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白鳥静香先生のメモ帳より 差別の宗教、平等の宗教 (番号未定)

(今回ご紹介する記事は、

白鳥静香先生のメモからの引用です。

白鳥先生自身がご自身の考えをはっきりさせるために
書かれたものですので、
話し言葉ではなく、書き言葉となっていますが、

白鳥先生の思索の雰囲気をお伝えするために、
そのままの形でアップさせていただきます。

アトリエ・スワン事務局)

白鳥静香先生のメモ帳より 差別の宗教、平等の宗教 (番号未定)

宗教にはふたつの面がある。

有限なものへの関心という面と、

無限なるものへの関心という面、

このふたつの面である。

宗教における有限なものとは、

自分の宗派とか、

自分の宗派の勢力の維持、

あるいは、

宗教に関わる自分自身の正当性というような、

そのようなものであり、

無限なものとは、

言葉の最もよい意味での宗教的なもの、

すべての有限なものを越えたもののことである。

宗教とは、

本来、無限なるものへの関心であるのだろうが、

宗教もまた、

有限な世界で

有限な存在である人間という生き物がする

有限な活動のひとつである以上、

有限なものへの関心も完全には捨てることが

できないのである。

(もし、ある宗教が、
有限なるものへの関心を完全に捨ててしまえば、
その宗教は現世で活動することができず、
存続することができないだろう。)

それは宗教の負っている原罪ともいえるかもしれない。

宗教にはどのような宗教であっても、

「有限なものへの関心」という面と、

「無限なるものへの関心」という面、

このふたつの面がある。

もし、

宗教にたずさわる人において、

そのふたつの面のうち、

「有限なものへの関心」という面が勝れば

宗教は差別の根拠へとなってゆくだろう。

しかし、逆に、

宗教にたずさわる人において、

無限なものへの関心という面が勝れば

宗教は平等ということの根拠へとなっていって
くれるだろう。

有限なものへの関心が勝れば

宗教は差別の根拠となってゆくというのは、

ひとつの有限なものを前にした場合(ものさしとした場合)、

すべてのものの価値の差や大きさの差は明確と

なるからであり、

無限なものへの関心が勝れば

宗教は平等の根拠となるというのは、

無限なるものの前ではすべての有限なものの差は

無となってしまうからである。

同じ宗教が一方で、

差別や戦争や暴力の根拠となりもし、

(歴史においてこの実例には事欠かない。)

もう一方で愛と奉仕の人を出したりもするのは、

もともと宗教には、

このふたつの相反(あいはん)する面があったからで
あるのではないだろうか?

有限なものへの関心と、

無限なるものへの関心、

宗教にはこのふたつの面があり、

宗教にたずさわる人がそのどちらの面を重視するか?

ということによって、

宗教は差別の根拠ともなり、

逆に平等の根拠ともなるものなのである。

宗教を差別の根拠とするか?

平等ということの根拠とするか?

それは宗教にたずさわる人ひとりひとりの意志に

かかっているのである。

(もちろん、マザー・テレサのやっていた
慈善事業のようなことであっても、

現世において活動してゆくためには、
有限なものへの関心という面を持っていなくては
ならなかったはずであるので、

宗教といえど、
有限なるものへの関心もまた完全に否定されるべきものでは
なく、
バランスの問題であるとは思うが。)

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