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John Lydonの、受難に満ちた、無邪気で純粋で、愛に満ちた生涯。

たとえロック・ファンでなくても、セックス・ピストルズはご存じでしょう。そのヴォーカリストがジョン・ライドンで、1975年から1978年にかけて、圧倒的なパフォーマンスアクトで、(なぜかレコード上の演奏だけは巧いものの、実際は)ど下手な演奏のバンドをしたがえて、欺瞞的で嘘だらけのイギリス社会をうんこまみれにした。Sex Pistles はたちまち世界中で話題となり、かれらはあの時代の反逆のヒーローになった。もっともSex Pistols はMalcom Maclarenによってプロデュースされたバンドで、当時Malcomはファッション・デザイナーのVivian Westwood と深い仲だったゆえ、Pistoles のファッションもまた彼女が担当した。女王陛下のお顔に安全ピンを突き刺したデザインは有名になった。


ところがやがてJohn Lydonは、Malcomの傍若無人に怒り、その反動で、みずからPublic Image Limited(PIL)をプロデュースした。PIL はPistols のサウンドを重厚に、破天荒に、発展させ、ともに音楽を作るミュージシャンたちの表現力の高さとともにかれ自身もプロフェッショナルな音楽家になった。


当時ぼくが知り得たことはそのくらいのことだった。しかし、いまやWikipediaがあって、あれはおそろしいもの。John Lydon の評伝的アウトラインが記されています。かれはアイルランド移民の両親のもとにロンドンに生まれ、Benwell Roadのヴィクトリア調の2部屋集合住宅で育つ。Benwell Roadと言えば大英博物館やバービカン・センターの北であり高級住宅街におもえるものの、しかしウィキペディアによると、1956年生まれのJohn Lydonが育った頃は、アイルランド移民とジャマイカ移民たちの、貧困と犯罪に満ちたエリアだったらしい。しかも母親はある日、蒸発。John Lydonはアイルランド系(おまけに貧乏人の子)ゆえ、差別されながらも、ギャングのまねをする陽気でクズなガキに育つ。ただし、同時にそんなかれは4人兄弟の長男、下の連中の面倒もみなくちゃならない。おそらく食事はパンにスプレッドをつけて食べたり、チーズとクレソンがあればまだまし。その他、日々の食事はオートミル、じゃがいも、冷凍野菜だったことでしょう。John Lydon少年は、7歳で(細菌感染性の?)脊髄髄膜炎にかかる。首は痛むわ、熱は出るわ、幻覚は見るわ、吐き気はするわ、地獄を見ています。おまけに父親も仕事の関係でちょくちょく不在。かれは15歳で学校を追い出されるも、けっきょく大学まで進む。そして19歳でPistolsデビュー。


20歳のときに14歳年上の、ドイツ系イギリス人女性Nora Forsterと結婚。彼女は音楽プロモーターとして、Jimi Hendrix やYesの仕事をしていた。なお、彼女の連れ子がAri Upで、SLITS(女子パンクバンドを代表するバンドのひとつ)、そのヴォーカリストになる。他方、2000年以降、John Lydon 夫妻は、Ari Upの双子の息子たちの面倒も見ることになる。双子は読み書きもできなかった。後年Noraはアルツハイマー病になってしまう。彼女は物忘れをするようになり、記憶が混濁し、やがて言葉がおぼつかなくなり、あげくの果てに不可解な行動をするようになったでしょう。しかし、John LydonはNoraを介護し、2023年4月6日の彼女の死まで、44年間添い遂げた。


誰の人生にも地獄があって、人はみんな地獄めぐりを経ることになるものですね。ぼくはまさか、John Lydonの人生に、髄膜炎、アルツハイマー病の妻の介護、そして読み書きのできない男の子たちの面倒を見ていたことなどを知ろうなんておもいもしなかった。ああ見えて、John Lydon、心が綺麗で愛に満ちた立派な人だったのね。いいえ、そんなことを書いてしまうと、かれのパブリック・イメージが壊れてしまうのだけれど。


thanks to 湘南の宇宙さん



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