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病の哲学と健康の哲学。死の哲学と生の哲学

私は統合失調症という精神病を患っているせいか、健康は大切と知りながら、健康よりも価値あるものを考えてきた。それは満足することだった。人間はどうせ死ぬ。健康であってもいつかは死ぬのだ。だから、健康でなくても死ぬときに満足できるかが重要だと考えてきた。人生で大切なのは健康で幸福であることよりも、病んでいてもいいから最後に満足できるように、志を果たすことが大切だと考えた。

しかし、なぜ、世の中は健康で長生きに価値を置くのだろう?
それは健康で幸福である人たちが、自分たちの状態の素晴らしさに本当に喜びを感じているからだろう。私のように病んでいる人間が、満足しながら死ぬことの素晴らしさを唱えたところで、健康で幸福な人たちはそれをすぐに否定するだろう。
私は死神に取り憑かれているのだろうか?

しかし、「健康、健康」とそんなことばかり気にしている人たちの見苦しさよ。
そういう人たちは健康以上の価値に気づかないに違いない。いや、私の言っている「健康」の概念には偏りがあるのかもしれない。WHOの「健康」の定義にはこうある。
「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます」
ソーシャルワーカーになるための勉強をしたとき、スピリチュアルという言葉が入っていたような気がするが、ネットで今調べたら、入っていないらしい。まあとにかく、私も「健康」の定義をWHOに従おうと思う。しかし、この定義、まるで「幸福」の定義みたいだ。では、「幸福」の定義を調べてみたい。
Wikipediaではまず、「心が満ち足りていること」と書かれてある。それ以降の文章では幸福についての哲学や概念の歴史みたいな内容になっていく。つまりまだ定義できないということだ。それでも最初に「心が満ち足りていること」とあるところに注目すれば、それはすなわち満足のことではないかと私は思う。
今この文章の流れに沿えば、「健康=幸福=満足」という式が成り立たないだろうか?しかし、もうちょっと考えてみたい。とくに健康について。
健康の定義では「肉体的にも、精神的にも、社会的にも、すべてが満たされた状態」と言う。
贅沢過ぎないだろうか?私の場合、肉体的には病気でないにしても「満たされている」かどうかはわからない。精神的には精神病だから満たされていない。社会的には独身で彼女いないし、友達も少ないし、職業も薄給だから満たされていない。「貧しき者は幸いである」キリストの言った言葉を思い出した。私はこの意味を知らない。
健康をWHOの定義とすれば、健康になるには相当困難が待っている。困難だからこそみんな健康を志向するのだろう。健康がこんな定義通りのものだとしたら、私は健康などどうでもいいと思わざるを得ない。いいじゃないか、幸せならば。あるいは満足ならば。
ああ、やはり私は病の哲学を論じる傾向にある。ただし、考えが変わったところがあって、死ぬときに自分の人生に満足できればいいだけではなく、生きている間も満足しながら生きられればいいのではないかと思う。一日一日を満足して送るのだ。それが幸福に生きるということではと思う。これが最近私が考えている死の哲学から生の哲学への脱皮だ。いや、生の哲学ではなく、死を含めた人生全体の哲学だ。

精神の病んでいる人に希望を与えるための「死ぬときに満足できるか」という哲学が死の哲学で、健康な人が今を楽しく生きるための哲学が生の哲学だとしようか。それぞれの人の置かれた環境により哲学は変わるのだと思う。哲学は「これが絶対に正しい」というものではなくて、それぞれの人に合った処方箋のようなものかもしれない。

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