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映画を見てきて両親の毒親ぶりに憤る(前編)

今月はやたらと映画を見ている。今日時点でもう8本。日曜日に見た『パラサイト』と『リチャード・ジュエル』については時宜を逸したのでまた改めて書くとして、今日見た映画の話をしたい。
仕事が早上がりだったので、早稲田松竹の2本立てを見てきた。

『風をつかまえた少年』

飢饉に悩むアフリカ・マラウイで発電風車を作って村の水不足を解消した少年・ウィリアムの話。
予告やあらすじを見て、発明に四苦八苦したりお父さんの執拗な否定に遭う話かと思ったら、結構な尺で教育の重要さと飢饉に蝕まれる人心が語られてて、いい意味で予想を裏切られた。

そこそこ活動的だった村が雨不足と911による経済危機で蓄えを失い、少しずつ窮地に陥る様がとても丁寧に描かれていた。
もともとは先祖伝来のまじないを否定して、ウィリアムだけでなく姉のアニーにも教育を受けさせる程度に意識の高かったお父さんが、カチカチに乾いた大地に鍬を突き立てながら「畑を耕せ!学校も風車も忘れろ!」と叫ぶところは胸が痛くなった。

あまりに丁寧に窮乏を描くものだから、「これバッドエンドじゃないよね、事実に基づく物語だからちゃんと報われるよね!?」とひやひやしながら見ていた。

また、パブリックな場で使われる英語と現地のチュワ語の用いられ方も興味深かった。たとえば姉アニーと恋人の先生は英語で会話をしていて「さすがインテリカップル」と思わされたが、実はそれだけでなく出身地の違いを描くシーンでもあった(後で気づいた)。

本当に教育は大事だと、強く思わされる秀作だった。

『存在のない子供たち』

まったく両親から愛を向けられなかったゆえに「僕を産んだ罪」で両親を告訴した12歳のレバノンの少年・ゼインの物語。

正直、冷静な批評ができない。ゼインほどの搾取を受けたわけではないが、わたしも両親を同じ罪で訴えたいと以前から強く思っている。ゼインの労働や虐待を見ながら、いかにわたしの親たちがわたしを愛さなかったかを思い出し続けて、劇場の灯りが点いた後でも緩く身体が震えていた。

貧乏人の娯楽としてのセックスにふけり無計画に妊娠を繰り返し、産まれた子供の出生届も出さず、苦しい生活(無計画だから当たり前)の補填として子供たちに小銭を稼がせて、あげくにゼインの妹・サハルを大家に売って幼すぎる妊娠をさせて死なせる。
ゼインの両親のありようは、毒親という言葉ですら生ぬるい。

サハルの死後も懲りずに妊娠して、「失った分だけ神様は与えてくれる」「女の子がいい、名前はサハルにする」などと言う母親にゼインは「人の心がない」と吐き捨てる。まったく同意してしまう。

こんなクソ親でも、裁判所という権威的な場所では、ちゃんと子供を愛したいっぱしの親のような言動を取るのだから度しがたい。

己の境遇に対する感受性すら摩耗していたゼインは、家出先で知り合った不法就労の若い母親・ラヒルとその赤ちゃんのヨナスによって人の心を取り戻す。しかしラヒルが警察に検挙されてしまって、子供たちの生活が行き詰まる。教育はないながらも聡明なゼインはなんとか2人分の食い扶持を得ようと努力するが、結局八方塞がりになって泣く泣くヨナスを人買いに引き渡す。
この2人がもがきつつも必死に生きる様がテンポよく進み、まるでロードムービーのような趣がある。社会派の映画のエンタテインメント部分である。

とにかく、『愛せない子供を産むべきではない』というメッセージに心揺り動かされた。人権派は否定するだろうが、避妊に失敗した子供は厳然として存在し、間引かれもせずに生きさせられているのは事実である。
産まれてこない方が幸せだった子供は、残念ながら存在する。

わたしは間引かれるべきたったし、間引かれたかった。

インチュニブが効いてきて頭がラリってきたので、詳述は明日以降にまわす。このテーマはもうしばらく深く描きたい。

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