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病気で本当に死にそうなときの哲学

私は数日前、体調を崩し、倦怠感、喉の渇き、下痢、腹痛、頭痛、高熱に苦しんだ。
翌日、医者に行き、コロナとインフルエンザの抗原検査を受けた。陰性だった。
それでも高熱は下がらず、腹痛も治まらず、「これはきっと、大腸か小腸に癌があって、排せつ物が詰まり、腸閉そくを起こしていてそこから来る痛みと発熱に違いない。ああ、俺は死ぬのか、この四十三年の人生はどうだったろう?俺は結婚もせず、小説家になりたいと思いながら夢未だ叶わず、惨めじゃないか?ああ、せめてあと十年は生きたい。十年で結婚して子孫を残して、小説を世に出したい。いや、小説なんかどうでもいいのかもしれない。健康で元気に生きられれば。美味しいものを食べ、好きな友だちと楽しくおしゃべりし、明るくて優しい女性とつきあい(病んでいると女性に求めるのはこの二点になるようだ)、できればその女性と結婚し家庭を作り幸せに暮らしたい」この前、別の記事『病の哲学と健康の哲学。死の哲学と生の哲学』などで私は健康の価値を低く置いて来た。しかし、健康であればこそ死を肯定的に考えることができるし、病を肯定的に考えることができる。私は統合失調症を患ってはいるが、別に普段から死にそうになっているわけではない。身体的には健康なのだ。私が普段から健康主義を批判してきたのは、充分健康である人がより健康でいようとすることへの嫌悪感だったに過ぎない。宗教不在ゆえの健康主義が腹立たしかったのだ。
私は病床にて、どんな人生が幸福かを考えた。私は両親が教師であるため、周囲から教師になるのかと言われてきた。もし、私が大学(教育学部)を出て大学卒業と同時に教師になり、収入の安定した暮らしを送り、数年後に結婚し、子供ができて・・・などという傷のない人生だったら、幸せだったに違いない、と考えた(これが表題の病気で本当に死にそうなときの生の哲学の例だ)。しかし、なぜ、私が教師にならず、大学は哲学科で小説家を目指したかと言えば、これは健康な時の思考だが、「教師には何かが足りない」という私の直感があったからだ。それはたぶん、「幸せの中にいる人は人の痛みがわからない」ということだ。同情はできても共感はできないということだ。(教師のすべてがこうであるとは言わない。これはあくまで私の偏見)

健康は病で苦しんでいるときに渇望するものだ。
それから、もう少し踏み込んで言えば、目の前の人がまさに死ぬとき、なんと声を掛けたらいいだろうか?「人間は皆死ぬものです」などと理性的に声をかけるべきだろうか?私は今回の病で、考えた言葉は、「あなたは天国へ行けますよ」などという一見単純だが、人間が作り出してきた宗教で世界中で考えられてきたような伝統ある言葉だった。他にも死に直面した人には理屈ではなく本当に安心して死ねるような言葉を臨機応変に使うべきだと思う。

それから、私は今回、「夢」の価値を考えた。昼間見る夢だ。それは死を忘れるためにあるのかもしれない。夢を信じる力は生きる力だ。
しかし、私は小説家の夢を信じるのだが、登場人物が死んだりするとどうしても死を考えてしまう。しかし、それは夢の中の死だ。現実の死は文学にも芸術にも取り込むことはできない。

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