音楽鑑賞雑感 0001

 ソプラノ歌手で誰が好きだと聞かれたら、言下にアリーン・オジェーと答える。もう亡くなってずいぶん経つが、あんな奇跡の声帯と奇跡の才能とを持ち合わせたソプラノはもう出ないのではないだろうか。
 そのオジェーのアルバムに『Love Songs』というのがある。色々な時代の様々な作曲家の手になるラブソングを集めたアルバムだ。CDケース裏面の曲のリストは原語で書いてあって私はろくに読まずにただオジェーが歌っているという理由でそのアルバムを買った。
 家に帰って早速聞いた。やはり曲のリストは見なかった。そして曲のどこを折っても作曲家の顔が出てくる金太郎飴のようなモーツアルトやシューベルトに思わず笑ったりしながら聴き進めたのである。少しく生意気な言い方であるが、その2人以外のそのアルバムに収められたほぼ全ての作曲家の音楽の凡庸さが、オジェーの奇跡の声・才能と奇妙な対照をなしていることで、私は色々なことを考えさせられた。ところがその凡百の音楽の中に隠しようもなく輝く歌が3つだけあるのである。明らかに突出した才能だった。何がと言うのは難しいのだが、何から何まで違うのである。私は我慢ができなくなってCDケースの裏面のリストを見てみた。
 うち2曲はシューマンだった。正直に言って、シューマンなど大したことないとそれまでの私は思っていたのであるが、こういう平凡な一般人の中に入れるとがぜん輝くのだということに深い感銘を受けた。これはシューマンを再評価しなければならない。

 そうして残りの一人。それは、フォスターだった。

 小学校の音楽の時間に歌って以来、おそらく一度も聞いたことのなかったフォスターに、私はそのアルバムの全曲中で最も深い詩魂を聴いた。あぁ、そうか。そうだったのか。そういうことだったのか。
 なかなか人には伝えにくいのであるが、私はその時実に様々なものを理解したのである。深い感動とともに。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?