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徒然エッセイ⑩中村文則について

中村文則の小説を読んだのは随分前になる。その記憶を辿って、感想を述べてみたい。もしかしたら誤解があるかもしれないが、もしそうであったら中村文則に申し訳ないので予め謝っておく。

私が最初に読んだ彼の小説は『銃』だった。これは彼のデビュー作で、傑作だと思った。日本では銃の所持が禁止されているが、主人公は偶然銃を拾う。そして、こっそり持ち歩く。持っているだけで犯罪なので、小説全体がスリリングになる。主人公の心理描写はドストエフスキーの『罪と罰』を思わせた。これは称賛しているのである。ラストシーンもよかった。あのラストへ向かっていくストーリーの展開は見事だった。
『銃』を読んでから、しばらく彼の小説を続けて読んでいった。
『掏摸(スリ)』はアメリカなどで高い評価を受けたようだが、私は『銃』ほどの感動を覚えなかった。それはたぶん、銃の所持が合法であるアメリカと違法である日本との違いだと思う。それでも『掏摸』の実際に掏る場面の描写は作者が実際に掏摸の経験があるのではと思えるほど見事だった。しかし、『銃』と比べると全体として作品としてのインパクトに欠けるような気がした。私は日常生活に不安を与えるような作品が嫌いだ。『掏摸』はそんな私に嫌われるということは、優れた作品なのだろう。
それから私は何作か彼の小説を読んだがあまり高評価はできないと思った。
『教団X』は書店で見て、その装丁と分厚さに誘われて購入して読んでみた。しかし、性の表現などが、まるで中学生の頃に読んだエロマンガみたいな稚拙な表現というか、稚拙な洞察であるような気がした。この作品に限らず、中村文則の世界の暗黒面の描写は、リアリティを持って書いてあるようだが、リアルでないのがすぐにばれてしまう、造り物の暗黒であるような感じがする。私はこの『教団X』を読んでからは彼の作品を読んでいない。

ノワール小説というのが私の趣味ではないのもあるが、いや、残酷なシーンは私は嫌いではないのだが、しかし、なぜ、社会の暗黒面を書く必要があるのだろう?私が思うに社会の黒い部分を暴露することで、社会の関心をそこに向けさせ、社会を改善する方向に向かわせる効果があると思う。でなければ、単に演出効果として世界、人間の暗黒面を描くことがあると思う。(そもそもアリストテレスの『詩学』では演劇を観て日常経験しない恐怖を感じることでカタルシスを得る。それが悲劇の存在意義だと言う)。大きく見れば悪役の出てくる小説はみんなノワール小説の一種だと考えてもいいのではないだろうか?ディズニーアニメさえ悪人が出てくる。『美女と野獣』の悪役ガストンは最後死ぬ。死ぬ人間がいる一方で、幸せになる主人公たちがいる。あれはハッピーエンドなのか?現実で言えば、戦争の勝利はハッピーエンドなのか?悪人が死ぬのは良いことなのか?悪人も人間だし、誰が彼を悪人にするのだろう?

映画もそうだが、私は最近、歳のせいか裏社会の物語を読むことを好まない。実際現実は暗い事件がある。明るくさせるのも芸術の役割だろう。もちろん物語には暗さも必要かもしれない。しかし、それは娯楽の範囲に留めるべきだと思う。芥川龍之介や、太宰治、三島由紀夫、川端康成など大物小説家の自殺は世間の関心を集めるところだ。私も小説を書いているが、小説が原因で自殺というのは避けたい。現実は小説ではない。文学は現実を構成する一部であるが、現実のすべてではない。では現実とは何か?文学や哲学で導き出せるものではないと私は思う。人生の中で獲得していくものだと思う。リアリティはリアルではないのだ。

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