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映画The Big Lebowski と、福生の現在。

映画 The Big Lebowski は撮影と公開は1999年ながら、作品の舞台は1990年のロスアンジェルスの、60年代青春世代の生き残りの(ボウリングを愛する)だめ男たちを描いています。はやいはなしがかれらは時代からまったくずれまくったまま生きている。ここがむしょうにおかしい。


主人公のdudeは、 Love&Peaceを信条とするヒッピーの生き残り。かれはロン毛にサングラス、白Tシャツをだらしなく着て、暇さえあればマリファナをふかし、カクテルを飲み、バスタブにつかるときは何本ものろうそくをともし、マリファナをふかしリラックスする。


ヒッピームーブメントが世界中の若者たちによって盛り上がった1966年~1967年の夏、かれはティーンエイジャーか、あるいは二十歳前後だったことでしょう。かれは髪を伸ばし、インド綿の服を着て、ビーズの首輪をきらめかせ、真鍮の腕輪をして、ジーンズを穿き、長い髪に花を飾ったノーブラの女の子たちとともに、サンフランシスコでマリファナを吹かし、意識の拡張と称してLSDでトリップをしながらロックを楽しんだことでしょう。Scott McKenzieが歌った『San Francisco 花のサンフランシスコ』が世界中でヒットし、モンタレー・ポップ・フェスティヴァルが5万人を集め、the Mamas & the Papas、Canned Heat、Simon & Garfunkel、Jefferson Airplane、Janis Joplin、Eric Burdon and the Animals (Rolling Stones の"Paint It Black"をサイケデリックなヴァイオリン入りのアレンジで歌った)、 the Who、Country Joe and the Fish、Otis Redding with Booker T. & the M.G.'s、Jimi Hedrix Experience、Ravi Shankarらの演奏で、3日間ぶっ通しでみんなして楽しんだあの夏。dudeもまたあの場所にいたことでしょう。

しかしあれから時は23年経った1990年が物語上の「現在」です。もちろんはdudeはとっくに時代遅れなおっさんです。


他方、dudeのボウリング仲間のひとりはヴェトナム戦争帰還兵、 Walter Sobchak (ポーランド系)。かれはヴェトナム戦争で命懸けで戦い、生き残ったことに過剰な誇りを持っています。しかも激高しやすく、いったんキレたら手がつけられない。そしてもうひとりのボウリング仲間 Donny Kerabatsos もまたポーランド系アメリカ人で、サーフィンとボウリングを愛するフレンドリーな優男。


なお、dude の本名はLebowskiであり、ただの時代遅れなヒッピーのだめ男。他方、同姓同名の億万長者と噂される慈善家 Lebowski もまたロスアンジェルスに住んでいて。この億万長者と噂される Lebowski の 美女妻Bunny は、アホで浪費家のビキニが似合う淫乱です。


物語はLebowskiの呑気で自堕落な暮らしが突然悪漢どもの乱入によって、めちゃくちゃにされ、挙句の果てに大事な絨毯に小便さえされてしまうことからはじまる。実はdude は大金持ちの Lebowskiと同姓同名ゆえまちがえられてたのだった。dude は自分が被った理不尽な災難を、大金持ち Lebowski に「あんたのせいだ、絨毯を弁償してもらおう」と訴え、これをきっかけにdudeはややこしいことに巻き込まれてゆきます。



映画全篇に、ボブ・ディランを中心に60年代ロックがバランス良く配置されます。時代は1990年湾岸戦争の時代だというのに、しかし、かれらはあくまでも60年代の生き残りのだめ男たちです。


この設定でありながら、この映画の主題は、〈男らしさとはなにか?〉ではないかしら。カネか、名誉か、慈善か、はたまた戦争に勇敢に出兵することか、それともLOVE & PEACEか。はたまたいかなる価値観をも信じないニヒリズムに帰依することか。この主題がさまざまな場面でしっちゃかめっちゃかに全面展開されてゆきます。


なお、ぼく自身はかれらの世代ではないけれど、ただしぼくもロックファンゆえ、Jimmi Hendlixも、Doors も、Frank Zappaもそのほかあれこれ聴いていて。したがって、ぼくにとっても、めちゃめちゃおもしろい映画です。





その影響でぼくはふとおもった、いま福生(ふっさ)はどうなっているかしらん。新宿から40分で立川、立川から青梅線で20分で福生である。行こうとおもえばすぐ行ける場所に福生はある。にもかかわらずぼくはもう20年以上、福生のことを忘れていた。


