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【小説】 神様のことなんですけど、


 風に揺らされた草は乾燥が進んでいるように見えた。それが足首を撫でて痒かった。
 しゃがんで、指先でつまんで擦ってみる。砂のように粉々になると思ったのに、割れるみたいにして千切れた。さっきまで繋がっていた箇所からは、水分が滲み出ている。生きているワタシに何をするの、と怒られた気がして、思わず手を離した。
「あら田町さん、こんにちは」
 明るい声に呼ばれて、弾かれたように顔を上げる。アパートの門の内側で、小さな子供みたいにうずくまって草を凝視する住人を見かけてしまっても、大家さんは動じないみたいだった。
「こんにちは。大家さん、家賃持ってきました」
「あら、気がつかなくてごめんなさい。お待たせしちゃったかしら」
「いえ、私まだピンポン押してなかったんです」
「そう? ならよかった。今はんこ持ってくるから、ここへ座って待っててもらえる?」
 言われた通り、縁側へ移動して座る。石塀で囲まれた敷地内の、とりわけ縁側の正面には、名前のわからない花がたくさん咲いている。
 はんこと領収証を握りしめて戻ってきた大家さんに、「お願いします」と家賃袋を手渡した。
 おそらく七〇代であろう大家さんは朗らかで、会えば笑顔で挨拶を交わすけれど、世間話を振られたことは、ほとんどない。だから月に一度のこのやりとりも、毎回楽でスムーズだった。
 二階の自室へ戻るついでにポストを覗く。見覚えのある封筒が届いていた。神様、と思う。
前回と前々回と同じ展開に、中の文字が透けて見えるようで落ち込みたくなったけれど、まだ判らない、と自分に言い聞かせて階段を駆け上がった。
 玄関ドアの鍵を閉めて、泥でも跳ね上げるみたいに靴を脱いで、ハサミを掴んで部屋の真ん中に座り込んだ。接着部分にハサミを入れるも、気持ちが急いてがたがたになる。
『親に、頼んでみよ』
 安積あづみの声が頭をよぎった。ここでその言葉は違うやろ、と笑いそうになる。きっと安積が相変わらずなわけではないのに、変わらない。
 気持ちをしんとさせ、中身を引き出した。簡潔な印字の羅列を読む。落選の知らせ。さっきまでは昼間の色だった部屋が、いつの間にか陰っている。


