【即興短編小説】後藤を待ちながら
サミュエル・ベケットに捧ぐ
○
渋谷駅ハチ公口にて、五十がらみのふたりの男が待っていた。
ひとりは文学の教授で文夫と言い、もうひとりは哲学の教授で哲夫と言った。
哲夫「それにしても、俺たちは誰を待っているんだっけ?」
文夫「後藤だろ?もう何時間待っているんだ。あいつは一向に姿を現さない」
哲夫「後藤は実在するのか?」
文夫「いや、するだろう。なにせ名前があるんだからな」
哲夫「名前があれば実在するのか?」
文夫「無いものに名前はつけられないだろう?」
哲夫「無と言う名前があるじゃないか?」
文夫「じゃあ、後藤は無である可能性があるのか?だったら、無でいいじゃないか。なぜ後藤なんて名前がついているんだ?」
哲夫「そうだな。後藤は無ではない。じゃあ、なんだ?」
文夫「後藤という名があるくらいだから、人間だろう」
哲夫「人間か・・・たぶん日本人だな」
文夫「ああ、後藤だからな」
哲夫「男なのか女なのか?」
文夫「ああ、それは難しい問題だな。後藤は男か女か。人間には必ず性があるからな」
哲夫「まさか人間そのものではあるまい」
文夫「人間そのものがいるとして、そいつは男なのか女なのか?」
哲夫「両性具有、アンドロギュノス」
文夫「本気で言ってるのか?」
哲夫「いや、しかし、このご時世、男なのか女なのかを明確にしようとするのは性的マイノリティの人権を侵害することになるらしいな」
文夫「いや、でも俺は思うぜ。神は人間を男と女に分けた」
哲夫「神の名を出したな?」
文夫「ああ、俺は文学者で神学者じゃないが・・・あ、後藤は学者だよな?」
哲夫「ああ、今夜は後藤を交えて酒を飲みながら、哲学や文学の話をしようと思っていたが・・・」
哲夫は腕時計を見る。
哲夫「五時の待ち合わせが、もう八時だ」
文夫「後藤は来ないんじゃないか?」
哲夫「いや、来る。後藤は来ると決まっているんだ」
文夫「でも、三時間待っても来ないぜ」
哲夫「じゃあ、後藤抜きで飲みに行くか?」
文夫「あ、そうだ、電話しよう。今の時代携帯電話というものがあるじゃないか、忘れていた」
哲夫「新しい道具が発明される。使い方のわからない老人は社会から追い出されていく」
文夫「いや、電話を掛けようと思ったが、俺は後藤の電話番号を知らない」
哲夫「じゃあ、ダメじゃないか」
文夫「じゃあ、ここで酒はないが議論をしようか?」
哲夫「ここでか?まあ、今は秋だから寒くも暑くもないが、しかし、ハチ公前で何を語る?」
文夫「俺たちはなぜ後藤を待っているか、それじゃないか?」
哲夫「なぜ、後藤を待っているか・・・しかし、その問いはどこから生まれたのかな?」
文夫「いくら待っても来ないからだよ」
哲夫「ではこう考えたらどうだろう。なぜ俺たちは後藤を待っているかとなぜ問うのか」
文夫「『なぜ』が二重になったな。ようするになぜ俺たちはそういう思考をするかと言うことだろう?」
哲夫「そういうことだ。なぜ後藤を待っているかではなく、なぜ、そのような問いが生まれるかを問うのだ」
文夫「早く居酒屋に行きたいからだよ」
哲夫「なぜ居酒屋に行きたいか?」
文夫「日本酒を一杯やりながら、おでんを食べたいんだよ」
哲夫「俺たちは後藤を含め三人で酒を飲むことを目的にここに集まっているんだな?」
文夫「そうだよ。後藤と酒を飲むためだよ」
哲夫「後藤じゃなければダメか?」
文夫「え?」
哲夫「あそこにギャルたちがキャピキャピやっている。彼女らを後藤の代わりに呼んでみようか」
