ネガティブ・ケイパビリティと「無能な働き者」論,それぞれにある表裏的な2つの意味について

ネガティブ・ケイパビリティの2つの意味

ネガティブ・ケイパビリティがなかなか腑に落ちないのは(以下の本をはじめ,関連文献も少しずつ読んではいるのだが),問題の捉え方について自分の視点からでしか説明できない体質だからなのだろうか。


この体質が

  • すべてが自分語りになってしまう

  • 問題を自分の視点で置き換えて解決したかのように語ってしまう。

あたりの癖につながってしまっている。

他者の問題をどのように受け止めて,言葉にすべきなのかがわからない。他者の言葉や概念をすべて自分の視点に置き換えないとコミュニケーションがとれないので,その過程で齟齬を感じるとコミュニケーションが喧嘩腰になる。その一方で私は他者との齟齬が起きるのが当たり前と思って,齟齬に耐えながらコミュニケーションをとるのが普通と思っているので「わからないことを前提に議論することがコミュニケーション」という型しか持ち得ていない。これは一言で言えば「空気が読めない」ことにつながっている。

他者から見ると「自分にとっては正論と思っている,どうでもいい自分語り的問題を空気を読まず他人に吹っ掛ける迷惑な人間」という評価になってしまいがちである。あらゆる意味で自分の伸び悩みの原因はここにあると思っているが,他者から見える問題の捉え方や伝え方がわからずガラスの天井化していると感じる。このガラスの天井に頭を何度も打ち付けながら「なぜ自分は他者を理解できないのだろう」と悩み続ける行為はネガティブ・ケイパビリティに含まれるのだろうか。外から見ていると単に他者に空気を読まず無駄話を引き伸ばすだけの人間に見えるので,むしろネガティブ・ケイパビリティとは無縁の「すぐ答えを求める攻撃的な人間」に映るのだろうか。ネガティブ・ケイパビリティは態度を示すのか行動を示すのか,その両方なのか,という問題である。

「無能な働き者」の2つの意味

ところで「無能な働き者」にも「組織の言いなりで上っ面の数字だけ帳尻を合わせて結果を残す人間」と「わけのわからないムラの掟より真理の追求こそが組織をよくすると考えて行動する人間」の2種類があって,互いが互いを無能な働き者と認識する構図がよく見られると思う。私は自分のことを後者だと思っている。そもそも組織で働くことに向いていないのであろう。学者向きなのでは,とよく言われるのだが,組織に属する学者は組織の論理に従わねばならないのであって,これが器用にできない人間はやはり疎外される。このような「真理の追求に興味を持ち過ぎて,他者や組織とうまく渡り合えない人間」はどのように生きればよいのだろうか。

それ以前の問題として

それ以前にそもそも論として,このような認識自体が大きな間違いなのだろうか。社会的に生きる人間として悩んではいけないことで悩んでいるのだろうか。「人間そこまであれこれ悩んでいないし完璧な答えを求める人間などいないのだから,もっと割り切って他者と付き合え」と言われるが,割り切り方がわからないのである。「難しく考えるようなことではない,もっと気持ちを楽に」と言われるのだが,それができるのであればとっくにやっている。わからないことはわからないので,自分の言葉,自分の概念で組み立てることしかできないのである。

このような思考様式から生まれる疎外感と共存できる生き方を模索した方が,自分にとってはまだよいのかもしれない。

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