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「退屈」「無関心」「ダルい」「どーでもいい」「アホらしい」みたいな感情を音で表現すること。‐グンジョーガクレヨン。

ロックもまた「怒り」「悲しみ」「愛し合うよろこび」「愉快」みたいな感情は表現しやすいし世に山ほどあるけれど。しかし、「退屈」「無関心」「ダルい」「どーでもいい」「アホらしい」みたいな感情を音で表現する人たちは少ない。誰だって多かれ少なかれ日常はそんなものなのに、これはいったいどういうことかしらん? 民俗学~文化人類学では祝祭をハレと見なすことに対して、起伏を欠いた日常をケと呼びますね。リスナーにとって音楽はハレ(お祭り)に属しているでしょう。



ところがグンジョーガクレヨンはかれらの表現をけっしていわゆるハレ(祝祭)にせず、むしろダルい日常を不気味に考察し、音響を使ってケの現実(日常)を異化 defamiliarize してみせる。万が一にもまちがって熱狂の炎が燃えたちそうな気配でもあれば、かれらは即座に濡れた毛布で炎を消す。かれらの音楽表現はそういうもの。まかりまちがってもリスナーがみんな揃ってスタンディングしてこぶしを振り上げコーラスするなんてことに、かれらはなんの興味も関心も抱かない。アホらしいから。踊る阿呆に見る阿呆、同じアホなら踊りゃな損そん? 知るかそんなもん、踊るのだるいし。



おもえばもともと音楽はただの音の戯れ、遊びである。しかし近代は音楽にさまざまな役目(目的)をもたせる。国歌は国民の精神的連帯を作るため。軍楽は勇気を鼓舞するため。童謡・唱歌はコドモの情操教育のため。映画音楽はドラマの喜怒哀楽や恐怖の感情をきわだたせるため。ヒット曲は平凡な端役人生を生きるぼくやあなたをあろうことか主役にしてくれる3分間のミュージカルである。調性音楽はそれらの目的を叶えるための表現語法をたくさん持っている。しかし、グンジョーガクレヨンはそんな(不純な?)目的を持たされてしまった音楽になんの興味も抱かない。それどころかかれらはそういう音楽に敵意を抱いている気配さえある。ある意味でそれは、健全な理性と言うこともできるでしょう。しかも、かれらは売る気はないがしかし活動はやめない死ぬまで続ける、そんな姿勢に凄みがある。




かれらはいわゆる「音楽」の断片を(見せガネのように?)ちらつかせながら、しかしいわゆる「音楽」にはゼッタイしない。そんな不敵な意志とともにある音響の遊び。しかも音がイイ。スペイシーで気持ちいい。かれらと比較すると、かのBill Laswellがモードに見えてしまう。





わが友、湘南の宇宙さんは言う、「売る気のない音楽(Rock)があれほどまでに注目された時代は1970年代後半~80年前半以外見当たらないでしょう。つくづくこの時代は異質だったんだな。」




thanks to 湘南の宇宙さん


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