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泣けることの価値

私は教養のない人と話すのがつまらないと感じていた。
知的な会話以外はいらないと。
だが、もともと私だって教養があったわけではない。

人と話す歓びとは、その相手の話の内容の質で決まるのだろうか?
人間は書物(思想書)ではない。精神は思想書ではない。
思想の違いで対立することもあるが、思想が違っても愛し合うことはできる。

幼い頃、みんなそうだったはずだ。友達が引っ越して遠くに行ってしまうときの別れの際など激しく泣いた。その子の思想が遠くへ行ってしまうからではない。その子の存在が遠くへ行ってしまうからだ。もう遊べないからだ。もう毎日話ができないからだ。話すのが楽しいのは、そもそも他人は自分と違うからだろう。私と同じ人と話をしても意見がすべて一致してつまらないだろう。他者は異なるから価値があるのだ。
この異なる他者と出会えるのは生きているうちだけだ。死別したらもう話せない。その事実に人は泣くのだ。

しかし、大人になると別れを多く経験したために身近な人が死んでも幼児のように泣きじゃくることはないと思う。
私が人生で初めて死別で泣いたのは、小学生の高学年の頃に幼馴染の男の子のおばあちゃんが死んだときだ。夜、布団の中で号泣した。「もう、あのおばあちゃんと会えない。もっと話しておけばよかった。もう話すことはできない」死別で号泣したのは、これが最初で最後だった。
十四歳のときに自分のおじいちゃんが死んで泣いたが、そこには不純物が混じっていた。「人はなぜ死ぬのか」などという本から得た哲学的な問題という不純物だ。泣くときに哲学は邪魔だ。
三十代で自分のおばあちゃんが死んだときはほとんど泣かなかった。
四十歳の小学校の同窓会で同級生がふたり死んでいたことを知ったときも泣けなかった。「俺もそのうち死ぬさ」などと思ってしまった。

私はいつのまにか思想を通して人生や世の中を見てしまっている。
誰かを愛することは思想ではない。人間は書物ではない。
頭の中身で人間の価値が決まるのではない。
生きているだけで価値があるのだ。
その真実を肌で知っているのは幼子だ。
誰かが死んで泣けるというのは人間を愛することの基本だ。

私は涙を捨てたくはない。

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