ぼくを含むロック世代にとって、福生の、横田基地の前を走る国道16号線沿線は、フェンスの向こうのアメリカ=横田基地のお膝元であり、沿線にはアメリカ系イタリアンレストラン、ステーキハウス、アメカジ系と軍ものの古着屋、楽器屋などが並んでいます。しかも、かつて1960年代はヴェトナム戦争の時代ゆえ、基地内におさまりきれないまでに軍人を擁した結果、白い家の軍人住宅が16号線沿線に建ち並んでいたもの。日本のロングヘアのロックの人たちはアメリカの匂いを求めて、こぞって福生に住んだり住みたがったりしたもの。


さっそくぼくは行ってみた。なお、福生と言っても、おそらく地元民にとっては駅前に24時間営業の西友があるのどかな地方都市であるでしょう。道路沿いの雑草のなか草花も咲いています。他方、ぼくのような観光客にとっての福生は、福生駅から徒歩20分ほど、国道16号線沿いにある一区画のことであり、ついでに言えば駅と16号線の途中にある怪しげエリア、旧赤線地帯のことである。なお、国道16号線沿いベースサイドストリートはこんな感じ。


あいかわらずこのエリアはフェンスの向こうのアメリカ=横田基地のお膝元であり、沿線にはアメリカ系イタリアンレストランや、ステーキハウスがある。そして近年はタイやヴェトナム料理の食堂もできた。むかしと同じようにアメカジ系と軍ものの古着屋、楽器屋などが並び、ぼくを含むそういう世界が好きな人にはじゅうぶん楽しめる。ただし、福生全体からアメリカっぽい匂いは、むかしに比べたらずいぶん薄まっています。なるほど、1990年の湾岸戦争以降、アメリカは(東アジアへにさしたる関心を持たず)長らくイラクに執着し、かつまたアフガニスタンとどろ沼だった。しかもいまアメリカ軍は、サウジアラビア、ディエゴガルシア島、エジプトなどにおもに駐留していて、東アジアについては中国が覇権を握ることだけは阻止したいものの、しかし、それにもかかわらず事実上、東アジアにアメリカ軍人の数は少ない。福生からアメリカの匂いが薄まってしまった理由の一端はここにある。



趣味のある高額ギター販売&リペア屋 THREE SISTERZ の店主の高齢のご婦人は言いました、「え? アメリカの匂いが薄まった? そりゃそうよ、あなた、とっくに時代は変わっちゃったのよ。アメリカ行ったってアメリカの匂いは薄いわよ。だって、中国人をはじめいろんな国の移民ばっかでしょ。ギブソンやフェンダーのギターだって、いまアメリカじゃあの樹使っちゃだめ、この樹使っちゃだめとか言って、けっきょく使ってる木はぜんぶ東南アジアだもの。いい音なんて出やしないわよ。服だって、あなたが履いてるスニーカーだってそうでしょ、たとえブランドは欧米でも、じっさいは生地だって縫製だって、中国、ヴェトナム、バングラデシュでしょ。」ぼくは彼女のおしゃべりをもっともだとおもった。彼女はぼくに8月26日&27日開催のカニ坂ロックフェスのチラシをくれた。


ぼくはアメリカン古着&アメリカン雑貨の店 GOOD KINGS で、ベティ・ブープのワッペンを2枚買った。ご店主にお勧めのレストランをお訊ねしたところ、かれは福生の伝統的名店、Un Quinto を教えてくれた。ぼくが行ってみると、まだ夕方6時過ぎだというのに満席で40分待ちだった。そこでぼくは近くのステーキハウスChicago's Fussaに入り、いかにもアメリカンな空間のカウンター席に座り、オルガンジャズを聴きながら、ジンリッキーを飲み、血のしたたるUSビーフのサーロインステーキ(内側ロゼ色)200gを食べ、パンを齧った。ジャズもこういう空間で聴くと実にイイ。給仕は日本の女の子で、金髪ポニーテイルで、Tシャツにクロムハーツの十字架ネックレス、腕にハートのタトゥを入れています。ぼくはせめてクラブの一軒でもあればとおもって会計時に彼女に訊ねた。ところが給仕の女の子いわく、「クラブは福生にはないですね。もっと都会に出なくっちゃ。」
「都会って?」
「たとえば立川。」
ぼくは彼女に礼を言ってステーキハウスを出た。


