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人格の再現を完璧に行っていない創作は神作家とは呼べないのでしょうか

 カップリングにおける解釈と神作家についてのマロ返です。発端は下記の「私はなぜ顔カプが楽しめるのか」について書いた考察記事の一文です。

 このゾロはサンジに恋愛感情を抱いているが「恋愛なんてくだらない(人格の再現)」「お前はどうしようもないアホだし(相手への認識・関係性の構図の再現)」と原作の人格と関係性の構図はそのままになっている。
 (中略)
 人格の筋を超厳密解釈して辿っていけば、想いをどのように設定しても必ず相手方の人格との兼ね合いから関係性の距離感や温度感は導き出せる。だから(私は原作で関わる描写が存在しない)顔カプも楽しめる。

 なおそもそも人格の再現性の絶対厳守をする人は超少数派なのが大前提です。でも書く人は居るので…世の中には神作家がいるので…。

この記事を発端に頂いたマロですが、マロ内容とは無関係なので元記事は読まなくていいやつです

この記事について、以下のようなマシュマロを頂きました。

人格の再現を完璧に行っていない創作はhotさん的にはあまり神作家とは呼べないと感じるのでしょうか。

マシュマロ

 非常に興味深い捉え方だと感じました。なので私の「神作家」に対する見解を書いてみます。


1)自分の性癖を表現の中核に置く作家が、自分にとっての神作家である


 どうもマロ主さんは「解釈の客観的存在価値」と「自分の好み」を混同しているように感じました。

 ︎︎カップリングにおける神作家は「自分の性癖ドストライクの作品を生み出す人物」です。十分な過去の作品実績・より多くの人々の需要を満たしたという客観的な基準を元に「神作家」と呼ばれるわけではありません。「神作家」とは私たち人それぞれの性癖の分だけ、その性癖を表現する作家を指します。

 なので性癖の異なる他者(私)と同じ認識を持つ必要はありません。誰かにとってはなんの価値もない作家でも、その作家の作品がまた別の誰かに刺さればそれは誰かにとっての「神作家」です。

 逆に、自分の性癖ドストライクを描いてくださる神作家を、その性癖に興味がない人に神作家だと認識させる必要もありません。

2)どの解釈も同じ空想だから楽しめるのではなく、萌えるから楽しめる


 さらに掘り下げて認知のバグを整理していきましょう。特に気になったのが以下の文章です。

と解釈し創作されたものと、同じだけの価値があると私は考えるのですが、(原作でゾロとサンジが互いに恋愛をしている描写が原作にない以上、解釈から成る想像であることにはどちらも変わらないと感じるため)

マシュマロ

 これは認識が間違っています。私たちは「解釈から成る想像に正解はないから作品を楽しめる」のではありません。「その解釈に自分が萌えるから楽しめる」のです。

 簡単に言うと、マロ主さんは「恋愛をしても原作と変わらないゾロサン」も「恋愛をして大きく変わるゾロサン」もどちらも楽しめる(萌える)というだけです。

 マロ主さんの言う「(どの解釈のゾロサンも)同じだけの価値があると私は考えるのですが」は、「私はどちらの解釈でも萌えるのですが」という意味のそれ以上でもそれ以下でもありません。

 なぜならマロ主さんの仰るとおり、どちらも想像であるカップリングの解釈に客観的評価を求めることはできないからです。原作に存在しないカプ解釈の価値とはどこまでも人それぞれの「主観による評価」であり「好み」です。マロ主さんは「私はどっちも好みなのにhotさんは私好みのこっちの作家のことは神作家と呼んでくれないの?」と言っている状態です。

3)カップリングの解釈とは「自分が見たい2人の(萌える)姿」である

(原作でゾロとサンジが互いに恋愛をしている描写が原作にない以上、解釈から成る想像であることにはどちらも変わらないと感じるため)

マシュマロ

 マロ主さんは、ゾロとサンジの異なる恋愛解釈に「同じだけの価値がある理由」を「”原作にない(原作の人それぞれの)解釈から成る想像なのだから”どちらも変わらない」と認識していますが、この視点はカプ創作の本質から大きく外れています。

 まず 「原作の解釈」と「カップリングの解釈」は別物です。「原作の解釈」とは原作から読み取れる情報(読解)から2人の関係性の温度感を自分なりに捉えることです。

 原作を読解基準で解釈した場合、そもそも原作のゾロとサンジが恋愛関係になることはありません。(そんなことない!と思う方は、作品読解における解釈とカプ界隈で使われる解釈という言葉を混同しているか、作品の全体像における物語の文脈や役割構成の読解を行わず2人だけを抽出して解釈をしているか、原作をBL雑誌で連載されている漫画だと思っています。)