***


 文化祭の喧騒が、まだ校舎の片隅に残っているような、振替休日明けの放課後。誰もいないと予想して入った教室に、安積がいた。小高さんの席に座っている。
「何してんの? ひとりで」
真絵まえさんこそ」と言った安積の視線は、あたしが首から提げている一眼レフカメラの前で止まった。
「あたしは写真を撮りに来てん」と、一応答える。窓から差す秋陽が、色を変えはじめていた。こんな日は、教室がオレンジ色に染まる。
「さすがやな、スマホじゃないんや」
 さすがって何? と思ったが、ただの口癖かもしれないので受け流す。
「うん、一眼レフがいいねん。なあ、撮ってもいい?」
「え、俺?」
 目を丸くした安積(あづみ)が、少し大袈裟に体をのけぞらせたあと、ふざけた感じで髪型を整えはじめたので笑った。
「うん、でもそんながっつり安積を撮るつもりではない」
「なんやねん、期待させんなよおい」
どきっとさせやがって、とぼやきながら小高さんの机につっぷした安積のいる窓際の風景を、すかさず撮る。
「なんでやねん」
 シャッター音に反応して、安積が顔を上げた。
「いいシーンやったからさ。小高さんの机ってとこも含めて」
「もー、心読まんといてや」
「自分で言うてたやん。体育館のステージ上から愛を叫んでたやん」
「そのせいで俺はフラれてん」
「何言うてんの、恋は積み重ねなんやで」
「告白すんの早かったと思う?」
 素早く素直な質問を投げてくる安積を見て、純粋さに感心した。たぶんこういうところが、みんなに受け入れられているのだろう。安積は友達をつくるのが上手だった。
 別棟の音楽室から、吹奏楽部の揃わない音が流れてくる。校庭からは陸上部のピストル音。金属バットやラケットがボールを打ち返して、ほんの一瞬の歓声。教室のオレンジ色は、その色味を強めていた。窓を開けて、生徒たちの散らばる校庭にカメラを向ける。安積は、さっきから机に載っていた紙に何かを書きはじめた。
 廊下へ出ると、もうすでに少し暗かった。残念に思いながら、シャッターボタンを押す。すぐ横にある階段から軽い足音がして、隣のクラスの野々原さんが姿を現した。
「田町さんやん。何してるん?」
「写真を撮っててん」
「そうなんや、さすがやな。秋(あき)まだおる?」
 さすがってまた言われた、と思いながら「おるよ」と窓の方を指差すと、野々原さんは「秋ー、書き終わったぁ?」と保護者っぽい口調で言いながら、あたしの前を通り過ぎた。
「書くことないねん。助けてまじで。俺にはもう無理やわ」
「安積は何を書いてんの?」ふたりの方へ歩きながら聞く。「ラブレター?」
「ちゃうねん、反省文やねん。文化祭のあと俺、職員室に呼ばれてめちゃめちゃ怒られてん」
 安積たちのバンドは、文化祭のステージでコピー曲とオリジナル曲を演った。オリジナル曲は、嫌味な教頭の悪口。安積がシャウトして、体育館が揺れるほど盛り上がった。
「反省文を書かされる人って、ほんまにいるんやな」
 記念に撮る。
「撮んのかい」野々原さんが笑った。
 下駄箱を出る頃には夕暮れだった。校庭で円陣を組んだサッカー部が終わりの挨拶をしている。
 見上げるといくつか星が瞬いていて、訳もわからず切なくなった。前を歩いていたふたりが振り返って、「どうしたん?」と野々原さんに聞かれた。
「なんでもない」
「空を見るタイプの人なんや」
 安積が見破った。揶揄われない気がして「うん」と認める。
「さすがやな」野々原さんが再度そう言って、安積は黙ってこっちを見ていた。
 家が近所で幼馴染だというふたりと、通学路にあるファミレスへ寄った。野々原さんとドリンクバーを選びに行って、「うちら、ちゃんと喋るん初めてやんな」「ほんまやな。真絵って呼んでいい?」「あたしも美央(みお)って呼んでもいい?」などとお互い微妙に照れながら言い合った。交代でドリンクバーから戻ってきた安積が「文化祭と俺の失恋と反省文に」と言うので乾杯した。
 店内は満席に近く、大学生っぽいグループや同じ制服の他学年のグループも近くにいて騒がしかった。焼いた肉のにおいとカレーのにおいがする。「反省文、一緒に考えてくれてほんまにありがとう!」と大きな声で言われたので、「いい思い出をありがとうやわ、こっちも。反省文とか、紛れもなく青春やもんな」と素直に返した。
 皿いっぱいに盛られたフライドポテトが運ばれてきてテーブルの上に載った。フォークで刺すとカサ、と音がして、一瞬逃げたみたいに見える。
 安積が何杯目かのドリンクを注いできて、過去の失恋の歴史を振り返りはじめた。その傾向まで熟知しているらしき美央が、「小高さーん」と嘆く安積に向かって、「秋、大丈夫やって。すぐに冬来るやん。冬はまた新しい季節やろ?」と声をかけている。
「美央、素敵なこと言うなあ」
「ちゃうねん。秋の恋がだいたいワンクールで終わるからやねん」
「嘘やん」
「残念ながらほんまやねん」
「ドラマチックやろ?」安積が胸を張る。
「もはやパフォーマンスちゃう? 持ち時間わずか十分のステージで、どんだけ全校生徒に話題提供すんねん」
 美央は呆れているようにも楽しんでいるようにも見えた。
「ステージから小高さんが見えてん。そしたら好きって叫びたくなってん」
「いいなあ、そういうの。心がタイミングやってんやな」
 なんとなく思ったまま言ったあとで、自分の言葉がダサかったことに気付いた。掻き消したくて、ポテトを連続して口に運ぶ。
「なあ、俺、文化祭で写真部の展示見てんけど、真絵さんのやつめっちゃよかったで。なんか、なんでこんなに純粋な写真が撮れんねやろう、と思ったわ」
 丁寧に褒められると、言葉が浮かばなくなってしまう。気恥ずかしさを誤魔化すみたいに、メロンソーダをちょっとずつ飲む。
「秋、私にも言ってたもんな。……あれ? なんか、冬のヒロインはここにいてる気が」
「いや、ヒロインは遠慮しとくわ。眺めとく方が楽しそうやし」
 仕切り直すように笑った。
「遠慮とか言うなよ。どんだけ俺の傷をえぐる気やねん」
 テーブルにグラスを戻すと、氷の汗で少し滑った。

