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選挙も市長もいらない

京都市長選挙前日、とある人とほんの束の間語り合った。「あの広告より怖いのは、あの広告を出した人(たちに支援されている人)が選ばれることなんですよね」と。

結果を知って、夢かと思った。いや実際、夢に見たのかもしれない。が、いずれにせよそれは悪夢だった。 

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大切な京都に 共産党の市長は「NO」

僕はあの広告を見て、我が目を疑った。そしてこんなことがまかり通るなんてウソだと思った。あまりの下劣さに、そこに在る100%の悪意に涙が止まらなかった。

クールぶった人たちは「お決まりの反共広告」だなんて、知ったふうな物言いをしていたようだ。そうか、お決まりだったのか。ならば僕が世間を知らなさすぎたのだろう。けれどあんたたちの言葉や言論に対する感受性も完全にイカれてしまっているようだ。頼むからもう黙ってくれ。

(きっと多くの人たちがそうであるように)いつの頃からか、この国はもう終わっていると感じてきた。でも、伝え聞く酷い状況はまだまだどこか他人事で、手応えや現実感に乏しかった……というより、認めたくなかったのだと思う。「目の前のこの社会」はまだ違う、と。

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けれどあの広告は本当に、超えてはならない一線を超えていた。そして最も恐れていたのは、その広告主たちの勝利であった。勝つために手段を選ばず、ひとりの人間を公明正大に排除しようとした勢力が勝ち、万歳三唱を繰り広げている、そんな「目の前の社会」に僕たちは確かに生きていて、そんな社会を作っているのは僕たち一人ひとりだ。

終わっている社会が、自分事になった瞬間だった。

けれど意外なことに、僕にかすかな希望をもたらしてくれたのは、スウィングにも大勢いた「投票をしない人たち」だ。

そのうちのひとり、あちゃみちゃんは「なぜ投票に行かなかったのか?」という問いに対し、即座にこう答えた。

「だって私の一票では変わらへんもん」

キレ気味に言うそれは、どこかで聞いたような台詞だ。「それは違う」と僕は瞬時に髪を逆立てた(今は間違いだったと思っている)。例えばあなたの髪の毛はどうだ? と。一本一本があるからあなたの黒黒とした頭(?)があるんじゃないか。選挙もそれと同じだ。一票一票の積み重ねで全体が、勝ち負けが決まるのだ。票を投じなかった6割の人たちが、もし今回の選挙に参加していたなら、黒黒とフサフサになったのは違う人だったかもしれないと。

……ん? ……6割? ……60%?

つまり投票率は40%。改めて見るとこの数字のインパクトは絶大だ。選挙はわずか40%の票のなかで争われ、結果が出たけれども、「投票をしなかった人」が過半数どころかおよそ60%にも及んでいるのだ。

前回選より5ポイント増ということだが、誰がどう見たって圧倒的大多数であり、これはもう、個々人の問題なんかではない。

あるいは「投票をしない人たち」は義務と責任を果たさなかった不届き者……ではなく「選挙なんていらない」「市長なんていらない」とメチャクチャ冷静に、無言のうちに語っているんじゃないか。

選挙も市長もいらない。

そうなのかもしれない。だって大枚はたいて、とんでもない人と労力と時間を費やして必死にアピールして、それでも6割の「いい大人たち」が投票しないのだ。もう何かが確実に死んでいるのは明白ではないか。僕自身もなぜ選挙が、市長が必要なのか、考えれば考えるほどまるで分からなくなってきた。

あちゃみちゃんがひとしきり(100万個くらいありそうな)選挙に行かない理由を語り終えた後、最後に言い放った言葉は真を突いていたように思う。

「どうせ分からないんやから、選挙権をなくしてほしい」

一票を投じた4割の人たちには、大なり小なりそれぞれの理由や根拠があるのだと思う。そして結果がどうであれ、「私は選挙に行った、政治に参加した」と少し胸を張ることができる。一方、選挙に行かなかった人たちは(僕がそうしたように)概して責められる。なんで投票しないの? 自分のことなのに、子どもたちの未来のことなのに、と。

でも現に、政治と不可分と言われる暮らしをつつましく送る彼女は、そして6割もの人たちは、投票に行かないという選択をしたのである。

そして「分からない」は、政治家の言うことは難しくて分からない、そして同時に誰を選べはいいのか分からないという意味だ。

確かに。

簡単ならいいというわけでもないだろうが、彼らの喋り、主張、訴えは難しくって分かりにくい。しかも「選挙戦」というお祭り騒ぎの限られた短期間だけに現れて、やたらと愛想よく手を振りまくり、皆が皆分かりにくく、でもいいことっぽいことを言うだけ言って、「選挙戦」が終われば瞬く間に姿を消す。

つまりまったく暮らしと地続きではない。だから真剣に考えれば考えるほど誰に投票したらいいのか分からなくなるし、気持ちが萎える。まったくもって正論である。

そして、あちゃみちゃんが「私の一票では変わらへんもん」と言ったのは、「誰が市長に選ばれるのか?」という結果ではなく、この社会そのものを指しているんじゃないか。それは即ち、選挙は有権者の義務だの責任だのという正義を恥ずかしげもなくのたまう僕なんかより、よっぽど深い失望であり絶望である。

学校に行かない子どもを責めるのは、引きこもりだのニートだの社会に出ない大人を責めるのはもう違う。

同じように「投票しない人たち」を責めるのではなく、その圧倒的大多数の声に耳を澄まし、耳を傾けること。それこそが綺麗事ではなく、暮らしと政治を繋げるヒントであり、かすかな希望であるような気がする。60%は単なる塊ではなく、意思ある市民一人ひとりなのだ。

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あんなあってはならないヘイト広告を出したメディアに、本気で社会を変えようとしている候補者に、本物のメディアとして、政治家として、自身の信条や政策を訴え続ける、その覚悟があるのだろうか。 

いや、もはや本物のメディアも政治家もクソもない。問われているのは「政治そのもの」である自身の生き方、それだけなのかもしれない。

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