 「もしゾロとサンジが恋愛をしたら~」と想定している時点で「恋愛しているゾロとサンジを見たい」という原作の読解基準の解釈からは不可能な「個人的な好みの想定」をしています。原作本編でゾロとサンジが恋愛関係になることはありません。恋愛をしたらという想定自体が原作の読解基準の解釈に矛盾します。

 ではなぜゾロとサンジが恋愛するのかというと、それは原作の解釈から成る想像ではなく「私たちが見たいから」です。この時点で「自分の好み」が反映されており、原作の解釈から成る想像(可能性)ではありません。

 順を追って説明します。

 二次創作におけるカップリング解釈とは、キャラや2人に対する「見たい部分(萌える部分)」を重点的に咀嚼したものです。その見たい萌えポイントを強調し味わうために、原作から一歩踏み込んだ原作にはない関係の2人を書きます。

 おそらく「同じく恋愛をしているゾロとサンジに萌えている=ゾロサンが好きな人」と一括りに考えてしまうのでしょうが、同じ「恋愛」でも、「恋愛」を通して見たい2人の姿(自分の萌え)は人それぞれ異なります。

  • 二人が強い恋愛感情を向けあっている姿が見たい

  • 二人がイチャイチャしてる姿を楽しみたい

  • 二人が心の繊細なやり取りをしながら恋愛感情を抱いていく丁寧な過程が見たい

  • 二人の設定を元に美しく構成された恋愛物語が見たい

  • 二人が喧嘩しながら明るくコミカルにラブコメする姿が見たい

  • 二人を様々な状況に置くことで、原作の二人らしさを楽しみたい

 私たちは常に「自分が見たいもの(自分の萌え)」を起点に創作をしています。

 ある作家がゾロサンを考えたとして、原作の解釈の結果「原作のゾロとサンジは恋愛しても変わらないだろう」と想像して作るのではなく

  1. 「恋愛をしても変わらない姿のゾロとサンジが見たい(好み)」を基盤に

  2. その詳細を解釈から想像して話を作ります。

 またある作家もゾロサンを考えたとして、原作の解釈の結果「原作のゾロとサンジが恋愛をしたら変化がある(かもしれない)」と想像して話を作るのではなく

  1. 「恋愛して変わるゾロとサンジの姿が見たい(好み)」を基盤に

  2. その詳細を解釈から想像して話を作ります。

 ︎︎恋愛の温度感の解釈は必ず作家それぞれの「好み(見たい2人の姿)」を基盤に創作され、その詳細を解釈から成る想像で作り込みます。そして、読み手の「好み(見たい2人の姿)」によって楽しめるかが決まります。

 自分の見たいもの(2人の萌える部分)を基盤にし重点的に表現する作家が、人それぞれの自分にとっての神作家なのです。

4)「2人らしさに萌える人」「2人が愛し合う姿に萌える人」


人格の再現を完璧に行っていない創作はhotさん的にはあまり神作家とは呼べないと感じるのでしょうか。

マシュマロ

 なぜ私が「人格の再現を重視する作家」を「神作家」と呼ぶのか語ってみましょう。

 それは私がカプ二次創作において、恋愛を通すことで逆に見える変わらない原作の「二人らしさ」と、恋愛という関係上ゆえの「キャラらしさ(人格の再現性)から推測できる、状況における原作にはないが原作の2人を感じさせる関わり方の多面性」に非常に萌えるからです。

 原作には似たような状況下の描写は存在しないが、その状況において人格の筋を辿って推測できるキャラの判断・思考・行動・言動・関わり方の「原作らしいキャラ人格・関係らしさ」に私はとても萌えます。

 「原作の人格・関係性・距離感が保たれているからこそ恋愛関係であることが萌える」のが私の性癖(個人的な好み)です。恋愛感情そのものは目的ではないのです。私はこれを「腐女子における関係性萌え寄りの人」と定義しています。そして私の性癖ドストライクを描いてくださる方が、”私にとっての"神作家です。

 逆に例えば「恋愛感情ゆえに認識・人格・態度・関係性が大きく変わる」カプ二次創作が好きな場合は、ゾロとサンジが愛し合っていることこそが萌えの中核にあります。

 恋愛によって人格・関係性・態度が大きく変わることはそこに強い恋愛感情が発生している証拠です。なので二人の間に恋愛感情が発生していること自体に萌える場合は、恋愛感情が強く発生しているがゆえの表現(人格・関係・行動・態度の変化)を表現の中核に置いたカプ二次創作になります。おそらくカップリング界隈はこちらの層が大多数かと思います。まさにBL(ボーイズのラブ)に萌えている方々ですね。

