え込んで、一人で苦しんでいる。」
「そうかもしれない」僕は言った。知っているのなら、もう僕に干渉しないでほしかった。
「頼ってくれていいの。私たちがそばで、はるの助けになるから」
ナナミは真剣そうに、身振り手振りを交えて、必死に伝えようとしていた。僕はそんな姿を見ても、「ごめん」としか言葉が出てこなかった。いつもながら情けなく感じるが、思考停止した僕の頭には、言葉が何一つ浮かんではこなかった。彼女が言葉を止めるとまた静寂な空間に包まれていく。先ほど見つけた食べカスはもうどこかに行ってしまい、ソフィアの小説を捲る音もいつしか消えていた。
「怖いんだ」僕は言葉を発していた。これは、きっと本心であった気がする。
「何が?」ナナミが僕に尋ねた。
「いろいろだよ。君たちと仲良くなればなるほど、僕の不安は膨れ上がってくる」
「その不安を私たちに話して欲しいの。私はあなたの助けになりたい」
「君に迷惑はかけられないよ」ナナミに対して僕がそう言うと、ナナミは俯いて黙ってしまった。タローが、「二人とも落ち着いてよ」と僕たち二人を交互に見ながら言った。
「ナナミ、言い過ぎだよ」タローがナナミにそう伝えると、「はるうぅ、今日はもう帰るよ。またすぐに会おうね」と言ってナナミの腕をとり、彼女と共に帰って行った。僕は窓から二人が歩く姿をただ眺めていた。タローの少し後ろを歩くナナミは俯いて寂しそうにしている。僕はそんな彼女を見続けながら、ある日の冬の景色を思い浮かべていた。指先に冷たさを感じ、ふと手元を見ると、人差し指がガラスに触れていた。僕はそっとガラスから離れると、ソファーに座り目を瞑った。
インターンシップに合格したと連絡がきたのは、それから四日後のことだった。ダウンタウンにあるテック企業のエンジニアとして、十月から三月までの約半年間働くことに決まった。秋学期と冬学期は、クラスを三つずつ受け、週五日で働きながら残りの二日で二つのクラスを、一つはオンラインで授業を受けることにした。アメリカでの学生生活の中で、一番忙しい日々を送りながら、動き出した毎日を客観的に眺めていた。そこでは、充実した時間を感じてはいたが、一方でどこか味気なさも感じていた。血液が押し出される動脈のどこかのパイプに、小さなトゲが刺さっていて、チクチクとしたむず痒さと共に血流は勢いを失ってしまっている。バリバリと働き、黙々と勉強をするだけの日々がどこか空虚に思えた。この気持ちは、シアトルに降り続ける雨が原因なのか、また別の理由があるようにも思えたが深くは自問しなかった。
半年はあっという間に過ぎ去ろうとする。三月になった頃、僕は期末試験を二週間後に控え、もう一度ギアを上げようと意気込みながら、同時に束の間の休息を楽しんでいた。この学期を終えれば卒業だった。成績も問題ない。この学期が終わると同時に、インターンシップも終わることになる。そうすれば残すは六月の卒業式だけだ。僕は一抹の寂しさを覚えながら、ラストスパートに向かって呼吸を整えていた。
そんなある日、ルーカスが僕に声をかけてきた。その日は、晴れてはいないが雨は降っておらず、厚い雲で青空が覆われていた。
「はるうぅ。今時間あるかい? ご飯でも食べに行こうよ」
ソファーに座り天井を見上げ、暇を持て余していた僕を見つけると、ルーカスがそう言ってきた。僕は「いいね」と笑顔で答えて二人で昼食を食べることにした。
助手席に座り、運転席に座るルーカスに「どこ行く?」と尋ねると、「美味しいベントー屋さんがあるんだ」と言った。「弁当?」と僕が聞き返すと、「ベントーは日本食だろ?」と嬉しそうに言っていた。車を十分ほど走らせるとその弁当屋さんに着いた。「BENTO」と記された看板を見つけ思わず、ベントーだ、と呟いてしまった。それは四角い箱にぎゅうぎゅうに詰められたご飯を想像させ、母さんの作る弁当のイメージは沸かなかった。
