あたらしいさんすう

小学校とかの教科書のタイトルに「あたらしい」がつくことが謎すぎて、何と比べてあたらしいんだろうといつも思っていた。なんでそんなことをきゅうに思い出したかというと新しくて軽いパソコンを使い始めたから。長い文章でもかいてみるかと思ってタイピング練習がてらTwitterに入りきらなさそうなつぶやきをここに意味なく散らしてみようと思ったのだった。

愛情が濃い人や内省的な人の文章にすごく惹かれてしまう。ついつい読んでしまう。どうしてこんなにも文章が上手なんだろう。たぶん頭の中で「ことば」で考えているんだろうなと思う。頭の中で「ことば」ではなく「映像」で考えている自分にとっては、なにかを他者に伝えるときに映像をいったん文章化することにちょっと骨が折れるため、「ことば」で考えているひとがうらやましく感じる。そういう人たちの頭の中を覗いたことがあるわけではないから、推測にすぎないのだけれど。

それでも頭の中の映像をノベライズすることはとても楽しくて癒しになる。見た夢を文章で伝えるみたいな感じで、頭の中の映像を文章にする。

「僕らが何年も経験を積んだり勉強したりしてやっとわかることを、当事者や当事者仲間たちは(こちらから見たら)’’いともたやすく‘’理解して(るように見えて)教えてくれる。苦しみや困りに思いを巡らせる量や濃さの圧倒的差異があるからだよ」

と私の頭の中に住んでいる精神科医が言っていた。ただ死にたい気持ちの手触りがわかるってだけで、自分の苦しみは大したことがないと思うし自分は人の気持ちがわからないなと思う。

優しく言葉をかけられて、うまく対応できない自分がものすごく悲しかった。きつい言い方で他者を攻撃することでしか愛がほしいと表現できない自分がものすごく悲しかった。察してちゃんになることをなによりも忌避しているのに、やってほしいことを遠慮して頼めなかったり、体調が悪いとか不安だとか、助けてほしいとか、やっぱりどうしてもすぐに言えないから察してちゃんだと思われてもしかたないのがものすごく悲しかった。教わった物事のすべてがちょっとずつ薄れていくのが怖い。安心と信頼がわからないのが怖い。人とかかわるのが難しいのはずっとずっと続く。自分を愛せないのもずっとずっと続く。どうして自分はこんなにバランスがとれないんだろう。どうしてすぐに助けてって言えないんだろう。

桜の花は散りどきがいちばん好きだ。満開と言われ木の枝のさきっぽにぽんぽんと花が咲いているのを見ると息が詰まるけれど、嵐のあと、花びらをちらちらと降らしながら、白とピンクと、みどりの葉っぱもある、カラフルな桜が好きだ。曇り空の時の桜を見るのが好きだ。晴れた日に少し遠くから見る桜の花は白く見えるのに、曇り空と比べるとやっぱり少しピンクで、近づいてみるとやっぱりピンクかもしれない、という微妙な色の感覚。曇りの日の白があってこそ、カラフルな桜に彩りが増してくる気がしている。春生まれなので父が私に、寅さんの妹と同じ「さくら」という名前をつけたがったけれど母が「さくらの木には毛虫がつくから」という理由で阻止したらしい。人間なんて、からだのあらゆるところに毛虫を飼っているようなものではないか、と思うので私はさくらでもよかったなと思う。父を求めて理想の父のような他人との関係性を繰り返す、おなかいっぱいにかじりつくしても笑顔でそこにいてくれる父を他人の中に期待し続ける、私がすでに毛虫のような人間なのだし。現実の父には甘える勇気はない。拒絶を恐れているから。そうしてまた繰り返す。拒絶を恐れているから、父性を求めては理想通りにならないことに対して攻撃的になる。どうしてここまでわかっているのに自分のダメなところを直せないのかな!解決していこうとしないなら、ゴールに常に親のトラウマを登場させるココロの分析に何の意味があるだろうか?!

桜の季節も終わっていく。私の大好きなナガミヒナゲシがもう咲き始めている。雑草の中でぴんぴんとオレンジ色の花を輝かせている。かわいさとポップさと、あくなき生存への欲求が憧れをひきおこす。自分との約束をぜんぶ守ることは不可能だった。自分に課しているものごとがあまりにも多すぎるから。他人との約束をぜんぶ守ることも不可能だった。どうしても自分がやりたい通りには体が動いてくれなくて、すぐ疲れたりひとりになりたくなったりする。「看護師は、集団の場で何が起こるか予測ができないことを恐れてはいけない」と、病棟勤務時代やっていた集団心理教育(グループワーク)の資料に書いてあった。いま興味を持っているダイアローグでも同じようなことが言われている(と解釈している)。予測できないと怖いなんて、そうやってがちがちに固めて失敗をこわがるからバランスがとれなくなるんだろうな、と思いつつ、一度の失敗が致命的に関係性を破壊したという経験しかないから、やっぱり予測不能なことやうまくいかないことに恐怖を感じる。こわいことがあるかも、とおなじくらい、こわいことがあっても対応できるとか、もしかしたらいいことがあるかもしれないし、こわいこともいいこともなにもないかもしれない、それでもいい、と思えるようになれたらいい。傷ついて傷ついて傷だらけになっても立ち上がらないといけないかもしれないし、もうすでにぼろぼろだから反射的に身をまもるために攻撃的になるのかもしれないが、守りたいものも傷つけてくるものもたいしたことがないと思えたらいいのかもしれない。何もわからない。まだ難しい。脈絡を求められていると勝手に思ってしまうから、やっぱりnoteは好きになれない。

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