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人工知能についての神学的議論(1概要)

2023年を迎えて、しばらくは

人工知能についての神学論

を書きます。これは、私が学生時代に

McCarthy,J. and Hayes, P.J.(1969)"Some philosophical problems from the standpoint of artificial intelligence",Machine Intelligence, vol.4,pp.463-502.
三浦謙訳「人工知能の観点から見た哲学的諸問題」哲学書房
「人工知能になぜ哲学が必要か」の第1部

にであったときから、50年以上に渡って取り組んできた、問題に対する一つの解決方針です。

さて、学問の世界で

「神学論」

と言う言葉を使うことは、それだけで査読などで、排除される可能性があります。しかしながら

人工知能の限界を超えるには哲学でも不十分

が私の主張です。

なお、西洋の学問には

諸科学の根底に哲学があり
更にその土台に神学がある

と言う発想があります。このことを理解すると、上に述べたMcCarthy,J. and Hayes, P.J.(1969)の論文は

人工知能の根本的議論

を目的とした、野心的な論文と理解できます。

しかしながら、西洋文明の根底には、神への信仰があります。もう少し言えば、マックス・ヴェーバーが指摘したように

学問の前提
に対する
信仰の壁

が存在します。これは、意識されていない場合が多く、それだけやっかいな問題です。

私は、以下の二つの問題点をが、重要と考えます。

  • 神の力に対する到達不能性

  • 科学的研究は客観的手法に拠るべき

まず、神の力に対する到達不可能性は、キリスト教では

人の力は最高でも悪魔や天使のレベル

としています。これは、日本の諸芸で活躍する人が

「入神の技」を使い
メディアは
「神様仏様XX様」
と軽々しく称える

状況と比べると、違いが解るでしょう。

なお、このような、到達不可能性は、キリスト教以外でも、古代ギリシャの哲学者のプラトンが、大著『国家』で提示し、そしてマックス・ヴェーバーが『職業としての学問』でも引用した『洞窟の比喩』で、描かれています。

一方、私達日本人に、聖徳太子の昔からなじみ深い『法華経』には

皆が仏の智慧を持てる

と説いています。このように、人間の到達可能性が違うので

人工知能の到達不可能性が違う
(西洋文明では神でない人間が
完全なモノを作れない)

のは当然です。

次に、客観的手法の重視については、もう少し具体的に言うと

主観的手法の可能性

が、工学的な分野などで抑圧されている。これも、信念の問題であり

神学的論争

と言う見方ができます。

さらに、こうした

仏教的な発想が導く人工知能

の可能性について、考えて見ましょう。

私は

人工知能の前に人間の心を見直す

作業から始める必要があると思います。具体的にいうと

止観(一般に言う禅)
の発想で
全体の絵を描く

力が、一つの目標です。

絵の収束がフレーム問題の解決

が今回の議論の副産物になります。




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