ルーカスはうなぎ弁当を買い、僕にはサンドイッチとお茶を買ってくれた。
「公園で食べようか」両手に袋を持ったルーカスが店から出てくると、僕に言った。
車をまた走らせ来たこともない公園に着くと、「よくここにカイルとノアを連れてきたんだ」とルーカスが呟いていた。二人で木のベンチに腰を下ろし、テーブルにランチを広げた。ルーカスは黙々とうなぎを、ぎこちない箸で美味しそうに食べている。僕のサンドイッチにはキュウリが隠されていて、食べ始めてから気づき、残すのも申し訳ないのでただ咀嚼を繰り返した。
「はるうぅはあと少しで卒業だね」ルーカスはうなぎを綺麗に食べ終えていた。
「そうだね。まだ言ってなかったんだけど、実は今の会社から内定をもらったんだ。七月からすぐに働かないか、ってね」
「それは良かったじゃないか。おめでとう。働くのかい?」
「ありがとう。今はそのつもりだよ。僕はシアトルが大好きだからね。これからもクック家の側で暮らしていきたいんだ」
「もちろん、僕たちは大歓迎さ。はるうぅはもう僕たちの家族なんだから」
僕はルーカスの言葉が嬉しくて、クック家の愛情をたくさん分け与えてもらえたことが本当に幸せで、シアトルに来て良かったと改めて感じていた。ルーカスは続けて、「大事な人が増えるのは嬉しいものだよ。その分責任や不安も増えるけどね。その倍以上に楽しさがやってくるからね」と僕に伝えてくれた。
ルーカスの言葉に、「そうだね」と答えたが一方で、僕は幸せを常に与えられているだけではないのか、と自分を疑いたくなった。母の勇気ある決断から始まり、クック家や友人、他にも今まで僕に関わってくれた人達から、僕は常に何かを与えられているだけの気がした。自分から何かを、その人のためになるようなことをしたことがあっただろうか、と。
「君の父親としてね、もちろんシアトルの、一つ言わせてほしいんだ。はるうぅの幸せを願っているよ。この先どんなことが君に起きても、僕たちは君の支えになる。もしかしたら君はパートナーを見つけ、その人と共に歩んで行くかもしれない。君を支えてくれる人が必ずいる。君は幸せを求めて、自分の人生を歩んでいってほしい」知的に、落ち着いた声で話すルーカスの言葉が僕は大好きだった。優しい目をいつもしている。家族のために毎日を生きるルーカスやソフィアを見ていると、家族も良いなあと時々思うことがあった。
「ルーカスの幸せって?」この問いが、僕の見つけるべき解のヒントになる気がした。
「僕は、はるうぅやソフィア、カイルやノアの側で幸せに暮らせたらそれで良い。君たちが幸せなら、僕は幸せだと思うよ」
まるで蛇口をひねり、簡単に水を出すくらいにルーカスは言うが、僕にはあまりにも重い言葉のように聞こえ、不変の真理、否定されることのない大正答のように思えた。
僕は、そっかあ、と呟き、その後に「ありがとう」と、弁当とその他諸々のことについて礼を言った。その日の夜、僕は久しぶりにタローに連絡をしてみた。「今日夜ご飯でも食べない?」とフランクに誘ってみた。彼には珍しく、すぐに「いいね」と返信が来た。
いつものブルワリーでビールを三杯ほど飲んだ後、僕はタローをエイティオウンスカフェに連れて行った。まだ客が入っていない店内に一人テレビを見つめるクリスの姿があった。「いま、フライがちょうど出来上がったんだ」と、クリスは僕らに向かって言い捨てると、コロナを二本カウンターの上に置き、厨房へと消えて行った。
「ナナミは結局来るって?」僕はビールを一口飲むと、タローに聞いた。