***


 夜行バスは、定刻通りに新宿を出発した。明日の朝八時過ぎに梅田へ着く予定だ。
 三年ぶりだった。大阪も地元も、美央の顔を見るのも安積に会いに行くのも。
 各バス停への到着予定時刻や車内設備など、高速バス特有の音量でアナウンスを続けていた運転士の声が止むと、みんなが一斉に息を吐いたみたいに、車内の空気が弛んだ。ほどなくして、乗客たちはカーテンを閉めはじめる。
 周りに倣ってカーテンを閉めたあとで、頭をその内側へ潜らせた。埃のにおいとガラスから伝わる冷気には直に慣れる。座席は最後部を指定した。後ろに誰もいない方が、気を遣わずにいられる。
 実家へは、帰らないし知らせなかった。四年前に大幅なリノベーションをして、姉家族が同居しはじめた。あたしの部屋だった場所は姪っ子の部屋に変貌して、壁紙の色も違う。今では帰るというよりもお宅訪問の感覚に近い。家族には違いないけれど、口に出せない疎外感がある。それに「いい加減、就職くらいせなあかんやろ」「結婚する気はあんの?」「一歳でも若い方がいいんやで」などと普通のことを電話口で捲し立てる母や姉の声色を思い出すと、やっぱり帰省はしなくていいや、という気分になるのだった。
 先週二十八歳になったけれど、未だにフリーターで、将来の展望も今のところ見当たらない。地元の友達を中心に結婚報告が増えてきたけれど、自分が誰かと結婚するイメージなどまるで湧かないし、切迫した感じもない。東京に住んでみると、良くも悪くも自分がぼやけた。周りが煌めいて見えるせいだ。
 車窓から眺める東京の街並みには、今でも胸が小さく弾む。もうすぐ東京タワーが見えてくる。飽きることなんてない。
 ただ、それでもどうしようもない気持ちになることはあって、アパートの部屋に秒針の音だけが響く深夜に、自分だけがこの世に独りぼっちでいる気がする。「夢があっていいね」というテンプレートの台詞に対しては、未だ返す言葉に詰まる。もしかすると自分は、夢に縋っているだけではないかと疑心暗鬼に陥ってしまう。そんな日は、怒涛のごとく将来への不安が迫ってきた。だから何かしらの電波に頼る。それか、神様を呼び出す。
 神様、今どこにおるの? 神様、不安やねんけど。神様、どうしたらいい? 神様、返事してや、神様。

***

「真絵って子供の頃どんなやった?」安積に聞かれたことがあった。高校を卒業して、お互い大阪に進学して、バイクに乗り始めた安積が、うちまで自慢しに来た夜。
「うーん、わりと神頼みしがちやったな」
「たとえばどんなん?」
 あたしがバイクに興味を示さなかったことに安積が拗ねて、なぜかアイスを奢らされた。近所の公園で、ぶらんこを漕ぐでもなく漕いで、街灯に照らされたバイクに目をやると確かにきれいだった。
「乗りたい電車に間に合わなそうなときに、神様、あの電車に乗せてください! とか」
「そんなんで神様を呼ぶなよ。もし俺が神様やったら、『家を、あと五分早く出なさい』って言うわ普通に」
「体育がマラソンの日に、神様、雨でマラソン中止にしてください! とか」
「あー、それは俺もやったわ」
 軽く地面を蹴って、ぶらんこを揺らしながら安積が笑った。
「そうやろ? あとは、何か欲しいものができたときやな」
「そこは自力でがんばれよ」
「いや、子供やん」
「子供なりの努力は必要やで? いいけどな。じゃあ『親に、頼んでみよ』やな」
「なんなん、神様さっきから全然優しないやん」
「何でも『はいはい』言うて願い叶えるんが優しさではないやろ」
「何でも『はいはい』言うて叶えて欲しいねん、こっちは」
「その台詞、身勝手な人間そのものやで」
「腹立つわあ。食べたアイス返して?」

