見出し画像

「キツネ狩りの歌」 中島みゆき Cover <あの名曲を歌ってみる>

https://www.youtube.com/watch?v=dzbzn4XgvIw

これは、中島みゆきの7作目「生きていてもいいですか」に収録されている。

このアルバムでは、「うらみ・ます」からはじまって、「蕎麦屋」「船を出すのなら九月」「エレーン」など、ディープな中島みゆきの世界が展開されている。たぶん中島みゆきの「暗い」というイメージを、かなり印象付けた作品だろうと思う。

3曲目の「キツネ狩りの歌」は、アレゴリカルな内容の歌詞で、このアルバムのなかでは明るい曲調といえる。歌われているストーリーは、ざっくりつぎの通りだ。

「きみ」は、「友」といっしょに、颯爽とキツネ狩りに行く。空は晴れて、風も上々。「きみ」は、見事にキツネを仕留めて、意気揚々と「友」と乾杯する。しかし、そのとき、「きみ」は気づく。「きみ」が射たのはキツネではなく、じつは「友」だったと。おそらく、キツネが「友」に変身し、「友」がキツネに変身した。キツネの幻術に化かされて、「友」を射てしまった。そういう歌だ。

いわゆるキツネが人間を化かすという、日本の民間伝承がベースにある。では、それならば、タヌキでもいいのか?というと、どうもタヌキでは歌にならない。ここはやはりキツネでなければいけない。けれど歌から思い浮かべる映像は外国風、狩猟服を着ているイメージだ。イギリスのキツネ狩りを連想するのも頷ける。ただ、弓で射ると言っているのだから、イギリス伝統のキツネ狩りではない。もちろん、具体的なことを歌ったのではないだろうから、日本的イメージと西欧的イメージが交錯していても何も問題はない。

核心は、キツネだと誤認して、つまりキツネに騙されて、「友」を射てしまうというところだ。言葉どおり実際に「友」を射殺してしまうのなら、たしかにブラックな歌、怖い話になってしまう。けれども、そう字義通りにとる必要はない。たとえば、弓で射るという行為を、「友」を精神的に傷付けてしまうことの比喩だと解釈すれば、まさに人間社会の縮図が浮かび上がってくるのではないだろうか。

敵意をもってワザと他人を傷つけるような行為は、逃げ場のない学校や監獄などの閉鎖空間で起こりがちだ。イジメが起こるための条件は、関係の閉鎖性だろう。開かれた社会関係を想定するのであれば、それは大きな問題にはならないはずだ。なぜなら、敵意を向けて来るようなヤツとは付き合わなければいいからだ。もちろん、ほんとうに関係が開かれているのならば・・・ということだけれど。

むしろ、やっかいなのは、友達同士や親族同士など、お互いに仲良くしているのだけれども、知らず知らず無意識のうちに他者を傷つけてしまうという場面ではないだろうか。そこには”キツネ”は、ふつう介在しない。けれども、知らぬ間に人が人を射て(傷つけて)しまうということは、だれもが多かれ少なかれ体験することではないかと思う。あえてキツネを登場させた理由は、寓意をつかってイメージを鮮明化することで、歌を成り立たせるためのフックがほしかったからだろう。

中島みゆきの歌には、「わたし」は「あなた」を好きだけれど、「あなた」は「わたし」の愛を受け入れてくれない、そういうシチュエーションが繰り返しあらわれる。表面的には男に振られた女の恨み節ということになるので、未練がましくって嫌だと感じる女性も多いようだ。(そもそも女性性と未練は無縁だ。未練がましいのは男性性の本質だ。)

たしかに、この当時の中島みゆきの歌を象徴するものとしては、その強烈な個性の在り処として、振られ女の恨み節というのがトレードマークになっていた。けれども、もうすこし普遍的に考えてみることもできるのではないだろうかという気がする。人と人が関係するさまざまな場面で演じられる感情の行き違いや齟齬のようなもの、人間ならだれしもが犯すはずの誤解や勘違い、そういうものがもたらす不幸な心の傷、それをテーマとして繰り返し歌っているのだ、そういうふうに捉えれば、ただの恨み節ではない風景が見えてくるだろう。

じじつ彼女の歌う多くの歌には、必ずしも振られ女が登場するわけではなく、ある種の生きづらさを抱えながら世界と格闘し、知らず知らず悪戦苦闘させられているナイーブな精神の軌跡に焦点が当てられているように思う。

わたしたちは、「友達だね」「仲間だね」そう思って共に行動しているうちに、いつしか“それ”と自覚すらしていないうちに、うっかり「友」を傷付けてしまってる可能性がある。見事にキツネを仕留めて、英雄気取りになっているときこそ、そういうことに気を付けなければいけない。目的に向かって団結して行動することは、連帯や情熱や共感や昂揚などがあって、とても素敵なことなのだけれど、それに一生懸命になっしまうあまり、冷静にものごとを見る目が曇ってしまうと、知らぬまに「友」を射てしまうことがありうるということだ。もちろん「きみ」は、射る側とはかぎらない、射られる側かもしれない。だから、「キツネ狩りに行くなら、気を付けておゆきよ、キツネ狩りは素敵さ ただ生きて戻れたら」ということになるのだ。

いい歌だ、と思う。

「キツネ狩りの歌」 中島みゆき

キツネ狩りにゆくなら ララ気を付けておゆきよ
ねえ キツネ狩りは素敵さ ただ生きて戻れたら
ねえ 空は晴れた 風はおあつらえ
ねえ あとはきみの その腕しだい

もしも見事 射止めたら
きみは今夜の英雄
さあ走れ 夢を走れ

キツネ狩りにゆくなら ララ気を付けておゆきよ
ねえ キツネ狩りは素敵さ ただ生きて戻れたら ねえ

キツネ狩りにゆくなら 酒の支度も忘れず
ねえ 見事手柄たてたら 乾杯もしたくなる
ねえ 空は晴れた 風はおあつらえ
ねえ 仲間たちと グラスあけたら

そいつの顔を見て見ろ
妙に耳が長くないか
妙にひげは長くないか

キツネ狩りにゆくなら ララ気を付けておゆきよ
グラスあげているのが キツネだったりするから
ねえ きみと駆けた きみの仲間は
ねえ きみの弓で 倒れてたりするから

キツネ狩りにゆくなら ララ気を付けておゆきよ
ねえ キツネ狩りは素敵さ ただ生きて戻れたら ねえ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?