文夫「なんだよ、いい歳してナンパかよ」
哲夫はギャルたちのほうに行く。そして、声をかけギャルたちは笑う。哲夫は文夫の元へ戻って来る。
哲夫「ダメだった」
文夫「笑われていたな?」
哲夫「え?おっさんなのにナンパ?マジウケる、と笑われた」
文夫「やっぱり、後藤じゃなければダメだな」
哲夫「ああ、後藤の代わりになる者はいない」
文夫「しかし、もう八時過ぎた。三時間待っている。来ないだろう」
哲夫「いや、後藤は必ず来るんだ」
文夫「その保証は?」
哲夫「あいつは一日が終わるとき、必ずやってくる」
文夫「一日が終わるとき?じゃあ、深夜零時まで待つのか?」
哲夫「来ないことは絶対にない」
文夫「そういえば、俺は今日が後藤と初対面だ」
哲夫「なんだ、そうなのか?俺もだ」
文夫「じゃあ、後藤が来ても後藤を見つけることができないじゃないか」
哲夫「いや、後藤はよくわかるはずだ」
文夫「じゃあ、後藤は何者なんだ?」
哲夫「そう問うこと自体を問うてみよう」
文夫「哲学者は論点をずらす。考えすぎだ。文学では後藤はどんな者か読者が読み解けるようにふんわりとそのイメージを物語で書くのがコツだ」
哲夫「ああ、しかし、後藤はいつ来るのだろう?」
文夫「お?あれを見ろ。真っ直ぐこちらに向かって来る人物がいる」
哲夫「後藤か?」
文夫「おい、あんた、あんたは後藤だな?」
後藤「そうです。後藤です」
文夫「む?あんた随分若いが、男なのか女なのか?」
後藤「わかりません」
哲夫「ふ~む。現代人だ」
文夫「職業は?」
後藤「わかりません」
文夫「わからない?学者じゃないのか?」
後藤「学者ではありません」
哲夫「じゃあ、なんなんです?」
後藤「人間です」
そこへ若者の集団が来た。
若者「おい、後藤、こっち来いよ。そんなおっさんたちの相手はいいよ。俺たちと酒を飲もうぜ」
後藤は若者の集団に入って、スクランブル交差点を渡って行って消えた。
文夫「おい、後藤は俺たちと約束してあったはずだよな?」
哲夫「うん、たしかに」
文夫「しかし、後藤は若かったよな」
哲夫「うむ、学者と思っていたから、俺たちと同じ年頃かと思っていた。若かったな」
文夫「もう後藤は若者の仲間なんだな。俺たちはもう後藤とは飲めないんだ」
哲夫「若いときにしか後藤とは遊べないのかな?」
文夫「じゃあ、今夜は俺たちだけで飲むか」
哲夫「そうだな、致し方あるまい」
ふたりはスクランブル交差点を渡り始めた。
すると、反対側からヨレヨレに酔ったじいさんが歩いてきた。
文夫「あ、後藤先生!」
哲夫「宗教学者の後藤先生か?」
後藤「なんだ?君たちは?こんなところでふたりだけで」
文夫「なんですか?あなたはひとりでもう出来上がっているんですか?」
後藤「いや、付き合ってくれるならばもう一軒行ってもいいよ」
哲夫「じゃあ、行きましょう。私たちは、後藤先生を待っていたのですから」
文夫「しかし、さっき、若い後藤という、男か女かわからない者が来ましたよ」
後藤「あれは若者用の後藤だ。世代によって相応しい後藤が決まっているのだよ」
哲夫「じゃあ、僕たちに相応しいのは後藤先生、年老いたあなたなんですね?」
後藤「そうだ。ジジイだが悪かったか?」
哲夫「いやいや、高名な後藤先生と飲めるとは光栄です」
こうして三人は渋谷の夜の街へ消えた。
(了)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?