見出し画像

絶対の『正義』は危険

皆さんは

我こそは『正義』

と言う人を信じますか?私は、このような言い切りには、危険なモノを感じます。そこで、この違和感について、もう少し考えて見ました。

こうした『絶対の正義』による、危険な行動の一例は

キリスト教徒の十字軍

です。こうした

自分の正しさを信じ込む、行動の一因は

絶対の神への信仰

です。最後の審判で、善悪の判定が行われる。こうした発想は

人間の知恵が及ばない

諦めがあります。

さて、私達の多くが影響を受けている、大乗仏教の発想は

私達衆生にも仏の智がある

が基本にあります。この知恵は

全てが我が有
衆生は我が子

と観て

皆がよくなるようにする智慧

です。一方、このように全てを仏の世界と観ると

悪い地獄も仏の世界

となります。つまり

最後の審判的な割り切り

がなくて

『正義』の決め付け

もありません。このような見方をすると

最大多数の最大幸福

求めるのが妥当ではないかと思います。但し、単純な功利主義ではなく

全ての人を尊重するなど
守るべき制約

の中での利益追求です。

こうした智慧の存在と、私達の力を信じること、これが私達日本の、根底にあると思います。ただし、明治維新以降の日本は

天皇の絶対性と国家神道

と言う、間違いを犯してしまいました。

なお、この問題と関連して

進化論

の弊害もあります。西洋文明では、科学的思考法を信じ、その中で進化論を信じる人が多くいます。彼らは

人種に進化の差がある

と言うことで

進化した我々が偉いと
支配を正当化

する発想が有ります。私は、進化論自体を否定しません。しかしながら

進化論の時間尺度は万年単位
今の変化は誤差の範囲

と考えています。現在社会に置いては

進化でなく適応

が行われていると見るべきです。

進化も正義の一面で使われる、危険性を指摘しておきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?