 そしてゾロとサンジが恋愛していればなんでも萌える方もいれば、特定の恋愛の在り方だからこそ萌える方もいます。ハピエンが好きな人がいればメリバが好きな人もいるのと同じです。

 私は大多数の層が好きな「キャラ同士が愛し合っていること自体」には高揚しません。昔からそういう性癖なのです。なので私は強い恋愛感情があるさまを表現の中核に置く作風に触れる機会は少ないです。

 安心してください。私が私の個人的な好みを持っていたところでマロ主さんの萌えを否定することにはなりません。マロ主さんは私(hot)の好みや価値観に関係なく、自由に”自分の”「好き」や「神作家」を愛し大切にすればいいのです。

 たとえ私がハヤシライスにしか興味がなくても、マロ主さんは自分の大好きなカレーを愛せばいいのです。ハヤシライスを愛し食べ続ける私に「私はカレーも好きだし、カレーもハヤシライスも同じく価値ある料理なのに、hotさんはカレー屋の主人は神とは思えないの?」と問うことがいかに奇妙かはご理解できるかと思います。これはhotさんはハヤシライス愛好家の人なんだな、で済む話なのです。

5)私たちの性癖(好き)に貴賤や正誤はない

 界隈では以下のような考え方が主流です。

カプ解釈なんてみんな同じく原作にない幻覚なのだからそこに貴賤はない

 もしかしたらマロ主さんもこの考え方を元に「同じく自由な幻覚だからどの解釈も同じく価値があり、全ての人間は全ての解釈を価値あるものだと考え、全ての作者を神作家だと呼ぶべきだ」と考えたのかもしれません。

カプ解釈なんてみんな同じく原作にない幻覚なのだからそこに貴賤はない

 この考え方は「カプ解釈に正解と間違いを求めてはいけない」という視点では理解しやすいです。しかしカプ創作の本質からズレているし、自己卑下的に感じて私はあまり好きではありません。

 自己卑下ならまだ良いのですが、皆同じく幻覚という考えの結果、「てめぇの創作もキメェ妄想なんだよ高尚ぶるな」と暴言を投げかけられた過去の出来事は今でも根に持っています。(どうやら原作の2人の距離感が好きな人=高尚ぶってる人という認識のようです。)

 そんなわけで「カプ解釈は全部幻覚」という考え方はカプ創作の本質を突いてないし、他人のカプ創作の卑下に使う人が現れるから好きではないのです。なので別の視点から提唱させてください。

 ︎︎カプ二次創作の解釈は全て「人それぞれの見たい好きな2人の姿」なんだから、みんな人それぞれの自分の好きなカプ像を愛し自分の性癖を誇れ。

 すべてのカプ解釈は私たちの性癖(こんな2人が見たいという想い)によって作られ、その性癖(2人のどんな姿が好きか)に貴賤や正誤はなく、みな自分の好きなものを自由に好きでいていい。

 カプ解釈に正解がない(すべてのカプは幻覚)のではなく、私達の「好き」の在り方に正解はないのです。

 私たちは「正しいから・自由な幻覚だから」その解釈を好むことが許されるのではありません。その解釈が性癖(好み)なら無条件にその解釈が好きでいて良いのです。自分が好きなものは誰かの許可なく好きであって良いのです。どうか、みなさん自分の感じる「自分にとっての好き」を誇り愛してください。

 攻めをスパダリ化する人は格好いい攻めが好きだからスパダリ解釈をしているのかもしれません。攻めのスパダリ化が解釈違いの方は人間臭い攻めが好きなのかもしれません。カプ解釈とは自分の見たい2人の姿(好み)によって組み立てられます。カプにおける解釈違い・解釈一致とは、キャラ像やカプ像にみいだしている「自分の好きな部分」が一致しているかどうかでしかありません。

 ︎︎ある人は人格や関係性が変わるほどの恋愛感情を持つ2人に萌えればいいし、ある人は恋愛しても変わらない2人に萌えればいいのです。両方好きでもいいですし、どちらか片方だけが好きでもいいのです。自分の好みに他者の賛同や許可を得る必要はありません。何かを好きであること・興味がないことに「偉い」も「正しい」もありません。食べ物と同じです。何に萌え好むかは、人それぞれの絶対的な自由なのです。



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