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『剣岳、見参!』5、室堂山荘の同室者

同室者は無論男性だった。この人が唯一の同室者であるというのは宿の人から聞いていた。
私たちはふたりきりだった。
彼の方から話しかけてきた。
「どちらに行かれます?」
私は答えた。
「あ、明日、つるぎに登ります」
「剣ですか?凄いですね。山はやられて長いのですか?」
「いえ、もう十年やっていますが、一年に一回か二回行く程度です」
「私はまだ登山を始めたばかりで今日は立山を縦走して、別山まで行って剣が見えるかと思いましたがガスって見えませんでした」
などというように山小屋での話が始まる。
私はこの同室者を「いい人だな」という印象を受けた。言い換えてみると気が弱そうな人だな、とも言えた。五十五歳で今までは子供がいるから登山で命を落とすわけにも行かず、ようやく子供たちも自立できてきたから、去年から登山を始めた、ということだ。子供のいない四十四歳の私には、子供がいるから登山ができないという心情がわからなかったが、好き勝手やるヤクザの父親よりはいいだろうと思った。しかし、優しく、言い換えれば気弱で、真面目で善良な人は好きなことをやるというエゴがないぶん損をしているような気がした。
彼は横浜に住んでいて、北アルプスには夜行バスが走っているのでアクセスが良い、私が登山の先輩ぶって「南アルプスもいいですよ」などと言うと、「南アルプスはアクセスが悪くて行きにくい」とのことだった。私は静岡県に住んでいるので、北アルプスに行くには、今回のように南アルプスを迂回して来なければならない。静岡から立山までの最速ルートはYAHOOで検索すると、東京に一度出て、新幹線で富山まで行くというバカらしい結果が出る。私はなんとなく東京に一度出る気はしなかったので、新幹線で米原まで行き、そこから金沢へ出て、さらに新幹線で富山に出た。私は立山黒部アルペンルートを西側から利用したが、彼のように横浜や東京からの人は、東側の扇沢までバスで来て、そこからロープウェイなどを利用して来るのだろう。
彼は「槍は難しいですか?」と言ったので、私は先輩ぶって、「いや、槍は最後の梯子が怖いくらいで、そんなに難しくないですよ」と答えた。「槍」とは槍ヶ岳のことだ。これは登山者ならば必ず一度は登りたい山で、周囲の山から見ても、尖った山頂が目を引く目立った存在である。
こんな会話をしたのだが、ふたりとも初心者で若干私の方が経験があったため、私がマウントを取る形となった。
テント泊についてや、雪山についての初心者トークのあと、私は座布団を枕にして眠った。彼もそうしたようだ。
夕食の時間になると、私たちは別々に食堂へ行った。私たちは同室者だからと言って、別に仲良しじゃないし、それぞれの踏み込んではいけない間合いがある。そこは大人の世界だ。中にはすぐに連絡先を交換する人もいるだろうが、私はそういうタイプではない。少なくとも今は。
夕食はまずくはないが、特に美味いわけでもなかった。いや、美味かったが、たぶん、今日一日は何も山登りなどしていなく、ただの観光客なので、普通の食事が普通に美味しく感じたのだと思う。

室堂山荘の夕食


食後は部屋に戻り、翌日の弁当を受け取ると私は布団に入って眠った。アラームを二時にセットした。朝、私は山に行くときは必ずお湯を沸かしてコーヒーを淹れることにしている(インスタントだが)。そのコーヒーを水筒に入れて、剣岳山頂で飲んでレーズンパンを食べるのだ。宿の人に炊事場はあるかと訊いたら、食堂の奥にあるとのことだった。確認すると一人分しかなかった。「もし、自分の前に使用している人がいたら嫌だなぁ」と思った。まあ、その場合は外で沸かそうと思った。そんなことを考えながら眠りに入った。予定では三時に出発だったが、昼寝もしたし、就寝時間も早かったので予定より早く出発できそうだと思った。同室者は早く起きるという私に配慮してくれ、「夜中にガサゴソ、仕度の音を立てても気にしませんから、遠慮しなくてもいいですよ」と言ってくれた。

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