第二章(5)歓待と布石と

更新履歴
[2018/07/27]
・改行ルール統一
・一部表記訂正、誤字修正

魔王の隠れ家を称する温泉旅館じみた建物。その廊下を歩いている亜人姿のサディナ。はだけた浴衣は彼女の豊満な肉体を隠しきれず、さらしに収まらない(収めようとしていない?)胸部が半ばほど露になっていた。考え事をしているのか常になく下を向いて、両肘を抱きしめるようにしてのろのろと歩いている。
『…はぁ、失敗したわ』
自分でも何故逃げ出したのか、わからなかった。基本的に機に臨んで逃げるという選択肢を持たない性質なのだ。魔王の常軌を逸した魔力、強大でありながらその制御の精緻さを目の当たりにして、自身がその場から逃げたことがサディナにとっても不可解であり、理性の部分で「失敗した」と自覚する部分だった。
そもそも、あの場で魔力を隠蔽していた真緒に直接探りを入れたこと自体が普段のサディナからすればおかしいのだ。恐らく心理的に真緒に気圧された事への反発だったのだろう。超越者であるラフタリアが傍にいることで、気が大きくなっていたという部分もある。
魔王があの場で偽装を解いたのは、こちらを威嚇する意図は無く、隠し立てするものは無いという意思表示だろうと理解できる。にも関わらずサディナが逃げ出したことで、後に残ったラフタリアにそのフォローを押し付けた形になってしまった。
「まぁ、過ぎたことを悔やんでも仕方がないわね」
部屋の扉の前でため息と共に独りごちると、気を取り直すように両手で自らの頬を叩いてから扉を開けた。
「ただいまー」
「あ、お帰りなさい、サディナさん」
「おや? ラフタリアとマオ殿は一緒では無かったのか?」
玄関の一番近くにいた二人、リーシアとエクレールが出迎える。
「ラフタリアちゃん、私の着付けじゃ納得できないって。だからマオちゃんと選手交代」
「それは、まぁ…」
「…サディナさん、何かあったんですかぁ?」
リーシアがサディナの顔を下から覗き込むようにする。
顔に出ていたか、と内心焦りながら、サディナは冗談めかして言った。
「何でもないわ、ラフタリアちゃんをマオちゃんに取られて悔しいだけ」
「マオ殿か… 不思議な人だな。普通に見えるのが普通じゃないと言うか」
「私は逆に納得しちゃいましたけどね。このくらい凄い人だと、こんなにも自然な感じでいられるんだなって」
『あらあら、当たらずと言えど遠からず?』サディナは二人の感性に心の中で感心する。
「まぁ、とりあえず穏便に事が進みそうで安心した」
「マオさん、いい人ですものねぇ。聖武器の勇者でさらにマオウだから、二倍キラキラしてるんですかねぇ」
「リーシアの計算の意味は良く分からないが、それはカワスミ殿と比較しているのか? 言いつけるぞ?」
「ふえぇぇ、違いますよぅ」
エクレールとリーシアの戯れを微笑ましく見つめるサディナ。返答に窮したリーシアがサディナの方を向いて、ぎこちなく話を逸らす。
「えっと、ラトさんから聞いてはいましたけど、サディナさんって亜人の姿にもなれるんですねぇ」
「そうよ、フォウルちゃんやキールちゃんと同じ」
「キール君が獣人けるべろす形態は疲れるって言ってましたけど、サディナさんの場合はどうなんですか?」
「慣れちゃったから、あまり変わらないわ。でも凄く消耗すると亜人になっちゃうから、亜人の姿の方が少しは楽なのかもしれないわね」
「サディナ殿は、昔から常に獣人の姿だったな。当時の村でも目立っていたから覚えている」
「昔ちょっと色々あってね。あまりこの姿でいたくなかったのよ」
「はー… 今は大丈夫なんですか?」
「そうねぇ、ここからは遠く離れた場所だし、昔の私のことを知っている人もいないでしょうから大丈夫だと思うわ」
そんな立ち話をしているサディナ達の後ろの扉が開き、ラフタリアと真緒が帰ってきた。
「ただいま戻りました」
「すみません、遅くなってしまいまして」
共に髪をアップにして、ラフタリアはお団子、真緒はシニヨンにしている。
