徒然エッセイ④カタチから入る人
二十六歳のとき、インドに旅行に行った。本当は放浪の一人旅をしたと言ったほうがカッコイイと思うのだが、英語に自信のない私は旅行社の企画したツアーに乗っかった。そのツアーでは私が一番の若輩だった。夫婦で参加した人、独りの人、どうもインドに旅行する人というのは、なんとなくだが、(中国の桂林に旅行したときの同じツアーに下品なじじいの集団がいて不快な思いをしたので、それと比べると)品のある人ばかりだったように思う。そして、男性旅行者のほとんどが一眼レフのカメラを持っていたので、私は「カッコイイなぁ」と思って、日本へ帰るとデジタル一眼レフを買った。衝動買いだ。
それから、旅行に行くときや、登山に行くときはその一眼レフを持って出かけた。大きな一眼レフを持って景色を撮る自分はカッコイイと思っていた。
しかし、腕が悪いため普通のカメラで撮るのと代り映えがしないのと、カメラが大きいため登山のときなど写したいときにはザックを下ろしてカメラを取り出し、写したらまたしまうというのが面倒くさくなり、今ではアウトドア用の小型のデジカメを使っている。私にはそれがちょうどいい。カッコイイからとカタチから入るべきではないと思った。
カタチから入るということで思い出したのが、中学生になってからの勉強だ。母親が、中学に行ったら、小学生の頃のようではいけない、受験競争だからね、みたいなことを言っていたため、当然初めて中学生になる子供の私は、「はぁ、そんなものか」と思い、受験社会で勝ち上がって行くストーリーの上に自分の生活を重ねるようになった。つまり、受験生というカタチに自分を当てはめた。そのストーリーのイメージの中で勉強するようになった。しかし、人生にはいろいろなストーリーがある。私は中学生の前半時の将来の夢は高校野球で甲子園に行き、ドラフト一位で巨人に入ることだった。栄光のサクセスストーリーだった。しかし、その夢は中三で捨てた。イップスという病気に罹ったからだ。イップスになった理由は今ならわかるが、それは体の動きを客観的に見過ぎたからだと思う。スポーツ選手は普通、スーパースローカメラで自分の動きを研究したりしないと思う。長嶋茂雄が言った言葉だが、「ボールが来たら打てばいい」まさにこれだ。私は中三の夏からはマンガ家になるというストーリーの中を生きるようになった。それと並行して受験生というストーリーの中も生きた。しかし、それとは別に、ふつうの中学生の自分がいて、ただ友達とふざけているときが一番楽しかったように思う。それに将来の夢とは別に恋の悩みもあった。いろいろな自分を生きていたように思う。
しかし、中三の二学期には成績不振を理由に父親が私のテレビゲーム(スーパーファミコン)を捨ててしまい、私は家での過ごし方が、勉強か、マンガを読んだり描いたりすることか、テレビを見ることくらいしかなくなってしまった。高校受験が近づくと友達の勉強の邪魔をしてはいけないと思い、友達と遊ぶのを控えるようになり、友達に誘われてサッカーなどをしていても、「受験生なのに遊んでいていいのかなぁ」などと不安になった。いや、不安というより罪の意識に近かった。気晴らしは私のストーリーの中にはなかった。受験生は家で勉強をしていなければならないと思っていた。とにかく苦しい受験を終えれば遊べるんだと思い頑張った。というより、三年生になったときに三者面談で私は地元でトップとされている高校に必ず受かると担任に言われ、それ以来勉強の手は抜いていた。三年生の定期テストの成績は悪いものの、実力テストでは合格点を取っていた。その地元でトップの高校というのが、家から歩いて十分の近さであったし、野球は弱いしで、私にとって何の魅力もなかった。中三の夏に野球の大会が終わってから、プロ野球の夢は捨てたので、半ば自暴自棄でその「地元でトップ」の高校を受けることになった。私の意志ではなかった。その高校に受かると、私は滑り止めで受けた私学とどちらにしようか迷ったが、母が私学に行くならお小遣いは三千円、公立に行くなら五千円、と言ったのが一番の決め手で、公立の「地元でトップ」の高校へ行くことになった。周囲から「行かされた」感があった。そして、受験が終わり「さあ、遊ぶぞ」と思った矢先、高校から数学の宿題が出た。