死ぬことへの恐怖を喰らい腹を満たしてく神様
ぼくのタナトフォビアとネクロフォビアについて語りたい
小2の頃のことだ。
幼稚園の頃に死んじゃったおじいちゃんとおばあちゃんの事を考えてた。
お寺で黒と白の服を着た親戚に沢山可愛がられた時、「もうおじいちゃんとは会えないんだよ」と言われたことを思い出す。そのときぼくは当然、どうしてなの?と大人たちにききまくった。みんな泣いててびっくりした。どうやら天国、という所にいってしまったらしい。もう会うことは出来ないけど、空から見守ってくれることになったんだと教えてくれた。
それから私は毎日仏壇に手を合わせて、今日はこんなことがあったんだけど見てくれた?と心の中で話しかけることにした。言葉を返してくれはしなかったけど、きっと天国というところで楽しく過ごしてるに違いないと楽しい想像をしていた。
ふと、ぼくのお父さんとお母さんもこうなってしまうのかな、と考えてしまった。
天国があるらしいけどそれをぼくが確認することはできない。お父さんやお母さんに、もう二度と会えなくなったり話せなくなってしまうのは困る。
死が全ての人に平等に訪れることを、ぼくはその頃から何となく感じ取っていた。
いつか、お父さんとお母さんに会えなくなる…そう考えた瞬間から、もうダメだった。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ
誰にも死んで欲しくない。
どうしようも無いことに恐怖してしまうようになった。
ぼくの死恐怖症はネクロフォビアから始まった。
ちなみに「死恐怖症」という言葉と存在を知ったのは中学になってからだ。
ぼくだけがこんなに怖がっているのだろうか。毎晩思考が止められなくて、寝る前に誰にも気付かれず吐き気を催しながら泣いていた。
神様も天国も無い、と思ったのはいつの頃だろうか。おばあちゃんに教えてもらった天国の存在を信じて疑わなかったのは本当に、小2くらいまでのことだったと思う。世界中の人々が、死んだらどうなるか別々のことを考えてる。いつか天国は確定した、約束された世界ではないということを知ってしまった。
魂も天国も神様も仏様も、なにもありません。子供だましの妄想に終止符を打つことになった。「科学的」などという言葉は本当に、一生知りたくなかったのだけど。死ねば脳みそは止まって、魂なんてなくて、全て終わる、自己が消える。
タナトフォビアは「無」を想像した時に始まった。今考えてるもの、思い出、ぼくが作り上げたもの、これからすること、すべて。いつか完全に僕の中から消える。今動いてる脳みそはいつか止まる。それで終わり。
すぅーっと血の気が引くような気分になった。暗闇に呑まれてもう何も考えたくない。いつか終わるのだというどうしようも無い事実が、希望をすべて蝕んでいく。
今こうして文章考えてるぼくもいつか消えて何も考えなくなってただの冷たい物体になるだけで。恐怖で頭がおかしくなりそうだ。叫びたくなる。
✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼
中学生になったぼくは、それまで1人で抱えてた恐怖に、実は名前があることを知った。
音楽といえばぼくは父のレコードをプレーヤーにかけて聴くことであったが、時代はYouTubeでなんでも聴くことが出来るようになっていた。
友達におすすめされた「まふまふ」というアーティスト。
初めに聴いた「命に嫌われている」のカバーにすべてを奪われた。
彼のことをもっと知りたい、と出会ったのが「終点」というオリジナル曲だった。
歌詞の中に死恐怖症という言葉を見つけて、自分のこの恐怖に名前がついてる事を知れたのは嬉しかったが、その限りではない。
「死ぬことへの恐怖を喰らい腹を満たしてく神様」
この歌詞で、神様の存在が腑に落ちるような気がした。
きっとみんな死ぬ事が怖くて、その救いを求めた結果が「神様」という偶像を信じることなのだろうと思った。
だから、死ぬ事が怖いのは自分だけでは無かったのだ、と。救われるような気がした。
恐怖そのものは消えていない。けれど、怯え続ける人生というのは本当に、なんというか勿体ない。
みんなだいたい死ぬことを怖がってて、でももう消えると決まっているのだから。その瞬間まで幸せになったもん勝ちでしょう。
死の誘惑と恐怖に負けることなく、なんとか楽しく生きていきたい所存^^
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?