エクレールとリーシアがそれに気付き、お互いの髪型を褒めあう華やかな様子を眺めながら、サディナは真緒とラフタリアの距離感が先程よりも親密になっているのを感じた。先程の自分のミスをラフタリアが上手くフォローしてくれた、と確信すると共に
『ああ、成程』
サディナは不意に理解する。世界の代行者、超越者となったラフタリア。
もう自分は彼女の保護者では無いのだ、という現実と喪失感。そして、自分に代わってラフタリアを支え得る力を持つ存在に対する嫉妬。それらから目を逸らすために、あの場から逃げたのだ、と。
なれば尚の事、マオを品定めしなくてはならない。サディナは心の内で決意した。

夕刻になり、仲居が宴席の準備が出来た旨、知らせに来た。真緒は少し前に中座している。男女合流し、連れ立って会場に向かう勇者一同。
会場は、畳が三十畳ほど敷き詰められた縦長の広い座敷で、既に膳が二列に向かい合った形で、部屋にあったものと同じ座椅子のようなものと共に並べられている。高めの座面に合わせて、膳の脚も長めになっているようだ。既に彩り豊かな先付が盛られ、冷たいおしぼりも添えられている。
席決めも紆余曲折ありながら何とか決まった。
各々が席に着いたのを見計らって、真緒が下座に正座して挨拶する。何時の間にか他の仲居と色違いの二部式着物に着替え、たすきをかけている。
「改めまして、本日は遠方よりようこそお越しくださいました。
救世の勇者様方の慰労の意を表しまして、ささやかですが宴席を設けさせていただきました。ごゆるりとお楽しみいただければ幸いです。
今夜のお料理は、主に魔物の国の食材を使って私なりにアレンジした料理になっております。お口に合わないものも多々あるかと存じますので、その際は遠慮なくこちらへ」
と同じく末席に座るロックを平手で示す。
「何でも食べるから、じゃんじゃん持ってきて」
「お料理はこれから順にお出ししますが、堅苦しいマナーなど気になさらず、ご要望は何でも仰ってくださいね」
そこに酒や飲み物各種を積んだフローティングワゴンが二台入ってきて、銘々に好みを伺いながら希望の飲み物を配っていく。
「では盾の勇者様」
全員に飲み物が行き渡ったのを確認した真緒が、尚文に挨拶を促す。
「ということで魔王の驕りだ。遠慮せず楽しんでくれ」
「酷い乾杯の挨拶ですね」
「「かんぱ~いっ」」
乾杯をしたものの見慣れぬ料理に躊躇する一同を見て、ラフタリアが真緒に話しかける。
「マオさん、お料理の説明をお願いできますか?」
「あ、はい。では既に膳に盛ってあります先付のご説明を。
向かって左手前から順に、茶碗蒸しのエビ餡かけ、アオナと湯葉のお浸し、ナスの揚げ浸し、キュウリの梅肉和えです。
茶碗蒸しの原材料は卵です。キジケイというキジとニワトリの中間のような鳥の卵ですね。こちらの大陸で一番食べられている鳥といえば、これです。この卵を溶いて、海草の出汁で割り、下茹でしたユリ根とキノコ類を入れて蒸し上げ、上に炙ったエビの剥き身を入れた餡をかけました。
アオナはラゴント地方原産の植物を私が品種改良したもので、当地で栽培している野菜では一番生産量の多いものです。葉はハクサイやキャベツ、根はダイコンやカブに似ていて、種から油も取れます。その葉を茹でて、ノマメという大豆に似た豆から作った湯葉と一緒に絞ってお浸しにしました。上に乗っているのは削り節モドキ、乾燥熟成させた干魚の身を削ったものです。お好みでお醤油をかけてお召し上がりください。
ナスはメルロマルク産のものと色が違うかもしれませんが、お味はそれほど変わらないでしょう。それを先程のアオナの種から取った油で素揚げにしてから、出汁とお醤油を煮含ませたものです。上にのっているのはアオナの根とショウガをすりおろしたもので、辛味があります。
キュウリもメルロマルクにありますでしょうか? 当地では、最近になってようやく生産量が増えて、未加工で食べられるほどになりました。塩揉みしたキュウリに和えられている赤いものは、ミューメの実をペリラの葉と一緒に塩漬けにした梅干のようなものです。酸っぱくて塩辛いので、予めご留意ください」