***

 車窓に映った自分の顔が、ちょっと笑っていた。
 夜の中で、朱色に膨らんだ東京タワーが、ビルの後ろから姿を現してまた隠れた。クライマックスは一瞬で過ぎてしまうけれど、残像はいつまでも残っていく。
 夜行バスは坂道を上って首都高に入った。星屑にも宝石にも喩えられそうな数多の灯りに見下ろされながら、イヤホンを耳にさす。再生。音楽が流れてくる。高二の文化祭で、安積が歌った曲。卒業式の日の夜、クラスのみんなでカラオケへ行ったときも安積が歌っていた。女子が半分くらい泣いた。成人式の夜に、同窓会みたいになった飲み会の最後、酔いに酔ってみんなで歌ったこともある。あのときは、みんなが意外と歌詞を覚えていてグッときた。
 窓に映る自分が、今度は子供のように頼りない表情でこちらを見つめている。楽しかったことを思い出しているだけなのに、どうしてこんな顔になるのだろう。安積がもういないから、という答え以外を思いつかない。
 五年前、バイクに乗った安積は、信号を無視しながら走ってきた車にはねられた。目撃者が数名いて、その人たちが、急いで救急車を呼んでくれたり、走り去ろうとした車のナンバーを撮ってくれたり、警察に証言までしてくれたという。
 できることならば、安積は自分でその車を追いかけて、「おまえまじで何してんねん、痛いやんけ、謝れやおい。人はねといて逃げんなよコラ」とでも言いながら、掴みかかりたかったかもしれない。でも、何もできなかったのだ。事故の知らせを聞いて、だからあたしはまず、逃げ去ろうとした車の運転手に対する怒りよりも、それよりも、体が飛ばされて路上に転がった安積に、力を貸してくれた人がいたことが嬉しかった。たとえもう間に合わなくても、そのときの安積を、助けたいと思ってくれた人がいたこと。
『真絵は写真をやるべきやで』そう明るく言い切ってくれたのは安積だけだった。


***


 就職が決まらないまま大学を卒業して、一年間、兵庫県にある実家へ戻ってアルバイトをしながら過ごした。九十二万円貯まったとき、上京した。本当は百万円を目標にしていたけれど、毎日閲覧していた求人サイトの新着情報に「都内」「カメラマン」「正社員」「土日休み」という求人を見つけて、急いで応募してみると、面接が決まったのだ。
 落ちたらまた実家で、とは考えなかった。感性が折れてしまうことを漠然と恐れていた。写真はどこにいても撮れるし撮ってもいたけれど、刺激を受けたかった。東京を撮りたい。あの街で磨かれたい。本当は、大阪に住んでいた頃からそう思いはじめていた。
「そのぶん、あんたみたいな子らが潰れていく街でもあるわけやろ?」と真剣な声色で母は言うし、自分に才能があると勘違いしている奴、地元を馬鹿にする嫌な奴と思われることが怖くて、地元の友達にはあまり本心を言えなかった。当時は美央にすら、言葉を選んだ。その頃、美央は四年続いた恋人と終わりそうで、とても元気ではなかったから。
 だけど安積には、いつでもどんな話でもしていいような、そんな空気があった。


***

 
 高二の文化祭以降、「写真見せて」と安積が気まぐれに写真部の部室へやって来るようになっていた。
「なあ、写真部じゃないのに部室まで来る人、あんまりというか、他におらんねんけど」
「あかんの?」
「いや、いいねん写真気に入ってくれて嬉しいねんけどな」
「けど、何?」
「周りがざわつくねん。『真絵先輩、文化祭で活躍したあの安積先輩と付き合ってるんですか?』とか言われんねん」
「『活躍』て」
「うん、あたしもそこは笑ってんけどな」
「いいやん別に。周りは気にすんな」
「いいならいいけど……安積は誤解されて大丈夫なん? 新しいヒロインまだ決まってへんの?」
「……うん」