「いや、来ないらしい。勉強が忙しいみたいだ」
彼女もこの学期に卒業予定だった。最後に彼女を見たのは、半年前と随分昔のことだ。
「彼女もあの時は気が立っていただけさ。僕はあの後も何回か会ったけどね。君に申し訳ないことをしたって、すごく落ち込んでいたよ」
彼女は今も落ち込んでいるのだろうか。そう考えると辛かった。
「彼女も素直ではないよ、君の前ではね。彼女もいろいろ悩んでいるんだよ」
そんなことは初めから知っている。僕と似たものを感じ取ったからこそ、彼女に興味を抱いたのだから。悩んでいることも、素直でないこともだ。
「人付き合いが苦手らしい。留学する前はそうでもなかったみたいだけどね。こっちに来てからは、人と関わることに悩んでいたみたいだよ。彼女が言っていたよ、私の家は裕福じゃないのに、それでも両親は私を留学させてくれたの、私は絶対良い職業に就いて両親に恩返しするんだ、ってね。その為にもたくさん勉強しなくちゃいけないの、って。ナナミは友達を作りたかったし、遊びもしたいけど我慢してたんだ。自分との約束や、両親のために頑張っていたんだよ」
彼女も僕と同じじゃないか。そんな悩みがあるなら僕に相談して欲しかった。
「ほら、覚えてるかい。僕たちが初めて会ったクラス。君はナナミに散々声を掛けて、無視され続けていただろう。ナナミも言っていたよ、あんなにしつこく私に話しかけてきたのは、はるが初めてだった、てね」
「まるで僕が彼女に嫌がらせをしているみたいじゃないか」ついムキになり、声を張って僕は言い返してしまった。
「その逆さ。ナナミは嬉しかったんだよ。初めは彼女も剣幕建てて対抗していたけどね、段々と心を開いていったのさ。それは、はるうぅのおかげさ。ナナミのこともわかってやって欲しい。彼女も必死だったのさ」
僕は彼女を尊敬していた。自分と向き合って生きようとする姿勢に憧れていた。
タローは二口で瓶ビールを飲み干すと、右ポッケからタバコを取り出して吸い始めた。店内には、油を揚げた胃もたれするような匂いと、木の湿った香り、そしてタバコの微かな匂いが漂っていた。奥からクリスが、「お待たせ」といって揚げたてのフライを持ってきた。僕たちはケチャップを山ほどかけて、口に頬張った。店を出るときに、僕はタローに、「今日はありがとう」と言って、ハグをした。


僕の学生生活最後のテストが終わった。仕事をやりながらのテストは、想像を絶する大変さで、僕は雄叫びにも近い絶叫を上げながら、最後まで無事にやりきることができた。これから六月の卒業式までは、穏やかな日々が続くだろう。そして試験が終わる同時期に、シアトルには春が訪れていた。
僕の大学には桜の木が植えられている。それも何十本もの桜の木だ。春になると、大学の中庭には綺麗な桜を見に大勢の人が集うのだ。それは学生だけではなく、シアトルに住む様々な人達もそうであった。全米でも一番と言って良いほどに、立派な桜を見ることができるこの学校を、僕は誇りに感じていた。それは一人の日本人として、そしてシアトルを愛する者として。外での飲酒が禁じられているので、皆がただ桜に目を奪われ、花見を楽しんでいた。学生は芝生に座り楽しそうに話し込んでいれば、フリスビーやアメフトなどもしていた。子供を連れて桜を見に来る団体もたくさん見かけた。桜は日本人に春を感じさせ、日本の四季の凄みを改めて感じさせてくれるのであった。僕はアメリカに来てから、感受性が豊かになった。些細なことに目を凝らし、耳を澄まして細部まで知ろうとした。桜の素晴らしさを思い出したのも、雨が多い街だからこそ晴れの日を愛しく思えるようになったことも、人を少しは信用できるようになったことも、親からの愛情は尊いものだと感じたことも、自分の生き方を改めて考えさせられたこともだ。