馴染みのある名前を聞いたからか、先ず聖武器の勇者達が食べ始め、眷属器の勇者達もそれに倣う。美味しさに目を丸くする者、難しい顔をしている者、皿と盛付の美しさに感心する者、様々だ。聖武器の勇者とラフタリア、サディナと何故かリーシアは器用に箸を使っている。
料理は次々に運ばれてくる。
「今からお配りする篭に盛られていますものは、豆と芋のフリッター。豆はノマメの若豆、芋は里芋とかタイモのようなものです。それらを一度蒸してから衣を付けて油で揚げたものです。揚げたてですので、ご注意ください。
椀の中にありますのは、豚の三種煮。豚の三枚肉とモツ、タンをショウガとお醤油、お酒で長時間煮込んだものです。お好みで添えてあるネギとカラシをお使いください」
料理の給仕と解説、勇者たちに酌をしながら話し相手、さらには料理の味見や仲居達への指示と、真緒は多事多端の様子。しかし、その立ち振る舞いは常に落ち着いていて、見ている者に慌ただしさを感じさせない。
酔いも回り、場が賑やかになってきた。酒を嗜まないもののために、真緒が白飯を用意し、昼に食堂で食べたフォウルらを中心にこれも好評のようだ。
「昼の食堂でも思ったが、豚肉の風味がメルロマルクと違うな」
麦酒のお代わりを注ぐ真緒に錬が話しかける。
「こちらの大陸のブタはイノシシに近いからでしょうか? 魔物の言葉ではススと呼ばれています。体長は人間の大人よりも大きくなりますし、立派な牙が四本も生えていて、捕まえるのには苦労します」
「家畜になるのか?」
「人の世界では家畜化は出来ていませんね。流通しているのは、狩猟された野生種が多いみたいです。ここではウルクと呼ばれる獣人が専門に飼育してくれているおかげで、安定して食べられますよ」
宴は和やかに進み、別席に酒を注ぎに行くもの、食べられないものをロックに持っていくものなど、次第に席が流動的になる。
そんな折、尚文の前にフィーロとキールがやってきた。
「兄ちゃん、俺クレープが食いたい」
「頼めばいいじゃねーか」
「俺は兄ちゃんが作ったクレープが食べたいんだよ」
「フィーロもー」
「お前ら、慰労で来てるのに俺に料理させる気か?」
面倒そうに言いながら尚文は辺りを見回し、真緒の姿を求める。向かい側のメルティとルージュを相手に談笑しているのを見とめて、席を立った。真緒も近付いてきた尚文に気付き、メルティとルージュに断ってから立ち上がり、尚文の方を向く。
「悪いがコンロと鉄板を借りれるか? あと小麦粉と卵、あればミルクも」
「中力粉と全粒粉、そば粉もございますが、何がよろしいですか?」
「じゃあ、全粒粉で」
「かしこまりました。お席にお持ちしますので、少々お待ちください」
尚文が自席に戻ると、そこには何時の間にかサディナが座っていて、隣の席のラフタリアと話していた。
「あらー尚文ちゃん戻って来ちゃったわー
仕方ない、ここに座っていいわよー」
「座っていいも何も、そこは俺の席だ」
「だから、ここに座っていいっていってるのよー」
そう言いながらサディナは自分の腹の上を指差す。尚文が溜息をつき、踵を返そうとしたところで、サディナは立ち上がり、尚文の腕に手を絡ませた。
「あらあ、獣人のつもりでいたわー この姿ならこっちよね」
サディナは尚文を強引に座椅子に座らせると、左側からしな垂れかかる。 酒を口に含み、口移しで飲ませようとするサディナに、ラフタリアが抗議の声を上げかけたところに真緒が現れた。
「お待たせしましたー …あら、お取り込み中でしたでしょうか?」
「いや、構わない」
尚文がサディナを無下に押しのける。真緒は両手に材料を抱え、七輪がその手前に浮いていた。念力の魔法を使っているらしい。七輪を尚文の膳の横に降ろし、材料を傍に置きながら説明する。
「全粒粉はふるいにかけてあります。
このミルクは水牛のものなので、味は濃い目です。少しですが、同じミルクから作ったバターとクロテッドクリームもお付けしました。
卵は生憎キジケイのものを切らしておりまして、別の種類、アヒルの仲間のものです。キジケイの卵に比べて混ざりにくいですので、卵黄だけお使いになった方が良いかも知れません。
後は…お使いになるかわかりませんが、塩と重曹と甜菜糖、木苺のジャム、それにメープルシロップ」