***


 ビル群が遠ざかって、徐々に開けた冬の夜空にいくつか星が瞬いて見えた。車体は明日に向かっているのに、自分だけ過去に向かっているような夜。
 サービスエリアの標識が視界に入ってくる頃になると、イヤホン越しに車内アナウンスが聞こえはじめた。カーテンの外側へ出てイヤホンを外し、バスの発車時刻を耳で確かめる。
 コートを座席に置いたままバスを降りると、予想の倍寒かった。はーっ、と空中に息を吐いて、やっぱり白い、と確認してからトイレを目指した。
 トイレには、歯磨き目当てで来た乗客が自分の他にもちらほらいて、小さな合宿にみんなで来たみたいな、非日常的な気分に少しだけなる。そんな気分を残したまま歯磨きを済ませて、美央に渡す手土産を探しに行ってみたけれど、売場を彷徨う人の多さと発車時刻との兼ね合いに気を取られて、結局、東京代表といえばこれ、みたいな銘菓を手にレジへ進んだ。
 バスを降りたときには開放感しか感じなかったのに、そのバスまで、これから数分内に確実にたどり着かなければならないと考えると、何かミッションを課せられたみたいで落ち着かなくなる。目の前の駐車場は広大で、とにかく色々な車が停まったり動いたりしていた。それでも記憶に従ってバスを見つけ出し、乗り込むまえにスマートフォンで時刻を確認すると二十三時五十八分。発車まではあと六分あるから、バスの乗降口から少しずれて立ち、明日が今日になる瞬間を、夜空を見上げて待つことにする。日付が変われば安積の命日だ。
 地球の内部に立っているあたしと、あたしが今眺めている星との間には果てしない距離が存在するというのに、遥か彼方である実感が、どうしても湧いてこないのはなぜだろう。そして安積は、あの星より遠いどこかにいるのだろうか。それともやっぱり、いないのだろうか。知りようのないこととして、そのまま自分の中に残しておくしかないのか。右脳でも左脳でもない、どこかとっても狭い部分に、安積のスペースがずっとある。
 手荷物をぶら下げた乗客たちが早足のままバスに乗り込んだ。再度時刻を確認すると午前〇時一分。明日が今日に変わっていた。
 バスが出発して、消灯してもすぐに眠るのはなんだか惜しい感じがして、再びイヤホンを耳に入れてカーテンの中に入った。どうせなら、暗くて退屈なバスの車内より、大阪へ向かう道程を眺めていたくて。
 スマートフォンが一度だけ震えて、画面を確認すると美央からメッセージが届いていた。
「改札で待ち合わせやと、真絵が迷いそうやん笑 八時過ぎにバスターミナル行くから待っといて」
『行くから待っといて』
 安積、と思う。


***

 
 上京して一年半が経ち、野心は徐々に腐りはじめていた。
 上京のきっかけとなった面接に、あたしはその場で落ちた。ただ、その小さな事務所で受けた社長面接で「うちでモデルをやってみますか? 募集するほど仕事はないから、不定期だしバイト採用になってしまうけど」という予想外の展開をもらえた。「モデル」という響きに、そのときは興奮した。さすが東京、ドラマがあるわぁ、と。
 愛想のいいカメラマンがやってきて、「そのまま、カタログを読んでるふうで。表情は優しく」という感じにイメージを伝えられ、テンポよく撮られ、再度、軽い面接のような時間を経て帰った。
 撮影中は、知らない人の人生を覗いているような高揚感もあり、もしかしてあたし向いてるんちゃう? と舞い上がれたし、写真は公募の方をがんばればいいやと切り替えたけれど、学びしかない、プラスしかないとポジティブ思考にもなれたのは束の間で、続けてみると仕事はあってないようなものだった。公募に落ち続けていたことで、荒んだ部分も大きかったけれど。収入源のほぼ十割が深夜まで入る焼き鳥屋のアルバイトだけになってしまい、「モデルのアルバイトをしています」などと胸を張れるわけもなくて。むしろ親にさえ言えなかった。
「でも続いてるんやからすごいやん」
「すごないよ、全然。呼ばれん月が普通にあるねんで? だいぶ都合のいい女みたいやん。しかもあたしはあたしで、そこのカメラマンが辞めへんかなあって密かに待ってるねん。そこでカメラマンやりたいっていう下心があんねん。嫌やろ、なんか」
 あの頃、いつも電話をくれる安積に甘えて、文句ばかり言っていた記憶がある。
「そんなん全然嫌ちゃうよ。何もないより、野心に燃えて動いてる方がいいやん。人生楽しいやろ」
「野心なんかない方が生きやすいわ。楽しいのかどうかも今は微妙やねん。でもがんばる。自分で決めたことやし」
「そうやな。じゃあご褒美に俺がまた会いに行ったるわ」
「……何でいっつもご褒美が安積やねん。あたしは安積より写真の仕事が欲しいねん」
「ちょ、なんてこと言うねん。喜べよ」
「それは無理やわ」
フリーターのあたしは、先に社会人になった安積に対して、勝手に負けた気がしていた。社会人が、毎週末フリーターの愚痴に付き合っていて楽しい? なんて意地悪な気分になる瞬間もあった。
「真絵は強がりやもんな」
「なんでそうなるねん。強がりちゃうし。それに安積の方が仕事で忙しいやろ」
「俺は大丈夫やで。冬休みになったら、東京行くから待っといて」


