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タブーって言うからどんどんタブーになんだよ! んもうバカ!

僕はこれまで「政治はタブー」だなんて思わず生きてきました。

まったく、そんなことは露とも思わなかったんだけど、それは裏を返せば政治に背を向け、できるだけ知らんぷりしてきたせいなのかもしれません。いや知らんぷりというか、どう関わればいいのか、その糸口すら分からず、「選挙へは必ず行く」ぐらいしか、政治に参加している実感を持てずにいたのです。

2006年にスウィングをはじめて、あるいはそれなりに年を取って、少しずつ「あ、これは政治をしているんじゃないか?」という意識が芽生えてきました。それは「政治家やその周辺の人間が行う特権的な政治」ではなく、自分が生きる小さな社会をより良くしよう、いい感じで保ち更新してゆこうという、おそらく本来的な意味での、実感の伴う小さな政治です。

メンテナンスを繰り返し、更新し続けないと場も組織も社会もあっという間に腐ってしまいます。放っておいてうまくゆく部分もあるにはあるのでしょうが、注意深く丁寧に手を入れないとほころんでゆく部分のほうが圧倒的に多い。

場が腐ることによって起こる一番厄介な症状は、「他者や自分自身への優しさや思いやりを失ってしまうこと」だと感じます。メンテナンスの方法に絶対明快な答えのようなものはないので、手探り手探り進んでゆくしかないのですが、できれば大事なものを失いたくはないから、どうにもこうにも面倒臭いけれど、スウィングや、スウィングを取り巻く社会に対し、自分なりにできるだけ丁寧に接してきたつもりです。

ところがここへ来て、「政治はタブー」とかなりの頻度で聞くようになった。僕が変わったのではありません。「政治家やその周辺の人間が行う特権的な政治」に何となく近づいてみると、一気にそうした声が聞こえてくるのです。

するとどうでしょう!!

なんだか政治について話すことが恐ろしくなってきます。仲間たちと『ラジオクライニ』というラジオをはじめることが、何かいけないことのように感じたりします。

が、はたと気がつきました。

「政治はタブー」なんて言われたことがなかった(知らなかった?)僕は、政治を語ることをなんら怖れなかった。でも「政治はタブー」と言われ続けると、何だかタブーのような、触れてはいけないもののような気がしてきた。

ああ、これこそが、くそったれタブーの正体です。

もう単純明快。タブーでも何でもないのに、タブーにするからタブーになる。タブーって言うからどんどんタブーになんだよ! んもうバカ!

でも「政治はタブー」にもちゃんと理由があって、タブーにすることによって何らか利益を得たり社会的体裁を保ったり、そうしておかないと困っちゃう人がいるから、こんなネジくれたことになっているんでしょう。

しかしながら冒頭に書いたように僕はこれまで政治にどう関わればいいのか分からず、ずっと困ってきました。「政治と暮らしは繋がっている」とか「あなたの一票が社会を変える」なんて言われても、何となくその意味は分かっても、現に実感が伴わないものはしゃあないわけです。

でもやっぱり政治と関係ないことなんて世の中にひとつもない。あなたが今、鼻くそをほじろうとしているその指先にもきっと政治はある! いや、それはないかも!

自分のことなのに関われないってなかなかひどい話です。「政治はタブー」にしておきたい人たちによって、いつの間にか政治がとてつもなく遠いところにあるかのように思いこまされ、諦めさせられ、去勢され続けてきた結果、僕たちは「政治」イコール一過性の選挙活動や「清き一票」や国会中継や(なぜかとってもエラそうな)閣僚たちの姿をイメージしてしまうようになってしまった。

まずはその回路を、ええ加減更新しなければならない。言い換えれば政治のハードルをグン! と下げて、ラジオくらいに、ラジオクライニ、自分の生活にとって普通で、気楽で、当たり前のことにしなければならない。だってそこが元々の位置なわけなんだもの。つまり元サヤ!

とは言えやる気満々というわけではなく、むしろ諦念や絶望感のほうが強いです。

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現・京都市長陣営による、2020年1月26日(よりにもよってスウィングの設立記念日でした……)新聞掲載広告「大切な京都に共産党の市長は『NO』」。生きている限り悪夢のような出来事は時々訪れるけど、あの悪夢は今でも嘘だと信じたいくらいです。思い出すたび怒りと悲しみがないまぜになった、暗い気持ちになります。

でもあれが、僕たちが生きる社会の、ウソ偽りない(少なくともひとつの)現在地なんだと、ほとんど暴力的に直視させられました。心のどこかで「もう滅びてしまえばいいのに」と、何もかもを投げ出したくなる自分がいます。でも諦めきれず、なんとか、まだなんとかなるかもしれないとファイティングポーズを取る自分がいます。

子どものためとか若者のためとか未来のためとかいうんじゃない。そうじゃなく、今を生きる僕自身のために。失ってしまったものを、ラジオクライニ。



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