「凄いな」
「この布にアオナの油を染ませてあります。フライパンをお持ちしましたが、鉄板の方がよろしかったでしょうか?」
「いや、フライパンの方が助かる。ありがとう」
「どういたしまして。出来たら私にも一口食べさせてくださいね」
笑顔でそう言うと下座の方、ロックの隣に移動し座る。そこには尚文に準備したものと同じ七輪やフライパン、材料類が準備されていた。目敏くキールが気付き、寄って来る。
「おー マオーの姉ちゃんもクレープ焼くのか?」
「別のものですよ。盾の神様と同じものを作ったら、敵いませんから」
卵を黄身と白身に分け、卵白を冷やしながら手早くかき混ぜる。ほんの少しだけシロップを加え、さらに泡立てる。完成したメレンゲを脇に置き、中力粉と卵黄、ミルクと甜菜糖、重曹少々を混ぜて生地を作る。先程のメレンゲと生地とを混ぜ合わせると、火にかけておいたフライパンに流し入れて焼き始める。
「おいおい、入れ過ぎじゃねーか?」
尚文の焼いたクレープを頬張ったまま喋るキールに笑みだけで答えながら、火力を調節する。甘い匂いに誘われてか、他のギャラリーも集まってきた。
「凄い膨らんできた」
「少し重曹多かったかなー」
真緒はそう言いながら火の通り具合を確認して、起用に片手で裏返す。「「おおー」」という歓声に気を良くし、得意げに胸を張ろうとして袖口をフライパンに引っ掛け、慌てて握り直す。焼きあがったものを皿に移して四等分に切り、クロテッドクリームを添えてメープルシロップをかける。
「なんかパンみたいだな、変な形だけど」
二つのフライパンを交互に使って、あっという間に六枚の大きなパンケーキを焼き上げた。
真緒は見学していたキールとウィンディア、リーシア、フィロリアル達に一枚ずつ配ると、最後の一枚を乗せた皿を持って、尚文の方に持って行く。
「クレープと交換していただけますか?」
「そっちはホットケーキか」
「まぁ、盾の神様の世界でもホットケーキと呼ぶんですね?」
「パンケーキでも通じるけどな。パンケーキって言うと、何か薄くて小さいイメージがあるから、その位の大きさの場合はホットケーキって感じだ。 個人的な意見だが」
「分かる気がします。ラフタリアさんも良かったら食べてみてくださいね」
「食べるか?」
「いただきます」
大きなパンケーキから一口ずつ切り出して食べる尚文とラフタリア。
「重曹だけじゃないな、卵白をメレンゲにして生地と混ぜたのか」
「神様には全てお見通しですね、そのとおりです」
「凄く美味しいです」
「ふふ、よかった。あ、盾の神様のクレープも、とても美味しいです。
流石ですね」
「そうか? しかし全体的に和食っぽい料理なのに、いいのか?」
「お口に合わないものを無理に食べるよりも、楽しく美味しく召し上がっていただくのが一番ですから」
朗らかに微笑む魔王の態度に言葉を失う尚文。尚文に絡みながら、その真緒の様子を伺うサディナ。あまりの衒いのなさに魔王の真意を掴みかね、気持ちの悪さを覚える。それぞれの思惑を外に宴は恙無く進み、時はゆるやかに流れていった。

晩餐が終わり、ちっちゃい者チームは部屋に戻された。残った他の面々は、思い思いの場所で寛いでいる。多くは宴会場の座敷の向かいにあるラウンジで酒を楽しんでいた。大きいテーブルでは尚文、錬、樹、ルージュ、そしてサディナとロックが酒に関する談義を交わしている。ラフタリアとリーシアそしてエクレールは、ちっちゃい者チームを部屋に送り、寝かしつけ(るのをメルティに託し)た後、窓沿いのカウンターに並んで、ガラス越しに月を眺めていた。そこに
「ちょうど良かった」
真緒が現れ、両手に持った盆をカウンターに置く。その上には二本の徳利と幾つかの猪口が乗せられていた。
「変幻無双流の皆様に是非ご賞味いただきたい、と思っていたものをお持ちしました」
真緒は悪戯っぽく向こうのテーブルに聞こえない位の声でこっそりと囁くと、徳利を傾けて手酌で猪口に注いでは配っていく。
「凄いな、これほど澄んだ気に満ちた液体は見たことが無い」
エクレールは手にするのを躊躇うかのように、目の前に差し出された猪口に満たされた液体を凝視する。