***


 そんな会話を思い出しながら眠ったせいだろうか、安積の夢を見た。五年経って、はじめて夢に出てきた。
 夢の中の安積は笑ってなかった。困ったように、そこに立っていた。急いで駆け寄って、「安積、今までどうしてたん? なあ、なんで笑ってへんの?」と尋ねてみても何もこたえずに、ただ立っている。

***

 
 バスターミナルまで迎えに来てくれた美央ははじめて見るショートヘアで、金色の細いピアスが耳たぶの下で揺れていた。
「久しぶりやん! 美央、ショート似合ってんなあ」
「ありがとう! 真絵もセンター分けとそのコートめちゃ似合ってんで」
「がんばって前髪伸ばしてる途中やねん」
「ずっとぱっつんやったもんな」
「そうやねん。それにしても美央の顔見れて嬉しいわあ、三年ぶりやん」
「全然そんな気もせえへんけどな」
 とりあえず朝ごはん食べようや、と言いながら外に出る。
「なあ、梅田ってずっとこんなんやった? ここどこ? ってなってるねんけど今」
「三年前もこんなんじゃなかったっけ?」
「こんなやったっけ? でも一人やったら確実に迷ってたわ、ありがとう」
 久しぶりに友達と会えた興奮のままに「あたしな、安積の夢見てん。この五年間、一回も見たことなかったのに」と打ち明けた。
 すると、美央が「実はな、あたしも昨日はじめて安積の夢を見てん」と言うので、ぎょっとした。
「どんな夢やった?」
「ぱっと見たら、秋がそこに立っててん。でな、『秋!』って叫んで、秋に飛びついて『どうしたん? 何してるん?』って聞いたら秋、困った顔してん。ほんでな、『悲しいて仕方ないねん。真絵と約束したのに、最後会いに行かれへんかってん』って言うてたよ」
 あたしは、朝の梅田の雑踏の中で、美央の姿を目で追いながら、歩くことを忘れてしまった。
 数歩先で、美央が振り返って、優しい顔で戻ってきた。そして「真絵、」と小さな声で名前を呼んで、背中を何度もさすってくれた。
 何をどう受け取ればよかったのか。
 本当は、「死別」という言葉で、死別はくくれないんじゃないだろうか。
 突然の、あれは別れではなかった。ただ、ある日、秋の人生が終わったことを知らされただけ。ただ置いて行かれただけ。
 残った人は、消化できなくなった感情を、自分の体内で、血液みたいに巡らせ続けて生きるしかないのだろうか。でもそれだと、安積の人生がかなしくなってしまいそうで、余計につらい。
 生きていた安積は、確かに笑っていた。うるさいくらい喋って、歌ったし、寝たら起きた。
 楽しいことばかりを思い出す必要もないはずなのに、楽しかったことばかりを思い出す。

