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『コトノネ Vol.42』掲載:福祉施設の公共性を問う、スウィング公共図書館

社会を幸せにするためのNPO、社会福祉施設であるスウィングを、<誰でも自由に参加できる公共の場>にするにはどうしたらいいか? ずっと考えてきた。

ふと気つけばスウィングは「障害者」と名づけられた人たちを中心とした、特定のメンバーばかりが集う場になっていたからだ。新たなお客さんが扉を開けにくい、常連ばかりの居酒屋のように。

僕たちはカテゴリー別に生きているわけではない。けれど社会的に弱い立場にある(そうした立場にさせられがちな)人を対象とした、<制度化された福祉>に囚われてしまうとついついこうなってしまう。

制度は必要だと思う。でも制度以前の<本質的な福祉>とは、カテゴライズされた誰かではなく万人が幸せになるための権利、いや幸せを希求するための権利なんじゃないか、そんな風に考えてきたのに。

たとえばアートはアーティストのためにあるのだろうか? 学問は学者のためにあるのだろうか? 政治は政治家のためにあるのだろうか?

違う。どれもこれもやはり万人のためにあり、誰もが自由に楽しんだり感じたり考えたりできるもののはずだ。でもなぜか遠く、自分と地続きな感じがしない。どうやら僕たちは制度や専門化や特権化によって、あちこちで強烈な目くらましを食らってしまっているらしい。

ある意味スウィングは公的に守られたセーフティゾーンである。世間の常識からは逸脱した仕事を仕事とし、お金の大小で物事を判断せず、制度的に<障害者(被支援者)/健常者(支援者)>とに二分化された構造をほどきながら、一市民同士として助け合う文化を育み続けてきた。そうした文化を様々な仕事や試みを通して外へと持ち出し開いてきたつもりだったのだが……。 

はじめに戻る。

社会を幸せにするためのNPO、社会福祉施設であるスウィングを、<誰でも自由に参加できる公共の場>にするにはどうしたらいいか? 

何年も考え続けてようやく辿り着いたのが図書館。スウィングのどこかに図書館をつくるのではなく、丸ごと図書館になってしまうという構想である。

カフェやお店にすることもできたかもしれないが、それではお金のない人は来られなくなってしまうし、じゃあ「どなたもお気軽にお入りください」なんて言ったところで、そんなの入りにくいったらありゃしない。

とりわけ学校に行かない、行けない、行きたくない子どもたち。福祉制度の利用者として、つまり障害者としてはスウィングに来たくない人たち。たとえば大型ショッピングモールのベンチに誰とも話さずただ座っている、(恐らく多くは定年退職後の)孤独そうな男性たちの存在などがずっと気になってきた。

でも図書館なら誰でも知っているしお金もかからないし安心して過ごせるんじゃないか。本なんて読まなくったって、「図書館に行く」という大義名分や正しい響きによってクリアできるものがあるんじゃないか。そのためにはしっかり図書館のふりをする必要がある。

2年以上の準備期間を経た2021年9月1日、「スウィング公共図書館」はオープンした。蔵書は現在、約2,300冊。5つのアトリエ全てに書棚と閲覧スペースがあり、各入口には入室難易度を星の数で示すサインを設置している。スウィング、クセの強い人が多いから。

開館以来、想像以上にいい感じでご利用いただいており、何より子どもたちが読書なんてそこそこに自由に過ごしているのが嬉しい。僕が仕事をしているリジチョー室も閲覧室のひとつ。入室難易度は満点の星5つだ。

先日恐る恐る入って来た高校生は家に帰ってこう言ったそうだ。

「ついに入れたよ!」

本を読んでも読まなくても。勝手に公共。この小さな図書館で、小さな幸せを感じられますよう。

※ この文章は『コトノネ Vol.42』(発行:株式会社コトノネ生活/2022)より転載しました。


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