「これは献霊酒といって、かつて崇四教で精霊に捧げられていたお酒です。精霊を癒すとか酔わせるとか色々な謂れがあります」
「ほへぇ、じゃあアトラちゃんも飲めるかもしれませんねぇ」
「ラフタリア」
エクレールの声にラフタリアは頷くと、滑らかな動作で席を立って、後ろのテーブルに向かった。
真緒がアトラの分の猪口を準備している間に、ラフタリアはアトラの両脇を抱えて戻ってくる。その姿は何処かユーモラスにも哀れにも見える。
「もう、何なんですか? 尚文様との仲を引き裂く嫌がらせですか?」
アトラは憮然とした顔で上を向き、ラフタリアに向けて口を尖らせている。
「アトラちゃん、これ飲んでみませんか?」
リーシアが献霊酒を満たした猪口をアトラの前に差し出す。
「飲んで、と言われましても…」
アトラは複雑な表情で差し出された猪口を目を閉じたまま見る。ラフタリアがアトラを抱きかかえたまま座り、手の届く距離になった。
真緒はその様子、とくにラフタリアの手の部分をじっと凝視する。アトラはゆっくり手を伸ばすが、その半透明の手は猪口をすり抜けてしまい、献霊酒に濡れてしまった。一同の残念そうなため息が重なる。
「ラフタリア、飲ませてあげたらどうだ?」
「ちょっと、止めてください。ラフタリアさんも下ろしてくださいな、子供じゃないんですから」
傍から見れば子供にしか見えないアトラが恨めしそうに言う。ラフタリアはアトラを下し、自分の隣に腰掛けさせた。
「アトラ様、ちょっとよろしいですか?」
アトラの隣に跪いた真緒が右手を差し出し、アトラの手に触れようとする。何度か失敗して、その都度右手の気の巡らせ方を調整する。その精緻な気のコントロールに、リーシアとエクレールが同時に固唾を呑んだ。
ついに真緒の右手がアトラの右手を持ち上げ、握手する。息をつき満足気に頷くと、握手したままの右手小指に嵌めた指輪を左手で外し、カウンターの上に置いた。左手の指先を躍らせると、指輪の周りに光で魔方陣が描かれ、指輪が浮かび上がってゆっくりと回転を始める。
皆が興味津々と見守る中、真緒が呪文を唱えるたびにルーンが指輪の周囲に光の文字として浮かび上がる。そして左手の指先を弾くと、ルーンは指輪に吸い込まれ、文様として刻まれた。魔方陣が消滅し、カウンター上に落ちた指輪を再び左手にとって、まだ握手したままの右手でアトラの右手を掲げるようにすると、少し悩んでから指輪を中指に嵌める。
「すみません、利き手ではなかったので時間がかかってしまいました。これで持ってみていただけますか?」
真緒の言葉に、アトラは恐る恐る猪口に手を伸ばす。猪口が持ち上げられると周りから「「おおっ」」という感嘆が漏れる。
「手に物を持つ感覚…久しぶり」
上気した顔で呟くアトラの声に、リーシアが早くも眼を潤ませている。
「では、いただきます」
そう言ってアトラは猪口に口を付けようとして
「あ」
真緒が声を上げた時は遅かった。アトラの口は猪口をすり抜け、自分の手とぶつかってしまう。中の献霊酒が飛散し、驚いて猪口を取り落とすアトラ。ラフタリアはまるで予期していたかのような動作でアトラの腰に左手を回して引き寄せ、右手で猪口が落ちる前にキャッチする。
「申し訳ありません、思慮が浅すぎました」
真緒は座面に零れた酒を袂から出した手拭いで手早く拭き取った後、アトラに平身低頭する。
「だ、大丈夫です。私も不注意でしたから。お顔をお上げください」
アトラは驚いた表情で、平伏する真緒の腕に手を添える。硬い表情で俯いていた真緒は、ふと思い至ったように顔を上げ、首にしていた黒いリボン形のチョーカーを外してカウンターに置いた。右手をかざし、素早く指を躍らせ高速詠唱、先程の五倍、いや十倍の速度で魔力付与が完成する。チョーカーをアトラの首にそっと嵌める。
真緒の意図を察して、エクレールがラフタリアから猪口を受け取り、献霊酒を再度注ぐ。アトラが改めて猪口が持ち、ゆっくりと口に運ぶ。いつの間にかアトラの周囲を取り囲むように、皆が固唾を呑んで見守っている。
アトラの愛らしい唇に献霊酒が触れては煙るように分解されていく。
