かれは夜に淡い色彩をつける。

有名な人が死ぬと、その人の生涯が履歴と業績によって語られ、評価と賞讃の言葉に置き換えられてゆく。それが死者へのはなむけー"well‐wishing words"-なのだろう。これはやむをえないことだろうとはいえ、哀しいことだ。なぜなら、人が生きること、人が生きたことは業績や評価に還元できない。



少しでもその人と同じ時間をともにした人はおもいだす。かれは斜視だった。かれは左利きだった。かれの背はそれほど高くなく、肩と腕が筋肉質だった。かれが神経質そうに髪をかき上げる仕草。もともとかれは無口で、口をあまり開けないでぼそぼそエッセンスだけをしゃべった。(ただし、かれの言葉はいつも正直だった。かれの言葉はかれが学び、知ったことをそっけなくエッセンスだけを惜しげなく教えてくれた。)若い頃かれはカレーパンが好きだった。かれは女(という存在? それともイデア?)にとてもとても夢があった。かれがキレるとおっかなかった。白髪になるのが早かった。しかもあっというまに白髪がさまになっていった。いろんな眼鏡を持っていた。そんなことをおもいだしては人それぞれに故人を懐かしむ。ただし、こういう他愛もない(?)話題はほとんどメディアには載らない、もっと重要なことがあるだろう、と言われてしまう。ざんねんながらそれは仕方のないことなのだろう。



ヘラクレイトスは言った、人は同じ川に2度と入ることはできない。(なぜなら水はつねに流れ続けるから。)生きることはそういう経験だ。音楽もまた同じこと。音は空中に放たれ、消える。いろんな音がある。ふんわり柔らかい音。鋭く尖った音。ありふれているけれど心地よい和音。奇妙で苦い響き。ふだんならば雑音なのになぜかここでは美しく聴こえる音。それらさまざまな音をいくつか組み合わせ、飽きるまで遊び戯れる。それが音楽だ。たとえ楽譜に記されようが、音源がデジタル録音で残されようが、演奏する経験も、聴く体験もいつも新しい。なぜなら人もまた生きている限り、流れる川だから。人は聴くことがよろこびと発見をもたらしてくれる限りその音楽を聴く。飽きてしまえばその音楽に用はない。いつかまたその音楽と出会いがあるかもしれないし、ないかもしれない。いずれにせよ、リアルな生はいまこの瞬間だけ、過去はエピソードにすぎず、未来は空想にすぎない。ある種の音楽はそういうことを教えてくれる。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?