私は「遊べねえのかよ」と思った。高校に行くと担任が数学の主任で、初日から大学受験の話を始めた。私はこのストーリーに乗るのにうんざりしていた。甲子園に行くというストーリーにも未練があった私は野球部に入った。しかし、イップスが治らず、マンガのことばかり考えていた私は野球に集中できなかったため、一年で辞めた。数学もマンガの役に立ちそうにないことを理由にほとんどやらなくなった。理系か文系か選ぶ際、例の数学の主任が理系の数学は難しいから覚悟が必要だ、みたいなことを言ったので、私は文系にした。将来はマンガ家か映画監督になりたいと思い、名作映画を見まくった。手塚治虫は十八歳でマンガ家になったということを知っていたので、私も高校を卒業したらマンガ家になろうくらいに思っていたのに、周囲は受験勉強を強要した。というか、すでに受験生のストーリーの中にいた私はそのストーリーから外れることを、脱落と見なしていた。私は東京の大学に行くことにした。東京で大学に通いながら、マンガ家を目指せばいいや、四年間の猶予期間だ、と思っていた。
私はつまらない大学受験というストーリーを生きた。そのストーリーを意識しながらの勉強は辛かった。勉強はストーリーを背負いながらやるよりも、何も背負わずただ、知りたい、わかりたい、という気持ちでやるのが一番伸びると思う。結局私は高二で自分のストーリーがわからなくなり、統合失調症という精神病に罹ってしまった。受験は上手くいかず、一年浪人して、東京の私立大学に進学した。
私は現在四十代になっても小説家になるというストーリーを生きている。しかし、これは面白いことで、ストーリーを作る仕事が小説家だ。小説を書いているときは、自分の人生のストーリーを忘れることができる。
どうも世の中にはストーリーを生きている人が多いように思う。あるストーリーの中にいて成功していれば安心できるが、外れてしまうとそういう人は非常に不安になると思う。あるいはストーリーに憧れ過ぎていて、例えば、テレビドラマに憧れて医師や看護師になった人が、憧れと違ったとか、ストーリーと現実の違いに適応できないで精神を病んでしまうという人がいると思う。他にも、私を例に挙げるが、私は英会話ができる人に憧れていて自分もできるようになりたいと思っていたが、なかなか身につかなかった。しかし、二年前にヨーロッパに個人旅行に行き英語を話さなければならない環境に自ら自分の身を置いたときになんとかなった。それは英語ができる人のカタチに当てはめてみる視点を取り除くことができたからだと思う。これは日本語でも言える。ようは自分をカタチにはめたり、自分に憧れてはならないと思う。
私は社会福祉士の資格を持っているが、それには倫理綱領があり、有資格者はそれを順守するよう教育される。倫理綱領はいいのだが、しかし、資格取得の際の実習現場にいた社会福祉士の中に、明らかに精神を病んでいると思われる人がいた。その人は社会福祉士という夢に、イメージに、カタチに自分を潰されているように思った。その人は私との会話にやたら専門用語を使った。「自己覚知ですね」とか「統御された情緒関与ですね」とか、正しいのだが、普通の会話としては不自然に思われた。そういえば、政治家の中にも、政治家というカタチから入っている人がいるように思う。演説の仕方、委員会での質問の口調、誰かの真似をしているような議員も多いと思う。例えば、野党は野党らしい質問をするというカタチにはまっていて本来の自分の能力を引き出せない野党議員も多いと思う。与党議員もそうか。
カタチから入る人は、私の一眼レフのように大抵は上手くいかないと思う。
そして、人生をストーリーと見る人も自分の能力を活かせないと思う。あ、これは小説家になるというストーリーの中にいる私自身への批判だ。
しかし、私は、文章を書いていると時を忘れることができる。人生というストーリーから逃れることは時間を忘れるほど夢中になることなのかもしれない。
人生は「死というゴールに向かうストーリー」ではない。あと何十年後かに死ぬことを覚悟したうえで、時間を忘れて夢中になることが、充実した生き方かと思う。
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