ぼくはまた別の古着屋 HIP HOP SHOP MALONに入った。いかにもアメリカンなゴツいジーンズがたくさん売っている。シルヴァーやゴールドのチェーンも。店主のMalonさんはアフロアメリカン、ブロンクス出身だそうな。ぼくはかれにも同様の質問をしてみた。しかし、やはりかれの答えもまた、「福生にクラブはないよ。」
「じゃ、仕事終わったらどこで遊ぶの?
「家」
「イエー! ・・・そうなんだぁ。」


ぼくはコンビニで、缶入りジャック・ダニエルズ No.7(コカコーラ割り)を買って、飲みながら夜の道を歩き、福生駅へ向かった。



【追記】3週間後のきのう2023年8月12日、ふたたび福生へ行ってみたくなってぼくは土曜日の午後、新宿から青梅特快に乗った。今回は少しだけ馴染んだ気持ちがあって、ぼくはリラックスして夕方まずは富士見通りに直交するふたつの路地、旧赤線地帯を散策した。第二次世界大戦後はアメリカ兵のお相手をする娼婦のお姉さんたちが夜の仕事をしたエリアである。富士見通りに面した店の外壁には(後に知ったことにはリリー・フランキーさんが手がけた)素敵に破廉恥なイラストを描いた外壁を持つ店があるものの、ざんねんながら区画整理に引っかかって、いまは廃墟である。ぼくのような観光客にとってはついこの印象に引っ張られてこのエリアじたいが終わっているかのように受け取ってしまいがちだけれど、しかし実際にはこの街区はいまなお夜になるとタイ料理、中華料理をはじめさまざまな異国の食堂が営業中で、ミュージッククラブも数軒ある。土曜の夜はそれなりに活気がありそうなものの、ただしまだ夕方ゆえ、すべての店は準備中である。


その後ぼくは前回同様国道16号線沿線を散策。GOOD KINGS でぼくは赤いエレキギターを弾くスヌーピーのワッペンを買い、Hip Hop Salon のMalon でアメリカ製のゴツいバギーパンツを買った。そしてMalonの隣の日本人青年のDJのいるバー SURESHOTで、ぼくはソファに体を沈め、紅茶リキュールTiffinの炭酸割りを舐めながらくつろいでハウスミュージックを楽しんだ。帰り際にぼくはDJのおにいさんに訊ねた、「旧赤線エリアに何軒かクラブがあるでしょ、どこかお勧めのお店はありますか?」かれは言った、「ぼくらが行くのはEddie’s です。残念ながら区画整理に引っかかっちゃって営業は年内いっぱいですけど。」ぼくはお礼を言って店を出た。


ぼくは富士見通りを福生駅へ向かって歩いてゆく。おのずと途中に旧赤線地帯がある。ふたたびぼくはこのエリアに吸い寄せられる。まだ土曜日の夜7時代ゆえ、いかにも準備中の店が多い。Club lounge Target といういかにも若い女たちの匂いがする店の前で、日本語上手な異国の青年とぼくは立ち話をした。かれはペルー人三世で、テツローという名前だそうな。もっとも、まだ夜は早く開店まえゆえとうぜん客も誰もいない。かれはぼくに姉妹店らしいCevichitos RestBar"Machu Picchu"というペルー食堂を教えてくれた。いかにも怪しげな紫色のぶ厚いガラスのドアを開くと、ペルー人たちがてきぱき働き、客のペルー人たちも老若男女、陽気におしゃべりしながら飲み食いしている。それぞれのテーブルにはペルーの美しいテキスタイルをほどこしたクロスがかかっています。テツローはぼくに、ペルーの牛丼と説明しつつ、Romo Saltade 1450円を勧めてくれた。ぼくはそれを注文した。待つことしばし、届いたお皿には、ドーム状にもられたごはんのまわりに、細切り牛肉をトマトや紫タマネギと一緒に炒めたものと大量のフレンチ・フライド・ポテトが混ざって乗っていた。想像どおりの味ながら、普通においしい。1450円はやや高いかなとおもうものの、しかしチャージもないし、ぼくは異国のふんいきを楽しんだ。なお、いまの福生の治安はけっして悪くはないものの、ただしこのエリアではちょっぴり気を引き締めて遊ぶにこしたことはなさそうだ。福生はなかなか奥が深い。






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