仏教の修行法の一つ「死体と向き合う不浄観」は、一般には
「欲望を抑えるための修行」
とされている。
しかし、白隠禅師の最初の悟り「厳頭和尚はまめだった」のように
「死んだ人間になりきる」
修行は現在こそ必要ではないかと思う。
死というモノが、身近に合った昔とは事情が異なる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?