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省察研究その18「性」


【出来事】

今日、ある子から性に関する告白を受けた。



【担任の省察】


 すごい勇気のいることを話してくれた。「教師も子どもから学ぶ」って言葉を痛感している。あの子のこれまでの人生、これからの人生を考えると、自分ってちっぽけだな。


教えられることなんて何もないなと思った。むしろ、あの子の言葉を聞いてから、これまでの自分の教師としての在り方、生き方を反省し、学んでいる自分がいる。




 でも、私は教師だから。教え導くことはできなくても、自分のこれからの生き方で、何か道というか、希望というか、可能性を示していきたい。(ついさっき、生き方を反省するって書いたばかりだけど)だいぶ大きくでてる気もするけれど、告白してくれた時、「先生だったら、大丈夫だと思ったんだ。なんか話せるって思ったんだ。」と言ってくれたから。悩みに気付き、支えてあげることはできなかった毎日でも、あの子にとって何か「話してみよう」と思えるものがあったんだから。そこをしっかり言語化して、洗練させていきたい。


また、あの子が「友だちにもいつか話したい。わかってもらいたい。」と話してくれた。あの子と3組のみんなとのつながりはこの先も続いていく。話したいと思った時、受け入れられるみんなであってほしい。そのために、今できることはきっとあるはずだ。




 以前、校長室で何かの話し合い?(NRTの結果を受けてだったかな?)を適当に集まった先生方でした際に、ある先生が「自分に合ったキャラクターで~」と話していた。このキャラクターっていう考え方は私も以前から考えてきた。しかし、私の場合はそこに付け加えてどんな自分だったら「楽」かを意識してきたつもりだ。「楽」でいることは生きやすい。恰好もつけないし、ガマンもしない。子どもたちの前でも、「楽」に話し、「楽」に関わってきた。また、その「楽」は自分だけでなく、共にすごす子どもたちにとっても「楽」と感じられるものでありたいと思ってきた。教室の机の上はいつになっても片付けられない。子どもに頼まれていたこともすぐに忘れてしまう。子どもたちにも、「ごめーん!」って謝ってばかり、頼ってばかりの日々。教師として相応しい姿だとは決して言えない。しかし、これが自分で、こう生きるのが「楽」なんだ。こんな私を3組の子どもたちは、担任として受け入れてくれている。ありのままの私と共にいてくれる。心地いいなって思う。



 自らの正しい姿で子どもたちを教え導く者が教師だとするのなら、大きく道を外れてしまっているかもしれない。しかし、見栄え、形ばかりの正しさを追い求めて何になるのだろう。机の上を常に整理しておくこと、忘れ物をゼロにすることは私にとっては絵空事だ。子どもたちにも、「楽」に生きていってほしいと願っている。算数が苦手な子も、運動が苦手な子も、ちょっと他より体が大きい子も、人と話すのが苦手な子も、姓に悩みを抱えるあの子も、自分を受け止めて生きてほしいと願っている。そして、受け入れ合って生きてほしいと願っている。これは、語って伝わるものではない。一緒に生活して、感じてもらえたらいいな。

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