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重い腰

どうも福光です。

noteを長らく書けていませんでした。

誰にも迷惑をかけないのでいいのですが、、、とはいえ誰にも迷惑をかけないから書かないんだ


私のnoteはいつもパブリックドメインの絵画を載せていて

それを選ぶのにかなりの時間かけていたりするけれどそういう変なこだわりみたいなのが自分の重い腰をさらに重くしているのではないかと思った。


なので今回はサムネイルを後でつけようと思っています



いやはや


もうすぐグラコロが始まるんでそれを食べたら私の冬がはじまりますよ

今年はなんか夏がとっても短かった気がして少しさみしいです。


気持ちはまだ2020でもないし今月自分が22歳になるなんて全く実感がない


2がたくさんですね。



朝ノート


少し前に朝ノート3枚分今の自分の気持ちを書きなぐると頭がスッキリして

その日の作業効率が上がるというのを見て

土日だけやってみたらとても良くて

結構感動してたんだが


見てみるとその本は海外で書かれた本なので

日本語の文量だと1ページでいいらしく

3ページでやっと頭が少しスッキリしたぞ!と思っていた私にそれは少なすぎた。


そしてそのルーティーンの大事なのが手書きということ。

人が考える速さが徒歩だとすると

PCタイピングはF1カーくらいの速さなので、考えを追い越してしまう


なので手書きでゆっくり整理しましょうということだったらしい。


私は逆に手書きだと考えが手書きを追い抜いてしまって

まったく追いつけなかったのでPCタイピングの方が丁度良いなと最近気がついた。


なんでこんな高速でいろんなことを考えてしまうのか自分でもわからないが(多分ADHD)


この頭には本当に苦労している。

いつ何時も、病める時も健やかなる時もずっと何かを考えてしまうのである。


信頼している占い師さんには

「お酒を飲まないとそのスイッチきれないよ」

と言われ、自分でも本当にそう思うので

考えるのをやめるにはアルコール中毒になる他ないようだ。


難しい選択、、、


自分の中の自分


このずっと考え事をしている自分の中の自分は小学5年生の時に生まれた

あの日のことを今でも鮮明に覚えている。


古い煙突付きのストーブで休憩時間みんなであったまっている時

(今日は少し肌寒いな、、明日からは上着着てこよ〜っと)


と自分の中の自分が言ったのだ

気持ち悪。誰よあなた しかも冷静だし

なんだこりゃとその日は上着を提案した自分に恐怖を感じていたが

いつのまにか私はその考える自分と生活していた。


家にいる時 登校する時 テストを受けている時 テレビを見ている時

考え事という枠に収まらないもう一人の自分のような存在が確かに頭の中にいてずっと何か対話をしている。


小学生くらいはもう少し1人の時間を楽しみたかった気もするが、これが運命なんだろう。


こうなってしまったからにはこのもう1人の自分とうまくするしかない。


自分の中の自分がいなくなった時、本体の私も死んでしまうのだろうか

それともまた新しい人生が始まるのだろうか


死ぬということ


小学生のとき

綺麗な夜桜を見ながらブランコを漕いでいて

初めて心の中で

(この桜を見て死にたいなぁ)

と思った。

その直後に今まで近くにいなかったというものが急に私に近寄ってきた


死んだらどうなるのか、何もかもなくなるのか、魂だけ生まれ変わるのか

真っ暗な世界でただただ彷徨い続けるのか


何も無くなるのと真っ暗な世界に彷徨い続ける自分を想像すると夜も眠れなくなった。

いつもは楽しかった祖母の家でのお泊りも、夜に死を思い出しては急に迎えに来てもらって迷惑をかけたりした。


その時期図書館で「死」について書いてある本を読み漁ったり

友達に死について考えたことがあるか片っ端から聞いてみたりした。


本の内容を覚えていないのでそんなに衝撃的なことは多分書いていなかったのだろう。


友達もみな丁度その頃死について考えて急に怖くなったことがあるらしかった。


夜にふと死について考えたり、初めて親族の葬式に参加したり

そういうタイミングだったようだ


みんなが共通のことに恐れて眠れぬ夜を過ごしている事実を知って心底安心した。

安心したと同時に、別に死ななくなったわけではないし死の恐怖がなくなったわけではなかった。


田舎の小学校に転校してからずっとそのことを考えていた。



死について色々みているいと、大御所のタレントや年配の人が

「いつからか死ぬことが怖くなくなった」

「もうやることはやったから、いつ死んでも悔いはない」


そんなことをみんな言っていた。


そこから私は自分がまだ10年も生きていなかったことを思い出し

あと何十年も生きたら怖く無くなるかもしれないという希望を抱いた。


あとは死後という概念が不確実なものだから1番理想とする死後を考えておけば怖くないという考えに至った。


私の理想は輪廻転生だった。


漠然と考える天国のようなものは、今の福光レイナという自分のまま

死んでいったものたちと真っ白な楽園のような世界でずっと楽しく暮らすというイメージ


だがそれが自分には真っ暗な世界と同じくらい怖くも感じた。

変わらない永遠の幸せ以上に怖いものはない、そう思えた。

恐ろしい白昼夢


なので死んでしまったら生まれ変わりたい、できれば人間に


今世で徳を積んでいないので良いものになれる望みは限りなく薄いが

生まれ変わるぞ〜〜〜と思うのに何も悪いことはないだろう


小学生の先生に

「レイナさんは生まれ変わりとか信じてそう〜〜〜(嘲笑)」

と面と向かって言われたが喧嘩上等だった

なぜなら私は信じているもなにも、自分のためにそれを願い始めたばかりだったのだ。


親しみやすく憎いところもあった先生だったが教師の立場で宗教に関係しそうな思想のことをイジるのはあんまりよくないだろ、と思いつつ


なんでバレたのかよく分からなかった。

滲みでてたんだろうか


未だに死ぬことは怖いが、子供のころのような途方もない怖さはもうない

その観点で自分を振り返ると成長したのかもしれない。

それか考えるのが面倒になったのか、、、


人間は答えのないものに対して悩みすぎたり考えすぎたり、労力を使って疲れたり悲しんだりする。

それが人間の良さでもありながら、それに人一倍縛られている人はとても辛かろうとも思う。


自分もたぶんそちら側の人間。



今はスッキリとした頭でラーメンを食べようかどうしようか考えている


「考えすぎだよ」と言われることが時々あるが考えすぎないくらいなら

考えすぎの方が私は良いのだ。


過去に考えなさすぎた行動で私が傷つけてしまった人や

「もっと気を遣って生きなきゃダメだよ」と言ってきた元恋人からの呪い


これらを背負って今私は、考えて考えて気を遣って大切な人たちをなるべく傷つけずに生きていきたいと思っている。


できてるかどうか分からないが、、、、


上手く生きるのって難しいですね。


                             おわり


1891 Edvard Munch 

Maleri




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