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心と体と

視覚や聴覚、肌を触られることにも過敏だ。

目(脳?)を守るために普段はカラーレンズの眼鏡をかけているが、レンズが傷んでもなかなか交換に出しにくい。

もうひとつの眼鏡は夜や室内用のクリアレンズなので、外出を伴う普段使いには適さないからだ。

こういう時の為にカラーレンズの眼鏡をもうひとつ持っているのだが、細心の注意を払って選んだはずなのにツルが当たる耳の上側がどうしても痛み、瞬く間に頭痛を起こしてしまう。何度も調整してもらったが解決はせず、そろそろメルカリに出すかなあと考えているところだ。

更に10~15年とかけ慣れた眼鏡でさえも痛みを起こすことがあるのに、コロナ禍以降はマスクが新たな「日常着」となり、左耳の痛みは増すばかり。マスクを強制するかのような世相にも違和感や反発心があるが、そもそも身体的な理由でできないのである。

誤解を呼ばないためにも『マスクを強制するかのような世相にも違和感や反発心があるが、そもそも身体的な理由でできないんです』と書いて歩いたほうがいいのだろうか? 

ちなみにコンタクトレンズは十代の頃から何度か試したがどうしても無理で、たとえつけられてもどうせサングラスをかけなければいけないから意味がない。

耳の過敏さには耳栓、イヤーマフや音楽などで対処し続けた挙げ句、先日遂にノイズキャンセリングイヤホンを購入した。

高価だったし失くしてしまいそうだったので躊躇したが、パートナーが「あなたには必要」と後押ししてくれた。これまでも辛さは理解してくれていたし、最近人から発せられる耐え難い音について更に詳細に告白したからだと思う。

それらは恐らく普通の人ならばスルーできるものばかりだ。人物の好き嫌いは関係がない。黒板に爪を立てる音が多くの人にとって不快なようにただ音がキツいんである。だから辛い思いをさせてしまったと思うし伝える僕も言いづらかった。

映画『心と体と』(監督:イルディコー・エニュディ/2017年/ハンガリー)。

理解され難い生きづらさを抱えながら、一見静かな日々を生きる主人公に強い共感を覚える人は実は少なくないだろう。

あまりに変化に乏しい言葉や表情の裏側の、生きるために押し殺し続けたに違いない感情の嵐には易々とは気づけない。それが辛い。物語の最終盤、彼女はようやく、ごく些細な普通の出来事に大笑いする。鎧を脱ぎ去った本当の、本来の姿に喝采を送りながら、ただ自分自身として生きることの、この世の困難を改めて思う。

人が生きてゆくためには一方的にではなく互いに、理解はできなくとも理解しようとし合える他者が必要だ。

ただ食べて寝て生きるのではなく、心を殺さずに生きてゆくためには。

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