見出し画像

人工知能についての神学的議論(2神の立場は到達不能)

人工知能の研究は、第二次大戦後のアメリカから始まりました。アメリカの研究者は、古代ギリシャからの哲学者から、直接的・間接的に影響をうけています。また、キリスト教の影響もむ意識的に、受けています。

一例を挙げると、ロボットに関して

フライケンシュタインを作らない

と言う議論があります。これは、キリスト教の信仰を前提に考えると

  1. 人間は神のレベルに到達出来ない

  2. 人間の則を越えるのは悪魔のレベル

  3. 神だけに許される創造を試みるのは則を越える

  4. 従って出来たモノは悪魔的なモノ

と言う発想です。

日本人は、この点は軽く「入神の技」等の表現を使います。西洋の宗教音楽を、日本人が演奏したり、歌ったりして時、それに対して

入神の技

と批評すると、欧米人の敬虔な信者なら、怒り出すでしょう。

さて、この様な神の知恵の到達不可能性は、キリスト教だけでなく、古代ギリシャの哲学からの伝統もあります。有名なプラトンの「洞窟の比喩」は、以下の通りです。今回は、マックス・ヴェーバが1917年に行った「職業としての学問」の日本語訳(野口雅弘訳「仕事としての学問 仕事としての政治」講談社学術文庫)から引用します。

<p47から引用>
洞窟に人がおり、縛られていて動けない。この人達の顔は、前にある岩の壁を向けられている。後ろには光源があ。しかし、彼らはそれを見ることができない。この人たちが相手にしているのはただ光源が壁に投げかける影の像で、彼らはその影の像の関連を究明しようとしている。
<引用終わり>

こうした状況に対して、プラトンは

哲学者の知恵は光源を見抜き
「概念」を見出す

と言う解決策を見出しました。しかしながら、マックスベーバーも、指摘したように、神様の知恵は、人には到達出来ないという、諦めがあります。

<上記p56から引用>
学問が記述する世界は存在するに値するのか。世界には「意味」があるのか。そうした世界で存在する意味はあるのか。このような点については、なおさら証明不可能です。こうしたことを学問は問いません。
<引用終わり>

こうした発想から、生まれた人工知能研究は

現実社会の複雑さを抽象化し
理想社会のモデルの上で思考する機械

の研究になりました。これは、初期の人工知能の「記号論」的立場だけでなく、現在のAIの「機械学習」の場合でも

ディジタル化した情報の世界

での働きと言うことでは、どこかに割り切りがある点で同じです。

こうした、割り切りの根底に

信仰的要素

の影響を見ると

無意識の障壁が見えてきます。こうした無意識の障壁を外すことで

人間は思いも掛けない力を発揮する

場合があります。1970年代に、マイクロプロセッサのプログラムを、ハードウエアの設計者に作らせると

デバッグ無しで動く!

と言う、当時としては偉業を成し遂げました。実は、当時のプログラミングの世界では

プログラムにデバッグが必要

と言う信仰があったのです。しかし、ハード技術者は

自分の設計は一発で動く

と言う別の信仰がありました。こした「神々の戦い」は、技術的なブレークスルーにつながっています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?