 
***


  大阪駅からJRに乗って、しばらくすると時間の速度が緩んだ気がした。車窓からの風景が変わらなくて懐かしくて、電車を降りると触れる空気はやはり慣れ親しんだもので、帰ってきたことを実感する。実家に連絡しなかったことを、ほんの少しだけごめんと思った。
 駅前には無論タクシーが待機しているけど、あたしたちは歩いて行く。喋りながら歩く30分なんて早い。途中でお供えの花を買った。
 大学から大阪に住んでいる美央は今でも地元にはよく帰っていて、安積のお墓へも毎年来ているという。
「わたしが来たって、秋ももう『なんやまたおまえか』みたいな感じかもしらんけどな」
 と美央が言うので、いつもの軽口とわかっていても、
「そんなはずはないで。美央は安積の理解者やったやん」
 と本心で返したくなった。美央は高校の頃に見ていたような顔で「ありがとう」と笑ってくれた。
 墓石のまわりの落ち葉を拾って、花立に水を足してお花を差し、残りの水は棹石の上にかけた。美央と並んでしゃがんで、お線香をあげたらしばらく黙った。
「あ、お土産も持ってきてん」
 包装された小さな箱を鞄から取り出し、ひとつは美央に手渡した。もうひとつは「ごめん、下に敷く紙がないわ。帰るまでの間やし、ティッシュの上に置くけど許してな」と一応謝ってからお供えした。
 見上げると、小春日和。気持ちが凪いで、安積はここにいるんだな、と素直に思った。
 それぞれの近況を安積に報告した。美央は、会社の先輩と付き合いはじめたこと、その人はとても優しくて面白くて、今すぐ結婚したいほどに好きであることを切々と伝えていた。
 あたしは、相変わらず公募に落ち続けていること、けれど本命のコンテストで、ようやく一次選考通過できるようになってきたこと、焼き鳥屋のバイトをついに辞めて、今は小さな写真館で働いていること、そこでもやっぱりアルバイトである、ということを伝えた。


***

 
 三月。東京は桜が満開を迎えて、もしかしたら今年いちばん、街行く人々が空を見上げているかもしれない今日。すぐそこで、大家さんが庭の花に水をあげている。
  あたしは相変わらずアパートの庭にうずくまって、今は蟻の行列を眺めている。
 住人の誰かが食べ歩きでもして落としたのか、クッキーのかけらに似たものを、蟻たちが巣へ運んでいる。手をチョップのかたちにして、しかし潰さないようにそっと、その行く手を塞いでみた。さあ試練だよ、どうする? という感じで。すると、まあ予想通りではあったけれど、蟻たちは最初こそ慌てふためいたふうな行動を見せたものの、すぐに慣れて、回り道をして、あるいはあたしのチョップを越えて、目的地を目指してゆく。
 たくましいね、と心の中で声をかけた。

***


 御堂筋を横切って、アメ村も通り過ぎて堀江に出た。今、桜がまさに見頃だけれど、やっぱり夜はまだ肌寒い。あたしたちは、大学卒業を目前に控えていた。
「美央の彼氏、めっちゃいい人そうやったな」
「遅くなったら迎えに来てくれるんはいいな。安心やわ」
「うん」
「俺ら、もう学生じゃなくなるねんで。信じられへんわ」
「未来のことひとつも決まってへんけどな」
「いいやん、自由に生きたら」
「それもそうやな」
「なあ公園寄ろうや」
 日付が変わりそうな時間の堀江公園の片隅には、肩を寄せ合うふたりがいたり、漫才のネタ合わせに励むふたりがいたりした。あたしたちはとりあえず無言で何度か滑り台をすべって、「何で無言やねん」と軽く笑い合って、また無言で滑り台の上に戻った。漫才のネタが風に乗ってとぎれとぎれ耳に届く。
「全く知らん人らやけど、あの人らの夢が叶うといいなあ」
「な。あたしもそう思うわ。『がんばれー』って言いたい気持ちになるねんな」
「がんばれー」
「がんばれー」
 遊具の上から、どこにも届かないくらいの声で応援した。そのまま滑り台の上でしばらく喋って、何を喋ったかは忘れたけれどとにかく喋って、また滑った。
 公園を出るまえ、安積はネタ合わせ中のふたりに近づいて「あなたらの夢叶えてくださいね、がんばれ!」と、今度は堂々と伝えて握手を交わした。安積らしいと思った。
 寝静まったビルの間を、文化祭の前日に似た気分で歩いた。隣で安積はあの曲を歌って、それは今夜によく似合う気がして、あたしも一緒になって歌った。
 歌い終わってしまうとやっぱりさみしくて、春の夜風は心地よかった。隣を歩いている安積が「真絵」とやけに発音よく呼ぶから、「なに?」と返事をして、しっかり安積の顔を確認した。
 安積はこっちを向かなかった。ただ、やたら満たされたような横顔で言った。
「真絵はいつまででも、ヒロインが似合う女の子やで」と。







私は兵庫県に住んだことがなくて、写真部でもなかったけれど、私小説です。
最後まで読んでいただけたこと、とても嬉しいです。
ありがとうございました!



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