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戦場へ行くアメリカ兵士の給料ってどうやって決まるんですか?

イラク戦争の時だったか、ふと思ったのだが、戦場に行く兵士の給料ってどうやって決めるのだろう?
命を賭ける仕事に給料、場合によっては死ぬ人への給料。
きっとアメフトや野球の選手よりは貰えるんだろうな。スポーツ選手は命賭けてるわけじゃないもんな、と皮肉に思った。
今、ネットで調べたら、給与等級っていうわけのわからないもので決められているらしい。命の値段?

ところで、日本の医者の診療報酬はどう決まるのだろう?
私は精神疾患があり精神科の主治医がいる。彼の歴代の車が私の知っている限り、ジープ→BMW→ポルシェだった。ポルシェって一千万円くらいすると思うのだが医者はそんなに儲かるのか?
「若い時にがんばって勉強したのだからたくさん貰って当然」と言う人もいるだろうが、がんばった人は医者だけではない。がんばっても金持ちになれない人はいくらでもいる。
今、医者をやり玉に挙げているが、医者は人の病気を治したり、命を救ったりする。だから医療行為に対する報酬は上限などないはずだ。だから、医者はもっと金持ちになってもいいかもしれない。しかしながら、医者などは庶民から見た身近な金持ちさんで、実業界に目を向けたら桁の違う金持ちはいくらでもいる。

レバノンに逃げた方は、その逃げた方法もプライベートジェットというゴージャスなものだった。

そういえば公務員の給料はどう決まるのかわからない。安定した収入が魅力の公務員。彼らには「稼ぐ」という意識がない。真面目に働いていれば上から給料が降りて来る感覚。「倒産」の危険もない。私の父さんも教師で公務員だった。父は退職時、退職金を使って自分で書いた本を自費出版した。校長は退職する時に本を出すという周囲の慣例に従ったのだろう。不況の中、五百万円くらい使ったらしい。地元の出版社だ。なぜ、中央の出版社に原稿を持って行かなかったのかと訊くと、曖昧な答えをする。どうせ自信がないのだ。

五百万円で思い出したが、私の母はおばあちゃんの死んだとき、寺にお礼と言って、五十万円払った。母は電話で「お気持ちでいいでは困ります。相場を教えてください」と言っていた。母は頭がいいのだが、フツウ主義者で、結局フツウの主婦だ。そのくせプライドはあり、私が四十歳になった頃に、「国家公務員の試験って難しいんだね。Ⅰ種、Ⅱ種、Ⅲ種とあるけど、俺が受けるとしたらⅢ種だったかな?」と言うと、母は「あんたはⅡ種じゃなきゃダメよ」と言った。私は負けず嫌いだから自分より上にⅠ種がいることに我慢できなかったと思う。いずれにしろ公務員などになりたくなかった。息子をⅡ種にしたいというのが母のプライドだと思う。社会的にその位のポジションにいて欲しいのだ。そういえば大学受験の時も、その位のポジションの大学に行かなければというプレッシャーがあった。現在、私が「世界一の小説家になる」と言うと、「現実を見なさい」と言う。よくわからない。
そんな母はお気持ちで五十万円払った。信じているわけでもない仏教に。世間体を気にし、周囲の様子を伺うフツウ主義だから「自分で価値を決めていい」と言われると困るのだ。

坊主というのもおいしい仕事だなと思う。意味のわからないお経をあげて、宗教のわからない庶民からお金を巻き上げる。
日本人は宗教というものをもっと考えるべきだと思う。死んだらどうなるか、考えることを嫌って、いざ死ぬと家族は信じてもいない仏教の葬式というフツウを選ぶ。ようするにフツウという人生のイメージの幻想を生きる。

アメリカ兵士はフツウに生きたいと思うだろうか?戦場に行くことがフツウ?そんなわけがないだろう。命を賭けることはフツウではない。アメリカ兵士は命に値段はつけられないことを知っているはずだ。
彼ら彼女らは労働者みたいに給料を貰うために働いておらず、給料を超えて、高い使命感を持って働いているのだろう。

それは他の国の兵士にも言えると思う。高い使命感を持った勇気ある人たちが殺し合う戦争は無益だと思う。

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