所感


2023/02/21 21:26 執筆


例えば、一定の期間で何かをアウトプットしていく事が人生だとして、

私の人生において何をアウトプットすべきで何をインプットすべきかはもう選べる余地が少ない


少ないというのは選択肢の数が絶対数として決まっているとして仮説を建てるとすると

その「選択肢」というのは「いつから」始まっているのだろう

人生で生まれたくなかった、というのはもう既に始まってしまっているのでこれは除外する

また性別においてもある程度(ある程度というのは認識の違いやそういったifを加味した場合)決まっているのでこれも除外する

では親はどうだろうか

親も今では「親ガチャ」というような言い様が在るがこちらも選択できるものではないので「する」「したかった」事の感情とは別に除外する


では人生が始まった時点での選択肢というものはどこから与えられ能動的に選んでいけるようになるのかとする

まずは自我を持つ部分・これは各個によって異なるであろうし、

ここでもまだ選択する側ではなく圧倒的に「与えられるものを享受するしかない存在」として各個は存在する

ただここで「与えられるもの」は個々人の「選択する」ときに圧倒的に意味をもってくる

これはこの部分では各個では気が付けない部分なので私はあるときは「親」としてまた「子供だったもの」として慎重に糸を繋いでいく

何か恐る恐る進み・慎重に物事を運んでいく事を「薄氷を踏むよう」だとよく物事は例えられるがまさにそのようなもので

世の中に存在する「親」全てがそれを考えているかどうかを私には知る術は無いし、あったとしてもそれに介入することは全く出来ない上に必要がない


これを言い切るのは私が私で「今あるものを選択している」からであり全ての物事はここに起因する

主観として多くを占めている物事で個人として大切なのは「今あるもの」を増やしていくことでこれがあらゆるものを「選ぶ」要素になる

要素というものを手繰るのは非常に難しく、私はそれを全て引き寄せる事は出来ない

出来ないが近しいものに手を伸ばすだけの積み重ねをある程度行うことで確率を高めていくことは出来るように感じている・所感

多数のもの「選択肢」を提示したところでその中で選び・進めていくのは各個人でありそれを他が「行う」ように掴ませるのは非常に恐ろしい

善意の第三者という言葉があるが、例え話をすると「自分」が「隣人は(己の主観から外れており)変だ」と感じるのは思想の自由だが

それを吹聴するように「主観を加えて他の隣人にした場合」から「その隣人がまた自己の主観を加えてその他の隣人にした場合」の影響力を強めていくと

低い可能性であろうと何らかの「影響」が出てくるであろうという話がしたい、したかった

ただこれは避け得ることではなく意図的にせよ無意識下にせよ存在している以上「何かを行い続けている状況」である限り個人で制限したり、また御する事は殆ど不可能である

ここまでの文章も「可能性」に関しての持論であり私はこれを個人で所有している感情として処理をしている・常に

人が人として生きている限り「対等であろう」とか「物事を自己的また利己的に考えない」「捉えない」というのはそういう事を思考している時点でもう既に不可能である

人間は考えてしまうため、生物である故に呼吸を自発的に止められないように、いや人間である前に生物であるから何某かの、

非常に恐ろしい言い方になるが優劣をつけねば存在が危ぶまれるような本能にどうしても、無意識に抗えない


故に「存在し始めた瞬間」から優劣が始まっている

悲しい事にこれは論ずる必要もない程に事実であり、事実であるからこそ「人間は思考する」

私の言う「選択肢」というものもこれに起因している部分が大半である

・親は選べない

・性別は選べない

・生まれ育っていく環境を選ぶことは出来ない

この三点を念頭において、「親」として「正しい行い」を「選択する」これは本当に薄氷を踏む、踏み抜いていく事である

「産まない後悔は出来ても産んだ後悔は出来ない」

では私は後悔しているのかというとある程度の部分で稀にifを想定する事はあっても全く後悔はない

何故なら散々考えた末に打算に打算を重ねた結婚があり、結果として出産があることを選択した為である

ただこれは「産んだ子」に対して負わせるものではなく私個人が負うべき物である


それについて未来のifについて私はまだ「いくつか」「選択する」事が残っており、これが日々に於いて非常に混迷を極めている

例えば「選択肢」について、子個人が「選択出来るよう」「準備する」ことが正しいのか

或いは「選択肢」について、ある程度「想定し」「準備する」ことが正しいのか私には未だ判らないのであって


私個人としては多すぎる選択肢があり、目の前にブチ撒けられたトランプカードの中から「好きなものを選んでいいよ」と言われながら、

常に「選んだ責任」について過大な期待・叱責・「果たし切る」事の困難を感じていたからであり、それは私に一歩を踏み出す勇気を失わせるに充分だった

「選択肢を与える」側には「与えたからには責任をとる」というものがほんとうの意味で完全に欠落していたからであろうか

そして世間一般としては圧倒的に間違ったと言えるであろう一歩を、自分の向いている方が前と信じて踏み出し続けた

結果としてしなくても良かった様々な体験・消えない外傷・内傷で私は器を傷つけ続け、そこから溢れてしまったものは何かすら分からなくなった


ただこの「自分自身の足踏み」については「過去であり現在ではなく自身の中で消化するべきこと」としてある程度強制的に納得することで、

この文章を書くにも迷いが生じ得るが、私は現在を生きている限り踏み出し続ける事しか出来ない


私が行いたいのは過去の自分を生き直す事ではなく、「こうしてほしかった」を実現したいわけでもなく

自分の人生の良い部分をトレーシングして悪い部分を削り何か書き加えてリザルトしたい訳でもない

私は何か、「無」から「有」を造ったというだけでありこれは完全に私とは別個の生き物であるという認識であり言い方として正確かは可否としないとして他人である

ただし「責任」として有するのは子、個人が何かを選びたいと生じたときにそれを造形出来るか、しなくてはいけないということである

望むらくは優劣ではなく何か他の、価値として、価値観として何かを感じられるような自由な生き物になって欲しいと願う


遺書みたいだな、コレ。


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