全てシアトルに来て学んだものだった。これは結果論である。もし僕が別の街に行っていても、こう感じていたかもしれない。しかし、僕はシアトルで生活して、シアトルからたくさんのことを学んだのだ。僕はシアトルに来て、本当に良かったと思っている。母さんの嘘みたいな提案がなければ、村上さんの恥ずかしいほどに真っ直ぐな意見を聞かなければ、僕はここにはいなかっただろう。本当に感謝している、そしてこれからも感謝して生きていこうと思う。タローやナナミやこうすけやゲンさん、そしてクック家に出会わなかったら、僕はここまで楽しいと思える生活は送っていなかったのかもしれない。こんな僕と出会ってくれた全ての人たちに感謝の気持ちを捧げたい。あなたたちのおかげで、僕はここまでやってこられたのだ。暗闇の中で必死に生きようとした、シアトルでの四年間を、僕は誇りに思う。僕は、自分を、自分自身の力で変えたと自信を持って、この四年間のストーリを肯定してあげたい。過去からふりかえって見ると、この物語は明るい未来の話である。
桜を満開に咲かせている一本の木の前に、綺麗な横顔をした女性を見つけた。彼女の髪は、シアトルの愛しい太陽の光を体いっぱいに受け、その中で綺麗な髪が輝いていた。僕は彼女を見つけると、そっと近づき「ナナミ、久しぶり」と声をかけた。水色の軽やかなワンピースを身に纏っている彼女は、桜の木を際立たせる空のように見え、または桜の美しさを強調させる太陽にも見えた。優しく微笑みながら「はる、久しぶり」と彼女は僕にそう言ったのだ。僕は「無事、卒業できそうだよ」と彼女に伝えると、「私もよ」と力みの無い自然体で口元に笑みを浮かべていた。
桜が頭上でゆさりと揺れ動く度に、僕の心臓の鼓動は早くなり、緊張を感じていた。周りにはたくさんの人がいたが、この時の僕は別段他人に注意を奪われているわけではなく、彼女と向き合うことに対して迫るものがあったのだと思う。もしくは、自分自身と対話をする中で、己と向き合おうとしていたのかもしれない。いつからか孤独な状況の中に、安心を見つけてしまっていた僕は、自らの世界の外側に踏み出そうと躍起になり、結局はその場で足踏みをするだけに留まってきた。自分の中に存在し歪んで見えたその場所を、僕は社会と呼んでいたかもしれない。僕から見た社会は、独りで生き抜くために存在しており、常に危険を孕んだ落ち着きのない場であったのだ。しかし、シアトルで生きていく中で、僕の社会は少しずつ変わっていったのだ。シアトルで出会った友人のおかげで、僕を取り巻く社会は姿を変えていった。友人の存在の偉大さを改めて感じた。独りで生きてゆこうとしたことを、今では恥ずかしく思うこともある。これに気づくまでに、僕は四年の歳月、もしかしたら二十三年の時間を要した。そして、その間にたくさんの人を傷つけてきた。こんな恥ずかしい自分であったことを、今まで出会った全員に会って詫びたい気持ちだが、そんなことはできるはずもないので、僕は、これからの自分の生き方で罪を償っていきたい。ふと、過去の知り合いと遭遇した時に、変わったなあ、と言って頂けるように、自分と向き合って生きて行きたいと思っている。