「…美味しいです」
うっとりした表情でアトラが言うと、歓声が沸上がる。ラフタリアがアトラを後ろから抱きしめた。心底ほっとした表情の真緒にリーシアが抱きつき、エクレールは真緒の背中を何度か軽く叩いて労う。
その歓喜の最中、リーシアが一際明るい声を発した。
「アトラちゃんの頭が撫でられます!」
チョーカーの力により実体化したアトラの頭を抱きしめ、リーシアが頬擦りをする。アトラは嫌そうに耳を伏せているが、どこか嬉しそうにも見えた。
「あらーみんな楽しそうね」
獣人の姿で大きな浴衣を着たサディナが、後ろからフラフラとやってきた。さらにどたどたと、けたたましい足音が近づいてくる。流石に騒ぎが大きくなりすぎると思ったのだろう、揉みくちゃにされているアトラが真緒に助けを求めた。
「真緒様、これってずっとこのままなのでしょうか?」
「チョーカーを外せば、効果は消えます。リボンの部分の裏に指を差し入れて念じれば、外れますよ」
アトラは直ぐ様チョーカーを外すと、飛ぶように尚文の元へ戻っていく。
「はうぅ、逃げられてしまいました」
そしてアトラと入れ違うように現れる、けたたましい足音の主。
「アトラ!」
「アトラさんはナオフミ様のところに戻られました」
「そうか、ありがとう姉貴!」
フォウルは来た時と同じスピードで、後ろのテーブルに走っていく。それを見送りながらエクレールは呟く。
「兄妹の勘か? たいしたものだが、一足遅かったな」
「そういえばマオさん、先程の魔法は何にでもかけられるんですか? ああいうアクセサリではなく、この器にかけたのでは駄目だったんですか?」
猪口を持って問いかけるリーシアに、真緒は身を縮ませながら答える。
「このお酒を召上がっていただくだけならば、それでも良かったのでしょうね。ですが、それだとその器で飲むことしか出来ません。
ものに触れたり、味わったり、匂いをかいだり、そういった感覚をアトラ様にも思い起こしていただければ、と。
――何て言って、そこに思い至ったのは最初の失敗の後ですけどね」
「あらまぁ、凄いもの呑んでるじゃないの貴女達。私も混ぜて欲しいわぁ」
「やれやれ、一番やっかいな人に見つかってしまったな」
「さぁどうぞ、サディナさん。献霊酒というお酒だそうですよ」
真緒は黙ってサディナに席を譲り、その場を立ち去る。ラフタリアは少しの間逡巡した後、真緒の後を追いかけ、その袖を掴んだ。真緒が立ち止まって振り返ると、ラフタリアは勢い余ってその胸に飛び込むような姿勢になる。お互いの顔が近い。ラフタリアは感情と思考を言葉にできず、じっと真緒を見つめる。きょとんとした顔で一瞬困惑を浮かべる真緒。直ぐにしっとりとした笑みを浮かべ、袖を掴んだラフタリアの手に自らの手を添える。それだけでほっとしたような表情を浮かべるラフタリア。
「そうそう、盾の神様と一緒にいていただけますか?
後ほど、お二人にお願いしたい事がありますので」
真緒はそう言い残すと、足早に去っていく。ラフタリアはじっとその後姿を見送った。

ラフタリアが思っていたよりも真緒が戻ってくるのは早かった。ルージュと雑談に興じている尚文の隣に座っていたラフタリアは、たすきを外した真緒がしずしずと近付いてきたのに気付くと、尚文の肩に触れて知らせた。二人揃ってテーブルを背にするように座ったまま、後ろを向く。真緒は煙水晶の眼鏡を外し、ローズクォーツの首飾りをしている。真緒に気付いたロックが嬉しそうにやってきて隣に立った。
「実はですね」
真緒は二人に少し身を寄せて片膝を付くと、遠慮気味にやや潜めた声で切り出す。ルージュは気を利かせて、少し離れた場所に席を移した。
「わが国なんと国名が決まってないんです」
「は?」
「先代魔王を初め、魔物を統治した団体や共同体は過去にも存在したのですが、どれも『魔王様とその手下達』といった感じで、国家運営という認識が無かったみたいなんです。
で、メルロマルクと会談するに際し、国名が無いというのも格好が付かないので、この機に世界の代行者たるお二人に素敵な名前を付けていただけたらな~って思うんですが、どうでしょうか?」
