省察研究その19「出会い直し」

【I先生からの感想を受けて②】


 「学び」とは何か。という問いについて自分なりに応えたいと思う。でも、これは割と自分の中で確かなものがすでにある。「学び」とは「出会い」だと思っている。「出会い直し」と言ってもいいかもしれない。目に見えるあらゆる「人」「物」「事」はとても多くの情報をはらんでいる。しかし、一見するだけでは、普通に生活していくだけでは、自分が知っている側面でしかそれを見ることはできない。「○○さんは面白い人だ」「シャインマスカットはおいしい」「夏は暑い」、こういった一面的な見方で生活している。自分の目で見て、自分の頭で処理した世界の中で生活することは、安心を生むのだと思う。


 「学び」とは、この安心をある意味では壊し、新しい「人」「物」「事」への見方を身に着けることだと考えている。初めて悲しい顔をする○〇さんを見た時。マスカットを作る苦労を知った時。数十年前の夏よりも気温が上がっていると知ったとき。そこには、新たな出会いがある。「人」「物」「事」への出会い直しがある。


今まで見てきた○○さん、シャインマスカット、夏が今までとは違って見えてくる。それを私は「学び」だと考えている。ただ、根拠と言えるだけのソースはないなぁ。実体験を基にした考え。難しいから、また具体的な子どもの姿で感じる瞬間があった時にもう少し考えてみよう。


 あと、I先生とM先生の会話は面白かった。自分も以前、同僚の先生と同じように、授業の中で「どこにいたのか」話し合ったことがあった。でも、その時の自分はまだまだ若く、はたから見てすごい授業、深いことを学んでいそうに見える授業を作りたいという夢追い人だった。授業を俯瞰的に見て、よりよい授業にするために必要だと考える要素が足りない時には、自分がそのキャラクターを演じ、授業を補っていた。結果として、いわゆる面白い授業だったと思う。


しかし、今はやらなくなった方法。たぶん、自分自身が面白いと思えなくなっていったからだと思う。教室を俯瞰して見ることは、今でもする。なんなら趣味と言っていいくらいに、好きなことだ。そこに担任としての自分ももちろんいる。  


しかし、今は上から見ている自分と下で子どもと授業をする自分は別の思考で動いている。うーん、難しいな。思考が独立しているという感じかな。上から見た時に、「あー、なんだこの授業・・・」と思ったとしても、下にいる自分はその気持ちを受け付けない。勝手にやる。でも、その勝手が、自分勝手ではなくて、その時間の自然な流れにそった勝手になるようになってきた、というか、しようとしているんだと思う。授業者として俯瞰的に見る自分と、教室でその授業にクラスの一員として身を置く自分。

 ただ、総合の学習の居場所には今でもずっと困っている。悩んでいる。クラスの一員としてそこにいるには、どうしても邪魔だと思う瞬間が多すぎる。これまでの生活で、自分にも生きた学びがある。それが、総合での学びを子どもと共に作るのを邪魔する。だから最近は、ちょっと端の方にいる。子どもたちの学びは、子どもたちだけのものだと感じている。書いていて、考えたくもないことがまた1つ生まれてしまった。どうして総合だけそんな気持ちになるのか。勝手に総合での学びを特別視し、重きを置きすぎていないか。いや、置きすぎている。これは、また自分の育ちに原因があるんだろうな。教科の価値に差をつけてしまう。算数での学びよりも、総合での学びの方が幸せになれると考えてしまう。また、自分本意。どんどん見つかる自分の教師としての欠落した部分。自分のために教師やってるわけじゃないのにね。


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