彼女は、「綺麗な桜だね」と呟いたので、僕も「そうだね」と心の底から同意した。そう言って桜を見上げた時の彼女の横顔は、太陽を浴びたつるっとした肌が輝いて、とても美しかった。「桜ってこんなに綺麗だったのね」とどこか悲しそうに呟く彼女は、地面にちょうど落ちてきた桜の花びらを拾うと、大事そうに眺めていた。「日本に帰ったら、もう日常の些細な光景に喜びを感じなくなるのかな」と彼女は、明日の天気を心配するみたいに、どこか他人事のように呟いたので、僕は「シアトルの思い出を懐かしめばいいさ。そうすればいつまでもこの感覚を忘れない」と言った。シアトルのこの光景を、僕たちは忘れないだろう。美しいと感じた風景や、些細なことで胸をときめかせた、日常の光景なんかも全部、僕たちは忘れずに、思いを馳せる時がまた来るはずだ。
「シアトルを思い出させてくれる人が近くにいれば、誰かと一緒にいれば、二人で思い返すことができるよ。いつでも、思い返せる」
僕が彼女に一歩近づくと、彼女は僕に二歩近づいてきた。僕が彼女の頬に両手を持っていくと、彼女は僕の腰に両腕を回してきた。僕が彼女の顔に近づいていくと、彼女は背伸びをして僕にさらに近づいてきた。桜の花びらのように、白く透き通る彼女の肌は、とても柔らかかった。彼女の吐息が漏れる度に、僕の心臓の鼓動は緩やかに落ち着いていき、気づけば、二人の心臓の鼓動が、同じリズムを刻んでいた。

 3

日本の夏はとても暑い。シアトルで生活した四年という短い期間は、僕の人生の中で最も濃密な時間として、自分自身を変えてくれた奇跡的な経験であった。シアトルの夏に体が慣れてしまったのか、僕がまだ恋しがっているのか、この暑さには慣れない。二十九歳になった僕は、鎌倉で、海と緑に囲まれながら生活をしていた。去年の春、僕にも女の子が生まれた。名前は華那と書いて、はな。在宅でプログラマーをしながら、子供の面倒を見ている。奥さんは、都内の外資企業で、バリバリと働いている。
日本に帰国してしばらくは、生まれ故郷にもかかわらず、環境に馴染めずに苦しんだ。あの満員電車を久しぶりにみると、また嫌な思い出が頭をよぎり、足がすくんだ。東京の地下鉄では、誰かが歌い出すことも、陽気にダンスをする人もいなかった。日本人というマジョリティとして生きるのは、己を常に律しながら、自分と向き合っていかなければ、すぐに弱い自分に支配されてしまいそうで、初めの頃はビクついていた。また、精神科にはもう五年ほど通っている。薬を飲みながらゆっくりと、心の奥底にある汚れや恐れを綺麗にする作業だ。この場合はマイノリティとして、初めは周りの視線に怯えたが、今では自信を持って、自分の幸せを追い求めることができている。それは、僕の周りにいる大切な人達と、幸せに生きていく、ということだ。


「ウィーアーホーム」
僕がそう言ってドアを開けると、そこには同じように、あの家族がいた。大きくなったカイルとノアは、年頃のヤンチャな男の子だ。ソフィアとルーカスは相変わらず、穏やかな表情で僕らを見つめ、「ウェルカムホーム、ガイズ!」と言ってハグをしてくれた。
シアトルの夏は、やはり心地が良かった。僕の横には、娘を抱いた奥さんが立っている。その小さな娘を、クック家全員が見つめている。たくさんの視線を注がれても、気にもせずに笑っている僕の娘は、きっと強く清く育っていくはずだ。
久しぶりに家族に会うと、いろいろな思い出が蘇ってきた。


「ファニーフェイス」ナナミが高らかにそう叫んだ。
僕は白目を剥いている。僕の右横に立つソフィアはひょっとこ顔だ。その横に立つルーカスは、歯を剥き出してドラキュラになっている。僕の左横に立つ母さんは、寄り目になり見得を切っている。その横の父は、口を膨らませていた。父の隣にいるれんは、舌を出して目を見開いている。カイルとノアは、ただ楽しそうに笑っていた。
そしてもう一枚、家族全員で写真を撮った。みんなが笑顔の、最高の一枚であった。
 

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