「何か条件とかこだわりは無いんですか?」
「魔物たちが発声し易いように、長音、短音、促音、撥音を組み合わせて、最大六文字くらいだと望ましいんですが」
「随分指定が細かいな」
尚文は腕組みをして、瞑目する。昔やりこんでたパソコンゲームで魔物の国がでてきた事があったな――確か
「「マーヴェッケン」」
尚文とロックが異口同音に呟いた。『しまった』という表情で互いを横目で見て、居心地悪そうにそっぽを向く。真緒とラフタリアは不思議そうに二人の尚文を交互に見る。
「何か、ナオフミ様の世界で謂れがある名前なんですか?」
「いや… 忘れてくれ」
「でも良い名前ですね。魔物のマで始まるので覚えやすそうですし、魔物県みたいで親しみがもてます。私は気に入ってしまいました」
両手の平を胸の前で合わせ、ニコニコしている真緒。
「う…」
「頂戴してもよろしいですか?」
よもやゲームから取ったとは言えず、口ごもる尚文。じっと見つめる真緒の圧力に根負けしたかのように言い捨てた。
「…好きにしてくれ」
深々と頭を下げ、早足で去っていく真緒と、それを追いかけるロック。
ラフタリアはそれを見送り、隣で溜息を付く尚文の手をそっと握った。

夜もふけた女性陣の部屋。ラフタリアは自分の布団の中で目を覚ました。
世界の代行者となってから、長時間の睡眠を必要としなくなった。どんなに疲れていても、半時も眠れば目が覚めてしまう。
夜明けを寝床で待つこの手持ち無沙汰な時間が、ラフタリアはいつも苦痛だった。周りからは静かな寝息が聞こえてくる。微かに感じた孤独と焦燥感をかき消すように、胸の前で拳を軽く握った。
ふと、部屋の外に気配を感じる。誰かが静かに扉を開け室内に入ってきた。その正体を確認して、ラフタリアは緊張を緩める。眠っているウィンディアを抱いた真緒だった。彼女は音も立てずにウィンディアの寝床に歩み寄り、そこに彼女を寝かし付けると、そっと布団をかけた。さらに他の子達の様子を見て回りながら、時折布団を直している。ラフタリアの位置からは逆光でその表情は伺えなかったが、所作は優しさに溢れていて、見ているだけで心が温かくなるように感じた。
一通り様子を確認し終えた真緒は部屋の入り口に戻り、そこからサディナ、エクレール、リーシアを順に見て、最後にラフタリアに向けて唇に指を当てつつウインクする。そして入り口に置いたオープンバッグを肩にかけ、静かに部屋を出て行った。
ラフタリアは後を追いかけるか、寝床の中で逡巡する。
結果、警戒心が半分、悪戯心半分で、身体は布団に寝かせたまま、超越者の力で精神を霊体として遊離させて真緒の後を追う。念のために隠蔽の魔法を自身の霊体にかける。
部屋の扉をすり抜けると、出てすぐの通路で真緒が壁に背中を預けて、こちらを見ていた。
『待っていた? それに私の事が見えている?』と焦るラフタリア。だが、どうやら姿が見えている訳ではなかったらしい。真緒は暫しそうしていた後に、薄く笑いともため息とも取れるものを見せて、足早に歩き始める。零体のラフタリアはその後を追う。
階段を下り、真緒が向かった先は浴場だった。夕飯前に入った露天風呂の方では無く、一番奥が解放状態の半露天で、天井がある部分は魔法の薄青い光がほんのりと灯っている。室内から湧き出した温泉が川に流れ込んで、湯気を立てている。
真緒は脱衣所で二部式着物と長襦袢、補正着と下着を脱ぎ、行李に放り込んだ。先のたおやかで洗練された所作に比してやや行儀が悪く、周りの視線を意識していない。ラフタリアは悪い事をしている気がして、少し落ち着かなくなった。
真緒はさらに煙水晶の眼鏡を瑪瑙のブレスレットに変えると、束髪を解いて手早くまとめる。そしてバッグから幾つかのボトルと手拭いを取り出し、手桶に入れると両手で抱え、湯煙けぶる風呂場に入っていく。
「あら、ラフちゃん様」
「ラフー」
「お湯加減は如何ですか?」
「ラフーゥ」
「水分を忘れずに摂ってくださいね。 お酒だけでは駄目ですよ」
「ラフー」
風呂場にいた先客と会話した後、洗い場に座って手桶でお湯を汲み、頭から数回被る。濡れた髪を何度か濯いだ後に軽く絞って簡単に結うと、ルーファ(へちま?)で身体を洗い始めた。身体を丹念に洗い流した後、手桶にお湯を汲み、その中に持ってきたボトルから数滴たらして混ぜる。
真緒は温泉の湧き出る部分から離れ、天井のある端あたりの場所に移動し、角の取れてツルツルした岩の上に手桶を置いて、滑るように湯に浸かる。岩に背を預け、大きく伸びをした。浮き出た胸骨と共に、大きくは無いが形の良い双丘が露わになる。暫く伸びともストレッチとも取れる動作をした後、湯を張った手桶の中に解いた長髪を後ろ向きに浸した。
首を後ろに反らせて髪を揺蕩わせながら、真緒は細い指先を宙に躍らせる。その指の動きにラフタリアは見覚えがあった。尚文が奴隷や魔物を管理する時と同じだ。真緒は上下左右に視線を動かしつつ、時に難しい顔をしたり、嬉しそうに微笑んだりしている。
ラフタリアは暫くその様子を眺めた後、自身の霊体を呼び戻した。霊体は壁や天井をすり抜け、あっという間に自分の身体に戻る。周りの寝息を聞きながら、寝床の中でひとしきり思い悩む。そして意を決して、隣のリーシアを起こさないようにそっと布団から抜け出し、新しい手拭いを掴んで注意深く部屋を出た。
未だ慣れない草履に苦労しながら、浴場に辿り着く。着ていた浴衣やさらしをもどかし気に脱ぎ、空いている行李に投げ込む。持ってきた手拭いを頭に巻いて髪をまとめ、白煙に覆われた風呂場を進む。ラフちゃんの姿は無く、湯煙の向こうの真緒はこちらに背を向けているために気付いていない。先程から身動きしない真緒に、そっと近寄るラフタリア。長い黒髪を手桶の中に浸しながら、真緒は上向き加減に目を閉じている。
…眠ってる?
上気した顔、僅かに開いた口、あどけなさすら感じる表情に、ラフタリアはドキッとする。暫く見ていたい欲求に駆られながら、湯の中で眠るのは危険と思い、そっと肩を揺する。
真緒はびくっと大きく跳ね、目を覚ました。緊張で身を硬くして、肩に触れた相手から距離を取る。髪を漬けていた手桶が湯に転がり落ち、濡れた黒髪が肩や頬に張り付いた。相手がラフタリアだと認識すると、ホッとしたような申し訳なさそうな顔で笑みを浮かべ、ゆっくりと肩まで湯に沈み込む。
「ラフタリアさん――ごめんなさい。
あと、ありがとう」
頭を下げた拍子に水面に広がる自分の髪を手早く束ね、手拭いでまとめる。ラフタリアは辺りに立ち込める香に、記憶を揺すられる感覚を覚える。
私、この匂いを知ってる?
「ラフタリアさん?」
沈思して動かなくなったラフタリアの顔を覗きこむようにして、真緒が声をかける。浮かんでいた手桶を引き寄せ、ラフタリアの目の前で振ってみる。香気がより強くなる。
「真緒さん、この桶の中に入っていたのは何ですか?」
「え? ああ、香油です。山茶花と香橙と杏の種を絞って作りました」
傍に置いてあったボトルに手を伸ばし、少量を取って両手で擦り合わせる。確かに油っぽい匂いと柑橘系の匂い、そして甘い匂いが混ざっている。
手で温められた複雑な芳香が、ラフタリアの記憶の奥底を刺激する。これと完全に同じではない。この複雑な構成要素の幾つかが似ているのだろう。
「私の髪ぱさつきやすいから、こうして手入れを… 涙ぐましい努力と笑ってください。ずぼらなんで、洗顔も肌もこれで済ませてますけどね」
そう言って恥ずかしそうに頬を赤らめた真緒の顔は、化粧が落ちていることもあり、少し幼く見えた。ラフタリアは慌てて首を左右に何回も振る。
「いい香りですね」
「そうですか? こういう匂いの強いものは、お勧めしてよいか悩みます。獣人の多くはこういったものを嫌がりますし、亜人の方々も色々あるみたいですし…」
そう言いながらボトルを手渡そうとして、ラフタリアが岩の上に跪いているのに気付き
「ラフタリアさん、良かったら浸かりませんか? そこにいるとお風邪を召す…ことはないか… でも、お風呂の方が暖かいですよ?」
と勧める。
ラフタリアは自分が裸だったことに気付き、顔から火が出そうな様子で羞じらった。

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